変わらぬ想いはあるがまま(2)
対処として上出来だ、と安本は思うのだ。
(俺なら、こんな的確な指示を瞬時に出す自信無え。やっぱりあいつは、樫屋は正真正銘の天才だ)
コウからのパスを受け取ると、安本は眼前の良明へと、静けさの中に自信を宿すその視線を向けた。良明がテーピングされた脚に渾身の力を込めてボールへと迫る。集中に眼の色を変えている良明を安本はいとも容易くかわし、上空のサイへとパスを出した。
そこからの攻防は、極めて単調な物だった。
じわりじわりと進んでいく薄石高と、ボールを持つ彼等に迫ってはパスを出す瞬間を狙ってそれを奪い取ろうとする大虎高。
延々と続くやり取りの中で、大虎高チームへと絶望感が広がっていく。スコアは二対零。大虎高チームにとって、決して試合を諦める様な状況ではない。むしろ勝利まであと一点。たったの一点なのである。だが、その最後の一歩は果てしなく重く、踏み出そうにも片足を上げた瞬間に飛ばされそうになるような強風が、彼等の前に吹き荒れている様だった。
移動を続ける五角形は幾分も形を変えず、今、ついにその先端が大虎高ゴールリングの禁止エリア手前へと迫った。
ボールを持った来須は、陽と対峙する。
ウェブフォーメーション、並びにソリッドウェブフォーメーションに関して、その最大のメリットは、長距離パスにより相手チームを翻弄するところにある。その性質から、この陣形は主にオフェンス時に利用され、上手く機能させれば現在の大虎高チームの様にディフェンスを成す術無く無効化する事が出来、そのままゴールリング前まで到達する事が可能だ。
侵攻後の最後の一手。侵攻の最後のステップであるシュートに関して、陣形の先端――五角形の一番上の頂点――に位置する選手が担当するのだから、その選手にだけ気を配ればいいのではないかと思われがちだが、実はそうでもない。
実際にはシュートを試みる事ができるのは決められるのは、五角形の頂点のうち上三つに位置する選手計三名。また、オフェンス側がウェブ系陣形を解除するという選択も常に存在している。相手チームがシュートを放とうとする選手へとマークを固めようとした瞬間に、陣形を解けばそれで事足りるのである。
ディフェンス側のチームにとって、その最後の攻防で最も憂慮すべきなのが相手チームとの残体力の差だ。歩きながらじわじわと侵攻してきたオフェンスチームと、そんな相手から四苦八苦してボールを奪おうとしてきたディフェンスチーム。スタミナという点でどちらが有利な状況にあるのかは論ずるまでも無い。
かといって、ウェブ系陣形を完全無視してただただ侵攻を待つわけにもいかない。ウェブ系陣形も、一分の隙すら存在しない無敵戦法ではないのだ。パスのモーションの僅かな隙、放たれたボールの軌道のブレ、選手のアイコンタクトを拾う事でのパス先の予想。様々な要素から、この陣形を切り崩す事は原理的に不可能ではない。だからこそ、けやきは全選手に抗う事を指示したのだ。
だが、それでも、現状の大虎高は薄石高の侵攻を止める事が出来なかった。攻めあぐねさせることすら出来ず、完全に侵攻を許した。
陽のディフェンスを抜こうと手綱を握る来須へと、全大虎高選手が向かっていく。だが、どうにも間に合いそうに無かった。
(どうすれば……)
失意が無いからこそ絶望がある。陽は、抗う術を必死で考えながら来須の四肢とボールを凝視した。
シュートを放とうと、来須が跳躍を始める。陽はその動きに追従しようと足に力を籠めるが、身長で上を行く彼の持つボールに陽の手が届くか否かは微妙なところだった。
(この一点を取られるっていう事は、相手のこの五角形陣形に対して私達が成す術がないっていう事。五回も十回も試せるならまだしも、猶予はあとたったの一回。今から攻略法を見つけて突き崩せるとは、とてもとても思えない)
けやきが自分と兄に地上での攻防を託したという事実。
現にここまでの侵攻を許したという現実。
薄石高選手と自分の実力差。
様々な要素が彼女に訴えかけるのだ。
(”勝てっこない”)
戦意が蒸発して大気に溶け込んでいくのが解る。
集中力の糸が切れ、帰宅の路へと歩み出す自分の姿がちらつく。
この試合の反省点?そんな事、考えたくも無い。
いわば、”敗北のクオリア”とでも表現すべき感覚を、陽は今この瞬間感じていた。
直前まで辛うじて宿っていた陽の眼光が消え失せ、その眼は機械的に眼前の風景を脳に送り届ける為だけの装置に戻っていた。
(じゃあ、ジャンプして来須の持つボールに追いすがる事を止めるのか?)
陽の脳裏に、何かにかぶれた三文芝居の様な、呆れの笑みが過った。
(この期に及んで、私はまだそんな未練を抱えるの?)
