ターニングポイント(6)
午後一時。
過ぎてみれば、恋人とのデートの様にあっという間の三時間であった。などと、この期に及んできわめてユーモアに富んだ例えを交え、恋人などできたためしがない兄妹は思うのである。
入部しない事を心に決めた後ろめたさもあって、食堂の会計は自分達で払おうとする双子に、けやきは何かを察した様な表情でこう言った。
「これは今日時間を貰った事への礼だと思ってくれ。それ以上の意味はない」
余計に後ろめたくなる双子だったが、けやきもそれは承知している。それでも彼女が昼食を二人に奢ったのは、彼女が発した言葉が理由の全てであった。
食堂を出て、正面ロビーを抜けて、外の広場に出る。
雨が降っていた。
ザーザーと、地面や街路樹が雨に打たれて泣く音が聞こえてくる。
折り畳み傘を広げ、けやきは空を見上げた。実際のところは知れないが、その後姿がどうにも悲しげに見える良明と陽だった。
二つ年上の異性の背中を見て、自分の「よく考えさせてください」の意味を見透かされている様に思えた良明は、勝手になんだかいたたまれない気持ちになっていた。
「あの、先輩――」
そんな兄を見かねた様に、陽が口を開く。直後に良明は確信した。
(こいつ、この場で入部を辞退するつもりだ)
運動部未経験。勝負事が大嫌い。ドラゴンに特別強い思い入れがあるわけでもない。
どこを取っても結論は決まりきっていた。この妹と兄が龍球で県大会一位を取って竜術部を救おうとする理由は全く、一切存在しない。
せめて言葉を柔らかく、自分達には無理であると陽は言おうとした。
その言葉を、けやきはあえて遮った。
「英田陽、英田良明。」
「はい」
「はい」
「もし、入部する気があるなら……その時は、期限までに入部届を出してくれ。その気が無いなら特に何を気にする事もないし、何か特別に連絡を寄越さなくてもいい」
それは、気まずい気まずい言葉を陽に言わせない為のけやきの心遣いだった。
雨の日の中途半端な逆光が、けやきのすらりとした輪郭を景色に馴染ませる。
その顔は、微笑んでいる様であり、残念に思う表情の様にも見えた。
「雨足が強くなりかけている。気をつけて帰れ」
それだけ言うと、けやきは二度振り返る事はせずに歩いていった。その背中に双子は今一度礼を言う。
けやきが曲がり角に消えて五秒。先に口を開いたのは陽の方だった。
「最初から…………来る前からさ、解ってたよね」
「陽も俺も、竜術部に入りたいわけじゃないって事?」
「うん」
良明は搾り出す様に、自分に言い聞かせるように言う。
「それでも……来て良かった」
「うん」
その陽の「うん」は、兄の言葉で納得しないと自分の中のけやきに対する申し訳なさに耐えられそうも無いと思ったから。
「帰ろう……」
「……うん」
朝歩いた並木道がやたらとゆっくりと過ぎていく間も、バス停までの道のりをオアシスを求める様に辿っていく間も、双方一言たりとも喋らずに歩いた。
いつもの様にバス後方の乗車口から乗り込み、整理券を取り、がらがらのバスの長椅子に、二人並んで腰掛ける。
バスの外を流れる家、店、山の稜線。見慣れた風景。
市街地を抜け、線路をまたぎ、舗装が古くなった道路に二人同じように身体を揺らされ、ついに家の最寄のバス停に到着した。
淡々と帰路を行く二人には、空元気でも何かを言う事が出来なかった。
降り始めた雨は、バスを降りた頃にはけやきが危惧していた通りの土砂降りになっていた。
「うわ」
陽が料金箱に小銭を入れる音が掻き消える程の豪雨だった。
久々に口を開いた陽に、良明は予め広げられるようにしておいた折り畳み傘を広げてやり「はやく出て出て」と促す。
外に出ると、自分の笠を広げて兄を待つ陽。
それら、他愛ないやり取りが、日常の自分達を呼び戻す。けやきへの申し訳なさが消えたわけでは無いが、お互いの声を聞いて、少しだけほっとする兄と妹だった。
重苦しくてどこか淡々とした空気が流れていた帰り道が、少しだけマシに感じられた。
