因縁の彼方で(3)
竹達審判が短くホイッスルを吹き、クロへと駆け寄っていく。
竹達だけではない。良明と陽、そして彼等を乗せているドラゴン達も、ポールの麓で悶える様にわずかに動いているクロへと心配そうな視線を投げかける。
見た目として本当に痛みに苦しんでいる様にも見えるそんな彼に、軽口を叩いたのは三池である。
「生きてっかー、おーい」
場違いなまでのふざけ切った口調に、大虎選手達はぎょっとし、一瞬とはいえ不快感が混ざった表情すら浮かべた。
が、彼等はそれが自分達の物差しでの話でしか無い事を直後に思い知らされる。
『ちったぁ……』
クロは傍らに駆け寄ってきた審判の姿など見えていないかのように、三池へと視線を向けながら立ち上がった。確りと両足で身体を支え、両手にボールを持ち、気合を入れるように雄々しく吠える。
『心配しろぉおお!!』
直後クロと三池の顔に浮かんでいたのは、雨上がりの空の様に爽やかな、互いを信頼し合う微笑。その瞬間、直前に交わし合った言葉が意味を成さないものであった事を、誰もが悟った。
「禁止エリアへの進入と判定! フリースロー!!」
竹達のコールを聞いたうえで、クロは陽へとボールを渡した。
瞬間、陽はクロを気遣う言葉を言おうとして、やめた。
彼女とすれ違ったクロは、そんな問いかけがナンセンスに思える程に平常の余裕を取り戻していたのだ。今しがたまで確かに痛みを必死に耐えていたはずだが、完全に気持ちの切り替えを終えているのが陽にも解った。
「陽、いけるか」
一連の混乱の間に竜王コートへと上がっていたけやきは、陽とショウの背後から問いかけた。
「はい。絶対入れます」
「よし、では私はディフェンスに戻る」
「了解です」
けやきは頷き、それ以上何も言わずにガイの踵を返させた。
けやきが下した”自陣へと戻りディフェンスにあたる”というその判断は、なにも陽が放つフリースローを信用していないからというわけではない。
陽が得点を入れるにせよ、外すにせよ、けやきがフリースローを投げない事が確定した時点で彼女には他に周辺でするべきアクションが無いのだ。すなわち、フリースローを放つ選手以外が行うべきは、リバウンドを拾える場所への移動か、自陣での待機のどちらかなのである。
むしろ、リバウンドが発生しないという判断の元に大虎高コートへと戻ったけやきは、陽の自信と実力を信頼していると言って良い。
『陽、がんばって』
自分の背から降りた陽に、ショウは姉の様に優しい声で言った。陽は、緊張を持続しながらもすっと消え入りそうな微かな笑みを浮かべる。
良明もたまにはこのくらい素直に妹を可愛がればいいのに、と一瞬陽は思ったが、現在進行形で彼が自分に向けている表情を見て、陽はその考えが途端にくだらない事に思えて自嘲した。
自嘲した陽の表情は、百戦錬磨の戦士の様に凛々しい。
ショウに励まされた少女の三秒後の表情とは、およそ考えられなかった。
良明が陽へと向けていたのは、最善を尽くす事への全幅の信頼を置いた静かなる無表情だった。
(私は、何をいきなり甘っちょろい事を考えようとしてたんだろう?)
陽は数歩歩き振り返ると、視界の中央に竜王高のゴールリングを捉えた。
(アキだって、こういう時に私に救いを求めたりなんてしないじゃんか)
いよいよボールを持つ両手をリングへと掲げ、狙いを定める。
(私が試合が始まる前からずっと不安だなんて事、アキじゃなくてもみんな解ってる。そしてアキやみんなが……樫屋先輩ですらいくらかの不安を抱えて試合に臨んでる事を、私は解ってる)
右手に力を籠め、左手をそれに添えてバランスを取る。陽は、いよいよその肘を伸ばそうと力を込めた。
(それでも躊躇せずに前だけ見て、頑張り続けないと、勝てない。だから誰も不安を口にしないし、自分の中に抱え込んだりもしない)
ベンチの石崎が、観客席の坂が、テレビの前の大虎高校にゆかりのある人々が、一様に口を揃えて念じるようにその瞬間を見守った。
『入れ。入れ! 入れ!!』
陽の手からボールが放たれる。
彼女のすぐ横に待機していた三池、葛寺、宮本の三ユニットがボールの行く先を見極めながら同時に飛翔を始めた事で、辺りに凄まじい風が巻き起こった。
思わず目を細めそうになる陽の足元で、ショウは呟く。
「入った」
ボールは、走馬灯の様な陽の視界の中でゴールリングへと近づいて行く。
果たして入るのか、逸れるのか、目を瞑りたくなる衝動を必死で耐えながら、陽はその瞬間を待った。
電子音が、聞こえた。
「大虎高、一点。ゲームポイント、トゥーオール!!」
「よっしゃあ!」
地面に固定されているベンチを蹴飛ばす様に立ち上がる石崎は、伊達眼鏡越しに陽へと思いっきり手を振った。
