Deterministic Weather Report 外伝
Deterministic Weather Report http://ncode.syosetu.com/n4978ci/ の外伝です。時は本編の約40年前、八代がまだ若かった頃のお話です。外伝の前に本編を読んで頂けると幸いです。
八代茜の遺書
高度計算機研究機構の地下に眠る、第4生体計算機基幹計算ユニット、もとい八代卓は、葛藤とともに生きている。
この状況を生きている、と表現するのが適切か否か、ということにはとうの昔に興味が失せた。時折、自分がこうして存在することの意味、もう少し具体的に言うならば、このような形で存在することになった動機、発端のようなものを忘れてしまいそうになる。いや、もはや忘れてしまっているのだろう。あのとき感じた怒り、憎しみ、やるせなさといった言葉に代表されるような言いようのない感情を再現することは、科学技術がいかように発達しようとも不可能だろう。また再現することにも興味はないし、再現するためにはあまりにも時間が経ちすぎた。本来人が人として持つことが許された寿命はとうに過ぎた。それでもなお生を維持し、研究に執着する理由を、自問自答しなければならない。あのとき決意した目標に向かえているのか、これは茜が望んだ道なのか、を。
西暦2083年6月3日
「そんなぶっきらぼうで愛想のない性格だとこの先一生彼女も作れないだろうから、しょうがないから私が結婚してあげる」
そんな言葉をきっかけに今日、八代卓・茜の結婚式が開かれている。自分では特段自分の属性について考えることもなかったのだが、こうもはっきり第三者に言われると、妙に納得できるものである。特に積極的に結婚したかったわけでもなかったのだが、付き合い始めて5年が経過しようとしている頃であり、特に断る理由もなかったので、いわば流れに身を任せて結婚した。
出会いは大学のサークルだった。今となっては当時サークル活動に勤しんでいた自分が想像もできないが、「野鳥の会」の活動は基本的に山の中で野鳥を観察しているだけであり、なによりメンバー数も少なく、お世辞にも社交性が高いとは言えない私にはぴったりのサークルだったのだろうと思う。そんなどちらかというとネガティブな理由で野鳥を観察しているだけの私とは対照的に、茜は本当に自然が好きらしく、野鳥に関する知識も人一倍持っていた。
「大学の南側に大きな雑木林があるでしょ。あの雑木林って実は結構貴重で、日本ではあそこにしかいない鳥が結構棲んでいるんだよ。」
茜はよくそんな話をしていた。正直鳥のことにはあまり興味はなく、話の内容はあまり覚えていないのだが、その早すぎず遅すぎない話のテンポ、大げさすぎない笑顔、声のトーンのどれを取っても心地よく、不思議と一緒に過ごしていても疲れない感覚があった。
時は流れ、大学院生になると茜は本格的に野鳥の研究を始めた。いや、正確にいうと生態系の研究と言っていた気もするが、正直覚えていない。とにかく重要なのは、彼女が研究のフィールドとして選んだのは大学の南側の雑木林だったということだ。この土地は私有地らしいのだが、地主が世代交代し、新しい地主が特にこの土地に興味を持っていないため、ほとんど開放状態だという話だった。茜のような研究者が研究フィールドとして活用する他、近所の小学生の遊び場にもなっているようだった。
私自身がその雑木林に足を運んだのは数えるほどしかない。そのため、特段その雑木林に思い入れがあるというわけでもなかったが、大学院を卒業した後も茜は研究者としてその雑木林に毎日のように通っていたため、結婚後はいやでも雑木林に関する他愛のない情報が頻繁に私の耳に届いた。雑木林での新しい発見が本当に楽しいらしく、1日の会話の半分以上は雑木林に関するものだったと思う。
西暦2083年10月6日
夕方6:00頃、いつものように茜が帰宅する。いつものように「ただいま〜」と言い、いつものように着替えを済ませ、夕飯の準備にかかるのだろうと思っていたが、その日の茜はどこか様子が違った。なんというか、上の空というか、表情が硬いというか、ともかくその日は違ったのだ。
「雑木林に新しい工学部キャンパスを作るんだって」
茜が開口一番口にしたのはそんな言葉だった。
「工学部なら、今でも十分土地と設備を持ってるんだろう?」
「工学部って、ちょっと都心の方にキャンパスがあるじゃない?元々地価が高いんだけれど、ほら、今度万博が開催されるじゃない?その影響でますます地価が上がって、さすがに維持できなくなるらしいのよ。」
「でもあの雑木林は貴重なんだろ?茜の大学も結構研究に使ってるんじゃないのか?」
「そうなの。だから今農学部の教員を中心に反対表明を出そうとしているんだけど、なんだか今日の会議によると結構話進んじゃってるみたいなのよね…」
「さて次の議題ですが、工学部新キャンパスの建設についてです。現在委員会では、本キャンパス南側の雑木林を第一候補に、調整を進めています。」
「ちょっと待って下さい。本キャンパス南側の雑木林ってあそこですか?」
「そうですけど、なにか?」
「なにか?じゃないですよ正気ですか?あの雑木林は独特の生態系を持っています。大変貴重な雑木林です。研究としても大変興味があり、まだまだ調べ足りないのも事実としてありますが、なによりそんな希有な環境を簡単に潰していいと本気でお考えですか?」
「そんなに貴重なの?あの林。でも地主さんとも結構話進んじゃってるんだよね。あとは書面交わせばいつでも買収に応じるらしいよ」
「同じくらいの面積の土地ならこの近くに他にもあるはずです。例えば…ほら、東都鉄道の車両工場の跡地とか」
「君も知ってるだろう?東都鉄道はうちの学閥じゃないから、色々面倒なんだよ」
「そんな政治的しがらみと貴重な生態系の保全とどっちが大切だとお考えですか?」
「私らにとっては手続きが楽な方がいいね。そもそも本当に貴重なものならしかるべき手段で保護されるべきだろう?例えば国定公園指定とか」
「今は生態系全体の解明が進んでいないので、保護の必要性が認識されていないだけです。本学の研究者も、その解明のために日々あの雑木林でフィールドワークしていますが、少なくとも保護を訴えるまでにあと10年は必要です。」
「そんなに待っていられんよ。そんなことをしていたら、生態系解明の前にこの大学そのものが潰れかねない。工学部キャンパスの地価上昇は、それだけ本学にとってクリティカルな問題だ」
「ならばせめて他の土地を使うことも検討していただけないでしょうか。東都鉄道がダメだとおっしゃるなら…」
「北側の空き地、とでも言うつもりかね?あそこは土壌汚染区域だ。そんなところにキャンパスを建てたらそれこそ問題だろう」
「偉い奴らはなんにも分かってないのよ!何が学閥よ!学問に政治は関係ないわ!そんなの私が覆してやる!」
この頃の茜は、まだ人間としての生気を持っていたように思う。今考えると、もっとこの時期に茜の話を聞いてやれば良かったと思う。その日から、茜の帰宅時間は日に日に遅くなっていき、日付を超えることも当たり前となった。私は就寝が比較的早く、茜が帰宅する時間には既に寝ていることが多かったのだが、ある日たまたまふと目覚めると、少しやつれた茜が電気も付けずに机に突っ伏して泣いていた。ここ数日はずっと東都鉄道と交渉していたらしい。何かあったのか、とこちらから声をかけることをためらっていると、茜が細々とした声でしゃべり始めた。
「もう無理。世の中ってどうしてこんなに不公平なの?私が女だから?違う学閥で気に入らないから?土地が欲しければまずその体で払えって…」
私にはどういう言葉をかけてやれば良いか皆目分からなかった。愛する妻がこんな恥ずかしめを受けて、怒りを覚えないはずはない。だが、私にはこれまで怒りを覚えた経験がなかったのだ。
「もう時間がないの。来週には大学と地主の契約が成立してしまう。私一人の犠牲であの雑木林を守れるなら…」
「ダメだ!それは…」
言葉が続かなかった。私は黙って茜の頭を撫でながら、その夜は2人で机に突っ伏して寝た。その時の私は、「私一人の犠牲」の真の意味を、正しく理解していなかったのだ。
西暦2083年11月1日
茜の努力も虚しく、今日大学と地主との契約が結ばれる。私が起床すると、茜は既に家を出る準備を済ませて玄関を出ようとしていた。
「おはよう、茜」
茜は少しバツが悪そうに振り返る。
「おはよう、卓」
「もう行くのか?早いな」
「…うん。ちょっと色々準備しないといけないからね」
「そうか」
私はそのままリビングへ戻った。ふと、机の上のパソコンに目をやると、なにやら文章が書き連ねられている。私は興味本位でその文章に目を通した。
遺書
永保大学の新工学部キャンパス建設にあたり、私八代茜は雑木林を守るべく奔走してきました。その努力の甲斐無く、今日、雑木林に新キャンパスを建設することが正式決定されようとしています。再三申し上げた通り、あの雑木林は大変貴重な生態系を擁する林です。その価値を正しく理解しようともせず、ただただ政治的な理由で雑木林へのキャンパス建設を強引に推し進める者が、自由で健全な学問の砦である大学の運営に携わっていることが私には理解できません。本日私は、私自身の命をもって、最後の抗議をします。雑木林を知る研究者一人の命が、雑木林を守り、大学の暴走を食い止めることを願ってやみません。
夫 卓へ
このような形でお別れすることになってしまい、ごめんなさい。本当にごめんなさい。私はいつでも雑木林に居ます。寂しくなったらいつでも会いに来て下さい。
2083年11月1日 八代 茜
私は無意識のうちに雑木林へ走り出していた。広大な雑木林の中で、八代茜の首吊り遺体を発見したのは、1時間後のことだった。新キャンパス建設計画はそのまま継続され、現在その雑木林はない。
「大学の暴走を食い止める」という言葉から、科学技術の1極集中に至る思考過程に、論理の飛躍があることは否定できない。しかし、あの時の八代茜と同様、あの時の八代卓にはそれ以外の選択肢は見えていなかったのだ。全ては、権力を正しく使えない者に権力を与えたのが間違いだったのである。私が茜の元に行くのは恐らく何百年、何千年も先になるだろうが、もしその時が来たとして、私は茜に顔向けできないだろう。頭のどこかでは理解しているのだ。こんなのは茜の望んだやり方ではない、と。だが当時の感覚をほとんど忘れてしまった今となっては、今の私を否定する理由もないのだと、自分に言い聞かせる。
早いもので本編投稿からもうすぐ1年が経過しようという時期になりました。作者の環境も多少変わり、学生から社会人()になりました。絶賛お盆休み中なので思い立って書いてみました。今回のお話は、八代卓がまだ色々な意味で若かった頃に体験した、恐らく八代の人生を大きく変えたであろう出来事に関する短編です。相変わらず動機付けの無理矢理感は否めませんが、生暖かく見守って頂けると幸いです。
さて、現在 Deterministic Weather Report 続編も思いつきで執筆中です。近々公開予定なのでこちらもよろしくお願いいたします。