バス停を降りると、幅1メートルも無い歩道を挟んで反対側は、何百坪もある田が広がっている。道路を挟んでその向かいにも同様に広がる田。双子にとっては生まれてこの方十五年半に亘って何度も使った見慣れた道である。
少し歩くと川が見えてきた。そこは、先日けやきと出会った川の上流に位置する。ブロックが敷き詰められ綺麗に整備された土手と、対岸の道路へと道を繋ぐ木製の橋。その橋の裏側は、小さい頃に二人で秘密基地ごっこをした場所のひとつだ。愛称第二秘密基地。
橋の工事の時に撤去されていなければ、兄妹が埋めたタイムカプセルがまだ橋の付け根の辺りに埋まっている筈である。
「あれ、」
「どうかした?」
不意に立ち止まり、ズボンのポケットを探る良明。
「携帯。電話来た」
良明はそう言うと、少し面倒そうにポケットから折り畳み式の携帯電話を取り出す。
連結部のところにあるボタンを押して二つ折りの端末を開く。画面を見ると、電話をかけてきている相手の名前が表示されていた。
「ふっさんだ」
良明は歩き始めつつ、スピーカーを耳に当てた。
『繋がった!! アキ! 大変なんだよ!!』
電話の向こうから怒声の様な声が聞こえて来た。
「ふ、ふっさん!?」
『さっきから三回くらいかけてたのに気づかなかった!? 兎に角大変なんだよ! 直ぐ来てくれ!!』
「え、ふっさん? 何、どうしたんだよ?」
対応に困っている雰囲気の良明を、訝しげに見つめる陽。
『竜が! 橋の下に!! 閉じ込められて!!』
”橋の下に閉じ込められる”という状態が全くイメージ出来ない良明。だが、兎に角何かしらドラゴンが橋の下で身動きが取れない状態にあるという事だけは伝わった。
だが、だから何なのだろう、と良明は思った。
(じっくり助けてやればそれで――)
眼前の橋を、見るともなしに眺めてみた。
そのすぐ傍を流れる川は、いつぞやの日とは比べ物にならない豪雨の所為で溢れんばかりに増水していた。
藤の剣幕と、電話の向こうからも聞こえてくる雨の音。眼前の川の様子。すべてを総合して、漸く良明は状況を理解した。
「今どこ? あとどれくらいで竜が”閉じ込められてる”ところまで水がくる? ていうか、三回も連絡寄越そうする前に他に誰かに連絡したんだろうな!?」
藤は、焦りを色濃くした声でこう答えた。
『アキの家の直ぐ近くなんだよ! 兎に角早く出てきてくれって!!』
「え、具体的に今どの辺り? 橋の下って事は袂橋? まさか緑橋の方? だったら今もう目の前に――」
『橋の名前なんて解らないよ! 多分アキの家から一番近い方!!』
良明は、一瞬だけ携帯から耳と口を離し、陽に一言だけ告げる。
「袂橋。走るぞ」
陽は詳細な状況が解らないながらも、聞き返したり多くを尋ねようとはせず頷いた。駆け出す良明に続いて走り出す。
「ふっさん、今俺達出かけてて、家に帰る所なんだよ」
『嘘だろマジで!?』
「でもそこからでも見える筈だよ。バス停の所から今そっちに走ってる。見えるか?」
良明は携帯を持っていない方の手を、彼の家のすぐ近くの袂橋に居るらしい藤に向かって振り回す。
『見えた! ん、英田さんも一緒?』
「うん、一緒に向かってる。すぐ行く」
走った。英田兄妹は、脱兎の如き全力で百五十メートル程の距離を死にもの狂いで走った。碌に運動なんてしていない二人が現場付近に到着する頃には、すぐにでもその場にへたり込みたくなる様な状態になっていた。
あと十メートル程先の袂橋に改めて眼をやる良明。
(そういえば、樫屋先輩と初めて会ったあの日もこんなだったな……)
酸素が不足しつつある、半ば意識が遠のきかけた頭の中で、ふっとそんな事を思った。
豪雨、川、橋。
あの、けやきと出会った日と今この瞬間に共通するワードが、英田良明の中に駆け巡る。
先程のけやきの顔が、寂しげな後ろ姿が、脳裏にフェードしすぐ消えた。
(それから――)
共通するキーワードは、まだ何かあっただろうか?