「陽ーー!! よくやったぁー!!」
陽は片手をショウの首にかけ、ぐっと親指を突き出して、石崎に弾けるような笑顔を向けた。
「追いついた……竜王高相手に、同点に戻した……」
観客席の坂は誰に呟くともなしにそう言うと、歓声に沸く周囲の中へと溶けていきそうな意識をBコートの戦士達へと向けた。
藤も、英田夫妻も、直家でさえも、口々に陽の一点を労い祝福する声を上げる中で、その場には坂と同じく静かに状況を受け止めようとしている者がもう一人だけいた。
と言っても、竜王高校に対する大虎高校のあまりの健闘ぶりに放心状態になっている坂とは違い、その少女はその先の展開を憂慮しているのだった。
「でも、問題はここから」
海藤は、彼女の顔を振り向いた坂の眼を見てこう続ける。
「次は、竜王ボールからで、得点は2対2。相手に一点を取られたら、三池さんがディフェンスをかいくぐったら、その時点でこちらの……負け」
それは、コート上で戦う選手達の誰もが認識している事ではあった。
『陽、素直に喜べ。どのみちこれは必要な一点だったんだ』
と後輩に声をかけたのはガイである。その背の上で、けやきも彼女を労った。
「よくやった。これであと一点だ」
ベンチ周辺に集った選手の輪の中で、次に口を開いたのはレインだった。
『ねーねー』
「なんだ、レイン」
けやきに先を促されたレインは、彼女に翻訳を期待して皆に指摘した。
『前半、あと十秒もなかったよ!』
選手達は、ぎょっとして電光掲示板へと視線を向けた。実際に試合を繰り広げていた選手のうち他の五名は、誰も言われるまで気づかなかったらしい。けやきでさえ、相手コートでの攻防を常に凝視せざるを得ない状況が続いていたのだ。
レインが今しがたこの事実に気づいたのも、良明を背から下ろしてベンチへと歩いている最中の事だった。
「危なかったな……」
と言う良明の横で、陽は謝罪をした。
「ごめんなさい。全然考えずにボール構えてましたっ」
長谷部は意外そうな顔を浮かべながら、陽に感心した。
「フリースロー中も試合の時間は経過し、ハーフタイムに入った時点でフリースローの権限ははく奪される……滅多に発生しないシチエーションだしと思って教えて無かったけど、そういうルール。危なかったな……」
「でも俺も陽も、石崎先輩が借りてきてくれた本を読んで把握はしてました」
良明は、「それに」と長谷部に続ける。
「他にも教えてもらう事は山ほどありましたから」
「おー少年、おばちゃんの事をフォローしにかかるとは随分偉くなったじゃないかーええ?」
良明の頭をぐりぐりとこねくり回しながらも、長谷部の表情は真剣だった。
「さて。で、だ」
誰もが、その時長谷部が話題にしようとしている事を察していた。
「てめぇら!! 一気に決めっぞ!!」
「うす!」
「はい!」
竜王高ベンチにて、三池は尚も熱い声音を維持していた。
「十秒、か。いけるか?」
山村は、キャプテンとしての三池に対して率直にそう質問した。
「……やるしかねぇだろ」
というキャプテンの回答に、山村は心地の良さそうな笑みを浮かべた。そして、その相棒のドラゴンの目を見て言う。
「てめぇはそれでいい。クロ、しっかり運んでやれ」
『おう』
山村は他の四名に向き直る。
「セイ、ライ、宮本、葛寺」
『はい』
「やる事は、解ってるな? たったの十秒足らずだ。三池に協力してやれ」
名を呼ばれた四名は、順に肯定の返事をした。
「了解」
「まっかせてー」
「承知しました」
「それしかないスよね」
三池は大虎高チームのベンチをちらと振り返ってから、仲間に向き直る。
「頼んだぞ、てめぇら」
『はい!』
続いて、山村は選手達の背中を押す様に促した。
「よし、行って来い」
(……これが、高校生の顔か……?)
竹達は、両校選手の血走っているようにさえ見える眼に、内心ぎょっとした。
ホイッスルを咥え、センターライン付近に集まる全十二選手を見回して、準備が完了している事を確認する。
竹達にも、彼等が自分の親を殺された様な顔をしている理由は勿論解っている。
(残りの約十秒で、竜王高校は試合を決めるつもりだ。対する大虎は時間の短さを楽観視せず、三池という少女の恐ろしさを極めて重大に捉えている)
視線を正面に向けたまま、竹達のホイッスルをクロの背の上で待っている三池。
対して竹達は、まるで大虎高コートの最奥に向けている三池の視線が、途中でUターンして自分に突き刺さろうとしている様な、そんな居心地の悪さに苛まれていた。”まだかよ、とっととしろ”とでも言われている様な錯覚に陥りそうになる。
――――ビッ!
八秒の攻防は、今この瞬間に始まり、終わりの時へと駆け出した。