だがどうにも妙だったのは、陽自身、その言葉がまるで自分の思考だとは思えなかった点である。あたかも、どこからか頭の中に響いてきたような、そんな声。
声がしたのだ。
(跳べよ! 今、来須のシュートを止められるのはお前だけだぞ!! 他の仲間の頑張りをないがしろにするつもりか!!)
やはり、妙だった。
それは脳内に浮かび上がった思考というよりも、明確に文章として組み立てた上で誰かが自分の頭の中に直接的に送信しているかのような、そんな’声’に類するものの様に感じられた。
(ていうか、なんでそれがアキの声で聞こえてくるんだろう?)
陽はふと、眼前の来須の向こうへと眼の焦点を合わせてみた。
安本と、その手前には良明が居た。
良明はちらと振り返り、こちらを見ている。
「えっ」
兄と眼が合った。
直後、良明も陽と同様にその表情を驚きの色に染めた。
「――――跳べ!!」
兄に叫ばれ、陽は足に力を籠めた。
そこには決意も思考も無い。ただただ反射的に、落石を避ける為に伏せろと言われるのと同様の理由でそうした。
だが、それで十分だった。
掛け声と共に跳躍する陽の眼には、再び鬼をも射殺しそうな鋭い色が戻っていた。
彼女の手の高さが、来須が持つボールに届いていたか否かは定かではない。
だが、少なくとも来須はそれまでに無い彼女の気迫を認識し、咄嗟に警戒した。咄嗟にシュートを取りやめ、背後を振り返ったのである。その手に持つボールを、陽の干渉を受けない方向へと投げ放つ。
良明は、背後で駆け出す安本へと向き直った。もう陽の方向を見る余裕は全く無い。安本が駆けていく先へと、その身体をカモの子の様に追従させていく。
(なんだ、今の……陽の奴まるで、俺の心の中の声が聞こえたみたいに、こっちを向いた!)
と、その時。良明は背後から近づいてくるボールの気配を感じ取った。
それ自体は別段珍しい事ではない。気配というのは往々にして感じる物である。部室に誰かが居るかどうかを、戸を開ける前に確信する事はたまにあるし、外出先から誰も居ない気がする家に電話をかけてみて、やっぱり誰も居なかったという経験も無くは無い。
だが、今良明が感じているのは、そういう類の”そんな気がする”という程度の物では無かったのである。
それは気配というよりも、よくよく注視してみれば映像に近かった。
眼を開いたまま何かを思い浮かべる時と同様、視覚情報に近い”映像”が、脳裏に浮かび上がってきていたのだ。
現実感のある白昼夢。
良明の中に沸き出でたその表現が、その現象を他者に伝える上では最も的確だろう。
気配は映像へと完全に切り替わり、映像はボールと自分と安本と、周辺の風景をより具体的に紡いでいく。
(……右、だ)
良明は、言葉にしようが無い確信の元、その右手を自分の右わき腹の傍へと突き出した。映像の中の自分が、全くのタイムラグ無く同じポーズをする。
「――!!」
映像の中のボールが映像の中の自分に到達するのと同時に、良明は自分の右の掌に衝撃を感じた。
視線を下ろす。
その手には、白い龍球用のボールが握られていた。
良明は、視線を正面へと戻す。目の前の少年が浮かべているものに類する表情を、良明はどこかで見た事があった。
確か、あれは小学校三年生か四年生の時の事である。その日、良明と陽が揃って家へと帰ってくると、母はテレビの前に座って口に手を当てていた。彼女が昼のワイドショーを見ていた事から、その日は学校が午前中で終わる水曜日だったと思う。兎に角、その時の良明と陽は母・由の顔を左右から覗き込んだのである。
由は眼を見開き、左手に口紅を持ち、右手で口を覆い、硬直していた。
兄妹がテレビの字幕を読もうとするが、知らない漢字が使われていてその内容までは理解できなかった。だが、字幕は随分と大袈裟に殴り書かれた様な字体をしており、画面の中では気が狂ったようなフラッシュの雨の中でアイドル歌手の男性とタレントの女性が笑顔で何か言っていた様な気がする。確か、嘘くさいくらいの美男美女だったと良明は思う。
あの日の由とそっくりな、それでいてほんの少しだけ深刻さを足したような。
安本は、そんな表情をしていた。
(今のは……完全に来須が投げたボールだろうが! なんで軌道が、タイミングが、到達地点が解った!? こいつの妹はどうやってボールに関する情報を一瞬で兄貴に伝えた!! 足音、声、風……どれも違う、この俺がずっと注意してたが、そんな素振りは全く無かった!!)
「ありえねえ……ありえねえぞ!!」
声を張り上げた安本の脇を、良明はそれこそ風の様に横切った。
何が起こっているのか、彼には全く理解する事が出来なかった。
ただ、うっすらと予感だけが安本の意識を満たしていく。
それは、安本も良く知る感覚。
恐怖と焦りに背中を押されて、その感覚が音も無く押し寄せていた。




