背水の挑戦者(2)
長谷部の最後の言葉は、「ほら、行っといで」のたった一言だった。厳選した言葉による演説めいた励ましも、技術的なアドバイスすらも口にせず、彼女は部員達を送り出したのだ。
それが三度目の薄石戦を前にしたチームへの心遣いであり、大虎高校龍球チームの今の実力への信頼の証である事は、誰もがすぐに悟った。
良明も陽もレインも、おかげで緊張感は今以てまるで無い。
アドバイス?そんなものは必要無い。今の兄妹には、積み上げてきた十五年間がついているのだ。薄石と戦うにあたって、これ以上誰かの力に頼りたく無いくらいだった。
良明と陽には意地がある。
レインにはそれに加えて義理がある。
安本と来須以外の全ての大会参加者へと敬意を払う為に、感情を押し殺す。
ついに眼前に見えた悪童二人に、良明、陽、レインの三名は息をのむでもなく、ただ静かにその顔を見据えるのみだった。
それが三名の正義であった。
観衆がざわざわと試合に対して無関心な話を続ける。
無理も無い。試合は三つのコートで並行して行われているのである。そのうちの一つで試合が始まろうとしているからと言って、会場全体が静寂に包まれるという事も無いだろう。
大会の中で繰り広げられる試合の中の一つに過ぎないこの試合は、勝負は、彼等選手にとっては違った意味を持っていた。
その”意味”についてはここで述べるに値しない。大虎高校と薄石高校の間でここまで繰り広げられてきた二度にわたる戦いが、全てである。
二度戦い、二度敗北し、最後の戦いに臨む大虎高校の六名。
戦う度に実力を上げて追い上げてくる彼等に対し、それでもここまで決して後れを取らなかった薄石高校の六名。
少なくとも今のメンバーで戦うのはこれが最後。
一連の戦いに”決着”という物を求めるのならば、それは今から繰り広げられるこの試合をおいて他にあり得なかった。
それを、誰もが理解している。
コート上の六名は勿論、ベンチで待機する双方の選手、監督、観客席から見守る関係者達。程度の差こそあれ、誰もがこの試合の重さを認識していた。
だからだろうか、無関係な筈の客席の騒音がやたらと耳に心地が悪かった。
審判がボールを手に両校選手の間に立った時、薄石高校三年・安本は「すいません」と言って審判に片手を上げて発言の許可を求めた。
「なにか?」
と応える審判に、安本は「少しだけ」とだけ言ってけやきを見た。
「その、樫屋…………」
「…………なんだ」
「試合の前に、一つだけ――」
と、何かを言おうとした安本の言葉を、けやきは強引に遮った。
「――安本」
「……」
「試合が終わってからでは駄目か? 関係者や観客を待たせたくはない」
けやきの二言目は、実に痛快なまでに完全な出まかせだった。
彼女は、この時安本の口から発されようとしていたのが、全大虎高関係者への謝罪の言葉である事を解っていた。それは英田兄妹とレインが彼等に対して何よりも望んでいる言葉であり、その言葉無しに彼等との戦いが終結する事はあり得なかった。
だが、遮った。
けやきは、事ここに至って冷酷であった。
彼女の目的は何か。言うまでもなく、それは部の存続であり、それはドラゴン達の居場所を守る事であり、それは、愛するガイを酷い目に遭わせない事であった。
かつて、けやきは兄妹にこう言い放った。
<center>
”彼が私を軽蔑しない範囲において、私はガイの為に手段を選ばない”
</center>
例えばそれは、英田兄妹やレインの一足早い精神の安息を遮る事も含まれる。
今の良明と陽と、そしてレインにとっての最大のモチベーションは、薄石高を倒す事であるのは明らかだ。確かに、レインと竜術部の為に戦ってはいるし、それが戦う理由である事は何ら嘘偽りではない。
だが、一番の理由ではなかった。
”お前達の様な素人が数カ月努力したところで、自分達の様な熟練者には勝てない。この先の努力は無駄になる。現にお前達の先輩はお前達を勝たせられなかったじゃないか”
来須の言葉により完膚なきまでに自身の実力を否定され、その先の未来さえも否定され、敬意を抱く先輩をも否定された。
来須が彼等双子に浴びせた言葉の数々は、薄石に勝てば覆せる事ばかりだった。
だからこそ、双子と金眼のドラゴンはさらなる努力を決意したのだ。真の意味で彼等が龍球を始めたのは、あの薄石高との練習試合の日なのである。
今この瞬間、これから戦おうとしているその相手から自発的に謝罪の言葉が投げられる事が、彼等にとってどういう事であるのか。モチベーションの低下はあり得るとして、けやきが思うにそれ以外にも懸念する事はあったのだ。
敵意を押し殺した良明と陽の眼は、既に完全集中状態への移行を完了させていた。彼等二人だけではない。レインまでもがその金色の眼を微動だにせず、相手をじっと見据えていた。大虎高校竜術部の部員ならば、それが眼前の相手への敵意の証以外の何物でもない事は考えるまでもなく理解できた。
そんな兄妹やレインにとって、今この時謝罪の言葉を受け取る事は、果たして幸福な事だろうか?
