背水の挑戦者(5)
良明は、意を決す。
長らくにらみ合いを続けていた薄石高チームとの距離ももう幾許も無い。パスを出すまでに残された猶予は、そう長くは無かった。
(タイミングさえ間違わなければ……)
生唾を飲み込み、良明は背後で移動を続ける陽の気配に集中する。
来須は、久留米沢と同じく良明の意図をを理解していた。
(いつかパスを出す。その瞬間を見逃すなッ)
陽に対して背を向けている来須は彼女の大まかな位置をその足音から把握していた。砂地と靴のすれる音。それは、耳に意識を集中すれば意外と聞き取れるものである。まして陽の足音は、膠着状態にある周囲の者達の中で際立って慌ただしく移動を続けている状態のそれだった。龍球熟練者の来須にとって、この様なシチュエーションはそう珍しくも無かったのである。
(さっきから右へ左へと一定の周期で移動を続けている。兄にパスを出させやすくしようと、タイミングを作っているのか?)
来須が集中を継続していた、その最中だった。
(動いた!)
良明が、ついにその手に持つボールを放つそぶりを見せた。
(妹の方の位置は現在、俺の左斜め後方。その移動の周期からして彼女にボールが届くのは――)
(”俺の右斜め後方”……だと、思ってるでしょ?)
陽には、自分に背を向ける来須の思考が手に取る様に解った。
先程から少々ワザとらしいくらいに右へ左へと移動を続けていた陽は、来須程の上級者がこの足音を聞き洩らす事は無いとふんでいた。そして、恐らくは良明がボールをパスするタイミングで自分が居る方へとその身を乗り出してくるはずだとも。
(だから、私はこっちに踏み込む!)
陽は意図的に足音を殺して走り出した。その行く先は、大虎高コート側。距離でいえば攻防を繰り広げる一団からは遠く離れた地点だった。より具体的に言えば、良明や来須の後方。安本や久留米のはるか前方である。
良明が放ったボールが、思いの外極端な放物線を描こうとしている事に、来須はすぐには気づけなかった。
(どういう事だ? パスを出す相手の位置は俺の斜め後方の筈。そんな遥か遠くにボールを出した所で――)
来須は振り向き、遠く視界の中央でボールをキャッチする陽の姿を目の当たりにした。
「馬鹿な!」
直後、彼の思考は都会の鉄道路線図の如く理不尽なまでに煩雑に交錯した。
(妹の方はいい。あの遠い位置に移動して、ウチの部長とザワさんから遠ざかる判断をしたんだろう。けど、兄の方はどうやってあの妹の正確な場所を把握した? 仮に妹の行動を読んだとしても、”俺達から離れた場所”というヒントだけじゃあ、あんな正確なパスを出せる道理が無いだろ)
「藤峰!!」
安本から”守備”の指示が飛んでくる。
その激しい口調から、厳密には”即時自陣に戻り守備につけ”という解釈がより正しい。来須は、全力で自コートへと戻った。
かくしてレギオンフォーメーションの包囲から脱した兄妹は、一回だけ大きく深呼吸をした。同時と言って良いそのモーションに、安本は本能的に背筋を凍らせる。
(何かが、来る……!)
そしてその時、兄妹もまた心の中で決意したのである。
(このまま一気に――)
(――突破する!)
深呼吸の後、一瞬の間。そして陽は、再び動き出した。
真っ先に向かってきたアルが間合いに自分を捉える直前で、陽は良明へとパス。
ボールを受け取った良明へと久留米沢と安本が二人がかりで向かっていく。良明は、遥か十メートル先の陽へとボールを返した。その動きに迷いは無い。
再びボールを受け取った陽は、背後から羽ばたいて風を送ろうとしているアルの斜め後方へとパス。ボールが投げ放たれるよりも前にその地点に先回りしていた良明が、陽からのボールをキャッチする。
その場所は、完全に陽の視界の外である。
なので、安本も久留米沢もその時点での良明にパスが戻ってくるとは思っていなかった。
「嘘だろ!」
「どう示し合わせたッ!?」
慌てて良明へと方向を転換する安本と久留米沢。その表情は、迷いのない動きとは裏腹に驚愕に満ち満ちていた。
良明は、前方を走る陽の背中めがけて叩きつける様な全力の一投を放った。
頭上を通過していくボールを揃って見上げる安本と久留米沢。ボールのすぐ後の中空をアルが追いかけていく。
陽の背中へと、当たればただでは済まない速球が向かっていく。
ボールの到達まで二メートルというところで陽は右腕を後ろに回してそのボールをキャッチした。
「どうなってんだよ!!」
安本が大声を上げようが、もはや陽を遮る存在は彼女の前に存在しない。
安本にも、来須にも、久留米沢にも。そしてドラゴン達にも。薄石高の選手達だけではない。試合を目の当たりにする殆どの人間が、目の前で何が起こっているのかを理解できていなかった。
陽の動きは、良明から速球が届く事を把握していなければ不可能な動作であった。そして、それは誰の眼にも明らかな程に奇妙な確信を持った所作であり、決してまぐれの類で無いことが明らかだったのである。