良明の脳裏に鮮明に蘇っていく、あの日の光景。
ドラゴンが飛んできて、弱り果てた藤を助けた。そうだ、藤も今ここにいる。
あの日最大の出来事。語るべきはそれだった。
ドラゴンと弱り果てて今にも潰えそうな命の灯。あの日が生涯忘れられないであろう日になったのは、その二つのキーワードがあってこそであった。
(似てる……あの日とそっくりだ)
投げやりな思考が、少年の中に結論をもたらした。
良明は、既に通話を終了させた携帯電話に視線を落とす。不在着信のアイコンの横に”3回”の文字が表示されていた。
最後の十メートルを駆け抜け、息も絶え絶えの良明は藤に第一声をかける。
「消防には連絡した?! 119!」
「したけど、別件で手が開いてないんだってさ」
「え? あの何台もある消防車全部?」
「……たぶん、人間優先にする為に、何台か余裕残してるんだと思う」
「いやいやいやこっちだって下手したら死活問題だろ!」
「まぁ、人間と竜で比べたらどうしても、な……。もし、人の救助をする時に足りないとかなったら問題になるじゃん」
「竜だって……命だろ!」
苦しそうにしながらも声を荒げる良明に、藤はなだめる様に返す。
「良明、なんとかイーターみたいになってない? ほら、なんだっけ、あの……」
藤のその言葉に悪意が無いと解っていても、反射的に嫌悪感を抱いてしまう良明。先程まであんな話を聞かされていた後のこの会話は、いささか堪えるものがあった。
「兎に角状況を教えてくれよ。竜が閉じ込められてるってどういう――」
どういう状況なのか、説明してくれと言おうとした時、それは暗がりに包まれて兄妹の視界に捉えられた。
良明と陽の中学生時代からの友人・藤まこと。
彼の家は所謂複雑な事情を抱えているらしく、藤はこれまで孤児院で育てられてきたそうだ。
中学一年なりたての頃に、ひょんな事からすぐに良明と仲良くなった。平日や休日問わず遊びに来た事も数知れないし、英田兄妹が生まれて初めてカラオケに行ったのは藤と三人で行ったのが初めてだった。
陽を除けば、良明にとって最も気の置けない間柄の同年代の相手である。
いつもは快活で眩しい笑顔が特徴的な藤としては、随分と珍しく取り乱していた。現場がそれほど切羽詰った状態だという事だろうか?
誤った判断で無茶をして、その身を危険にさらしていなければ良いがと思い、良明は走り続けた。満足に身体に酸素が供給されなくなることにより視界が黒ずむ程の、全力疾走。
今、現場を目の当たりにし、良明の脳裏にはある人物の姿が浮かんでいた。
大きなドラゴンに乗り、豪雨の中少年を助けたけやき。
良明はこの時漸く気づいたが、そういえばけやきとは連絡先を交換していなかった。
(もし電話番号なりを知っていたら、俺はあの人に助けを求めたんだろうか?)
良明の自問は、彼自身の内なる即答により遮られる。
(いやいや、当たり前だろ! 竜が一頭死にかけてるんだぞ!!)
自分から投げつけられた檄により、良明は最後の数歩を踏み出そうとした。
橋桁に手をつき、息を整える良明。ここまで無理やり身体を動かして走ってきたが、ついには吐き気を催してきた。
命一つの生き死にが掛かっている状況でそんな甘えた事を言っている場合では無いと思っても、彼の身体が、足が、催眠術でも掛けられたかのように動こうとしない。
「ちく……っしょ」
立ち止まってしまった所為だろうか?そう吐き捨てる事さえ、息が苦しくてスムーズにいかなくなった。
良明の視界に、彼よりもいくらかペースを落として走って来ていた陽が入り込む。
先行した陽が眼前に捉えた状況。
狡猾丁寧に橋の下の土手に埋め込まれた、真新しい金属製のペット用ケージ。前面の蓋には、鈍い金色の南京錠がかけられている。その中からは、確かに「キュゥウ」と助けを求める様な、怯える様なドラゴンの声がしている。声からしてドラゴンはまだ若い。
陽はなんとか南京錠が外れてくれないかと乱暴にゆすって試す。それで外れてくれれば苦労は無い。そんなもの、既に藤だってとうの昔にやってみた事だろう。
良明の呼吸の速度が、ほんの少しだけ弱まる。
つまりそれは、多少の無理をする余裕が出来たという事だ。と、良明は自分に言い聞かせて再びその震える足を動かし始めた。
袂橋は、市街地からは愚か、住宅地からもやや離れている、人気が無い場所に位置するコンクリート製の橋である。辺りの河川敷はブロックが敷き詰められて目に心地良いものがあるが、それに対しその橋桁の裏だけは整備されておらず、日光が当たらないので草すら茂っていない。
藤が気づかなけれな、恐らくもう誰もこのドラゴンの事を気づかなかっただろうと兄妹は思った。
悪質極まりない犯行だと言わざるを得なかった。
現場を一目見た陽と良明は、目の当たりにした犯罪の現場に対し不快感を禁じ得無かった。
そして、急がなければ取り返しがつかなくなるという思いに、その不快感はすぐに塗り潰された。
「君、言葉はわかる?」
絞り出す様な声で、良明はケージの中のドラゴンを覗き込んだ。
レシートの文字を確認する様に眼を凝らすと、徐々にだが暗い場所に視神経が慣れてきた。「クァ」と少年の問いかけにドラゴンが答えるのとほぼ同時に、良明はドラゴンの姿を認識する事に成功した。
陽が気を利かせ、携帯電話のライトでケージの中を照らし出す。
深い深い、限りなく黒に近いグレーの皮膚。ほんの少し緑も入っている様に見える。
飢えてはいないが決して満足に食事を得ていない細身の身体と、頭から生える二本の角の真新しさが、彼、或いは彼女がまだドラゴンとしては年端も行かぬ子供である事を意味していた。
性別が解らなかった理由は、彼、或いは彼女の眼が赤でも青でもなかった事による。その眼は琥珀の様に澄んだ金色をしており、まるで魅せる為に作られた人形のパーツの様に美しかった。
窮屈なペット用ケージに押し込められた仔竜は、必死で身じろぎを繰り返しつつも、陽の翳した光に眼を細めて怯えるようにもう一度「キュゥ」と鳴いた。
「あ、ごめん」
陽が携帯電話の光の角度を変えてやると、続けて良明がドラゴンに尋ねた。
「落ち着いて。その中、ケージの鍵とか落ちてない?」
良明は努めて優しい口調を作っていた。その甲斐あってか、仔竜はその質問に対して迅速に肯定の色を含まない声で鳴き返した。
「藤君、何か掘り返すもの探してきて!」
陽に指示された藤は、頷く事すら省略して全速力で土手を駆け上がっていく。
言った後で辺りを見回す陽だが、やはり周囲にはケージを掘り起こせる様な道具は無さそうだった。腕まくりする。
「やっぱ、掘り返すしかないか?」
問う良明に陽は簡潔に答える。
「うん、壊せそうもなさそうだし掘り返そうよ」
良明は頷くとケージを挟んで陽とは反対側に座り込み、土を両手で掘り返し始めた。
陽はたすき掛けにしていたチョコっぽい色のバッグが直ぐに邪魔になり、一旦掘るのを中断しその辺りに放り投げる。そしてすぐに掘るのを再開。
無言で作業を続けるが、三十秒、一分、二分と続けるうちに目に見えて川の水位が増してきた。それは可視化された竜の寿命その物である。
無言で掘り進める二人は、心臓を締め上げる様な焦りの中思う。
(もし、水がゲージの所まで来たら、俺はどうするんだろう?)
(もし、水がゲージの所まで来たら、私はどうするんだろう?)
決して手元は緩めない。
(陽に諦めようって言って、土手を上がってこの子を見殺しにするのか?)
(アキに諦めようって言って、土手を上がってこの子を見殺しにするの?)
手の動きが早まる。
シャイで頑固な金属製ケージが、漸くそののっぺらとした受け皿部分を半分だけ露わにする。
「陽、そっち持ち上げて!」
「うん! 一、二の――」
ふんっと力を入れるが、怯えるドラゴン入りのゲージは未だ土の中から微動だにしない。
川の水は、ついに良明の足首を浸そうとしていた。