けやきには、解らなかった。
「そう……だな」
「安本!」
久留米沢は、抗議するような色を籠めて部長の名を呼んだ。
「忘れはしないさ。試合が終わったら、必ず伝える」
「…………俺は、知らんぞ……」
その久留米沢の言葉が意味するところを、けやきはため息交じりに理解した。
”負かした相手に上から目線で謝罪するのか? 俺はどんな顔をされても知らないぞ”
自分達の勝利を信じて疑っていないのだ。
けやきは、双子達の顔をちらと見る。顔色一つ変えていない。どうやら安本が言おうとしている言葉の内容も、久留米沢の言葉の意味も、彼等は把握していない様だった。
「レフェリー、すみません。始めてください」
海外式の呼び方で審判を呼んだ安本が逐一鼻についたのは、ベンチの石崎だった。隣に座るシキが彼女の肩をぽんと叩いて『抑えろ』と告げる。
「はい」
安本に促された審判は我関せず。”私は粛々と仕事をこなすだけだ”という口調と表情でそう返事した。
「只今より、大虎高校対薄石高校の試合を始めます。審判は私、御崎が努めます。試合は前半後半各十五分、インターバルは五分とします。両者、向かい合って、礼」
礼をする十二名。
いつもの様にジャンプボールを争う二ユニットを残し、選手達が散っていく。
残ったのはけやきユニットと久留米沢ユニット。
それが意味するところはつまり、彼女等の内どちらがボールを得るにせよ、それ以外のユニットが最初の攻防を繰り広げるという事である。
両校の中でも最も因縁溢れる四ユニットによるボールの奪い合い。
そこから試合は始まるのだ。
(やれやれ)
と、顔に書いてある久留米沢を見ながら、けやきは冷静にジャンプボールのシミュレーションを繰り返していく。
審判の持つボールは、彼等の思考など知った事ではないと言ったタイミングで速やかに中空へと放たれた。
その直前、良明は自分の右手が震えている事に気づいた。
それが所謂武者震いであるのか、戦うのは三度目になる強豪薄石に対する恐怖であるのか、或いは他の何かであるのか判らない。だが、彼は問答無用で右の拳を固く握り締め、震える事をその身に禁じた。
(今更なんだ! 何を震える事があるんだよ!!)
陽を見てみる。自分同様に首を捻ろうとしていた彼女と眼が合った。
(恐れるな。今日の、この時の為に今日まで頑張ってきたんだろ?)
良明の硬く握り締めた右の拳は、その状態で震え始めていた。
(陽だって同じ気持ちで頑張って来たんだ。今更妹に情けない所見せるな!)
震えが止まった。
まったく、こんな時に自分はずるい人間だなと良明は思う。
(こういう時だけ兄貴の立場を利用して自分を奮い立たせたりする。陽は自力で耐え抜いてるのに)
兄妹は同時に視線を前方に戻した。丁度、審判の持つボールが彼の手を離れた所だった。
「む?」
「ん」
安本と来須は、ちらと顔を見合わせて声を漏らした。
ボールの上昇もまだ終わらないうちに、良明と陽が手綱を引いている。そしてレインとショウはそれに一切戸惑ったり躊躇ったりする様子も無く、指示通りに敵陣――つまり薄石高コート――へと進行しているのである。
良明と陽の判断は、言うまでもなくけやきとガイがジャンプボールで競り勝つという前提の元でのものである。もしけやきが競り負けた場合には、当然大虎高コートは丸腰で薄石高の侵攻を受けることになる。
(揃いも揃ってコケにしてくれるじゃあねぇか……)
そう思った安本は、直後にその表情を強張らせた。
観客席が騒めき、あの不愛想な審判さえも動揺した。
ガイの鼻先からジャンプし鉄筋の様に真っ直ぐに姿勢を伸ばしたけやきは、久留米沢ユニットよりも人一人分も高い高度で白球をキャッチしたのである。
久留米沢は、けやきにボールを奪われた。それだけが結果であり、勝利か敗北か、1か0かの認識するべき結果であった。
だが、それ以上に衝撃的な現実に対し、安本は眼を見開かずにはいられなかった。
「ドルフィン……キャッチ……」
それはプロの世界ではよく見るジャンプボールの際の技であるが、高校生が公式大会の場でこれをやってのけた所を、安本は未だかつて見た事が無かった。安本が見ていないという事は、要するにウイングボールスクールが参加する様な、高校龍球ではない大会の場でもそれを使う高校生がいないという事である。
安本は美しいフォームで宙を舞うけやきに魅せられながらも、その手の中に捕らえられた白球により現実へと引き戻された。
「やべえ!!」
けやきはそのまま身体を一回転。流れる様な身のこなしで、良明めがけてそのボールを投げ放った。