「頭の後ろに眼がついてるみたい」
客席にて誰かがそう口にしたが、そんなありきたりな例えが気色が悪いほどしっくりはまる光景だった。
混乱の最中、来須は絞り出す様な声で呟いた。
「こんなの……テレパシーでも使ってないと無理だろう。冗談抜きでどうやったんだ」
思考の暗がりの中、過去の試合やプロのテクニックを記憶の引き出しから引っ張っては確認していくが、およそこの様な動きが可能な技術など、彼の記憶の中には存在しなかった。パスの到達予想地点に先回りして走るという事自体は他のスポーツでもありはする。だが、背後から来る速球を勘だけで完璧なタイミングでキャッチするとなれば話が別である。
砂漠の中で一人取り残されたような、圧倒的な絶望感。上空には青空が広がり、足を踏み出せば砂で出来た地面はありはする。だが、いくら辺りを見回しても、一切の希望は無い。そんな心境だった。
ただ一頭。未だ果敢に食いついて挑み続けていたのは、アルだった。
どんな技術だろうが、どんな絶望的な状況だろうが、やれる事はやる。今眼にしたものは後から考え、整理して、自分の技として吸収すればいい。彼だけが薄石高選手の中で唯一、前向きさを保ち戦い続けていた。
(どんな速球のパスを受け取ろうが、今俺の目の前に居るのはボールを持った一人の人間選手。それ以上でも以下でもない)
アルの腕が陽のボールを射程内に捉えるまであと少しというところで、陽はゴールリング前で滞空するけやきユニットへと狙いを定め、半身を捻って右腕を振りかぶった。
(狙うは、ゴールに届く主砲だけ!!)
急な体勢の変化について行けず、アルは陽を追い越してしまう。
『しまっ――!!』
陽の視線は変わらない。
彼女は、静寂と信頼の中にあるけやきの眼差しをまっすぐに見つめ、受け止め、そして絶叫した。
「行っけぇえエ!!」
陽が全身を傾かせたフォームで放ったパスは、一直線にけやきへと向かっていった。
この瞬間、得点は既に確定したも同じだった。
安本や来須の六年間の龍球スキルと、兄妹の十五年の腐れ縁。その二つがぶつかった時に訪れた結末は得てして簡潔で、素っ気なく、容赦が無かった。
不意に仕掛けられたこの勝負。安本と来須に、成す術は無かった。
ビーーーーッ!
「大虎高、一点。ゲームポイント、トゥーゼロ!」
『大虎高校、仇敵薄石高校を相手にあと一点で完全試合というところまで迫りましたァ!!』
実況の絵巻は、身を乗り出した。
「いける……いけるよ、これ……!」
石崎は確信した。
(ああ、やっぱこの人凄い。長谷部さんの言う通りだわ。……これは、勝てる)
単純にスコアで見ても無失点の二得点。
だがそれはそれとして、英田兄妹の活躍ぶりは石崎の視線と意識を完全に釘づけにしていた。あの頼りない後輩達が、今やこのチームの攻撃手段として完全に頼れる存在になっている。
横を見れば、シキも腕を組んで確かな手応えを感じている表情をしていた。あの薄石との練習試合の際、その終盤で負けを悟ってとぐろを巻いていたシキが、である。
長谷部はあくまで冷静で、二対零のスコアにも喜ぶ様子は無い。
石崎の興奮に気づいたのか、長谷部は現状に対して思う事を整理して口にした。
「個々の能力では、決して薄石に勝ててるワケじゃない。樫屋とガイは別として、他の選手に関していえば、タイマンはらされたら誰一人として薄石の誰にも敵わない。そこを忘れたら確実に悪い事が起こる」
石崎は「たしかに」と頷く。
「ただ、例の……なんだっけ、ユビキタスシンパシー? ……は、相手にとってあまりにも未知すぎて、この試合の間に対応する事なんて不可能だ。当初から私が薄石に対して勝ちを確信してた理由はソレ。連山程の優勝候補ならともかく、薄石程度蹴散らす事は確実だと思ってたし、今も思ってる」
石崎は、あえて疑問を口にした。
「でも、薄石って――」
「うん、そうだ。ウイングボールスクール所属の選手が二人居る。でも、それは薄石高校チームの練度とは必ずしも直結しない。来須が薄石の龍球部に入ったのはつい半年前の事。いくら実力があっても、チーム全体としての連携にまだムラがあるっていうコト」
石崎は長谷部の言葉を大虎高チームにあてはめて考えてみた。大虎にだって新入りは居る。それも三名も。そこが引っかかったのだ。
そして、彼女は新入り三名という現実を置き去りにして直後に気づく。
「そっか、ウチの場合、その新入りのうち二人には強固な繋がりが……」
「そう、練習しなくても既にある。レインやショウは彼等の指示をプレーに昇華すればいいわけだから、連携に関しては何も考えず兄妹に一任すればいい。加えて、樫屋程の天才なら、あの後輩達に動きを合わせる事は可能」
「ものの見事にピースがハマってる……」




