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「巷説牛若苦労話」

作者: 中仙堂
掲載日:2010/11/23


「巷説牛若苦労話」 


-第1話-





「巷説牛若苦労話」その一


 静寂な堂内はひんやりとして、凍てつく程ではないが、じっとして居られない寒さであった。なにやらどたどたと、乱れた足音がすると、突然引き戸が開き、眩しい外の光が差し込んだ。

大きな体躯の荒僧侶共が、一人の童を引きずるようにして、どすんとばかりに押し倒した。

「暫くそうして居よ!」

がらっと戸を閉めると固く戸締まりをした。

やがて彼等は最前の事も忘れた様に去って行った。

 此処は京の洛外。

一般の者が立ち入る事が出来ない、鞍馬山の或一寺であった。

やがて昼頃であろうか、雑事を一手に引き受けて居る寺僧の一人が、気付いた。

「おう。そう云えば、あの厄介坊主はどうした。」すると一人が、

「おう。泣きを入れてるか、膝小僧でも抱いて寝込んで居るんじゃないか。」

「いや、彼奴は、そんな玉じゃないぜ。」

「よし。行って見よう。」

三人連れ立ってがやがやと、先の薄暗い寺の納戸へと向かった。

「やられた!!」

「全く可愛い気の無い奴じゃ。」

納戸の窓の格子は破られていた。


「巷説牛若苦労話」その二


 暗い杉木立の中を数人の修験者が走り抜けた。

「おっ。牛若殿は。」

 ぎょっとした男達は焦って見回した。しんとした茂みの中は時折烏や、山鳥が鳴くのみであった。

「あんなに云い含めておいたであろうが。決して見放すんじゃ無いと。」

「すまん…。だが。」

その時遥か先に小猿のような人陰が見えた。「お~い、こっち、こっちじゃ。」

「む。居たぞ。」

「我々修験者も形無しよのう。」

「俄、修験者よのう。」

一人が云った。

「口を謹め。」

「はっ。」

十二、三歳であろうか、稚児頭の童子を囲んで、何処へ行こうと云うのか。

 暫く行くと道端に道祖神が一体祭られていた。その前には少々年輩者らしい修験者が居た。一同が近づくと

「牛若殿、ご無事で…。」

「爺も元気か。」

「はは、勿体無いお言葉。」

 男は鋭く周囲を見回すと。

「大丈夫か。」

やがて、再び童子を見つめると、

「爺。」

「は、何か。」

「母上には、いつ会えるのか応えよ。」

「ほっほう。」

きっと見据えると

「若殿、その話しは為さぬと、お約束の筈じゃ。」「へっ。忘れた。」

にたりと、笑う邪気の無い幼顔に、百戦錬磨の男も弱かった。

「仕様が無い御大将じゃ。」

「先日申し上げました。寺の戒はお守り下さらねば。」

すると童子は不満そうに

「判って居る。」

小声で

「今の御時世は、平氏の…」

「判って居る。」

「峻覚尊師の特別なお計らいで、若の御無事があるものを…。」

哀しそうな童子の顔を垣間見た男は、計らずも眼を背けた。

「直、その時節が来もうす。」

其の時、山の烏が大きくカアと哭いたとか。



「巷説牛若苦労話」その三


 宵も過ぎ皆夕餉を済ませたであろうその時、僧房の戸を軽くほとほとと、叩く音がする。「玄助か。」

「…。」

「何者じゃ。」

「牛どの。」

「その声は・飛び烏・であろう。」

「くっくっくっくっ。」

忍び笑いが聞こえる。

「云わんでも、判る。」

がらりと戸が開くとぼさぼさの髷を、汚い手ぬぐいで包んだ一五、六歳位の若者の顔が暗闇に浮かんだ。

「そろそろか。」

すると若者は

「そろそろでござる。」

と応えた。

「では、行くぞ。」

「はっ。」

 僧房で誘いを待っていたのは、十三、四才の童子であった。

「今宵でござる。」

星灯りを頼りに、二人はそっと、囚われの囲いを抜けて裏山に這い登って行った。

「済まぬの。」

すると、

「何の。」

ぽつりと云った。

「六波羅の囚われ人は元気か。」

「へっ。大丈夫でさ。」

二人は鞍馬の山中から隠れ隠れ下っては、監視の眼を逃れた。

 憧れの都の灯火は、早う下りて来いと誘い、天上の星空のように眼下に灯っていた。


「巷説牛若苦労話」その四


 「何と、到頭お山を下りてしまわれたか。」年輩の四十五、六歳であろうか。修験者の頭領然とした男が顔をしかめて云った。

「で、手引きは誰じゃ。」

若い一人が答えた。

「飛び烏で。」

「はっはっはっはっはっは。」

 思わず大笑いしてしまったが、取り巻く周囲の者共は、それで緊張が解けてしまった様に、ほっと安堵した。

「宜しいのでございましょうか。」

「仕様が有るまい。しかしなあ。母者恋しか。母を求むる心にはどうにもならんて。」

強面の男が云った。

「是からが偉い事じゃぞ、相手は六波羅だ。」

一同の唸り声が室内の静寂を埋めた。

 その頃牛若は、叡山の麓の里に降立って居た。永い拘束の果ての自由の身は、当人で無ければ判る筈もなし。思わず大きな欠伸をしたあと、激しい胴震いで伸びをした。

「牛殿、ほれ。腹が空いたであろう。」

飛び烏と呼ばれた少年は、懐から鄙びた粟餅を、牛若の手に握らせた。

「忝ない…」

即座に

「いんや。」

二人は茂みの中で黙って口に押し込んだ。


「巷説牛若苦労話」その五


「牛若が消えたぞ。」

 洛中に噂が広がった。長い間音信が絶えていた、源氏武者の希望であった。

明けの光明であった。勿論表だった話題では、悉く無視されて居たが、京の都でも耳聡い者には格好の話題であった。

「六波羅はどう出るじゃろ。」

「入道も肚の小さい奴じゃ。その内…。ひっひ。」…千里を走ると申します。

 悪事とは言えない迄も、こう云う秘め事は広まり易いもの。夜中の宵も、とうに過ぎた頃、京のあちらこちらで、六波羅の下級武士共が走り抜ける足音が響き渡った。

 京の加茂川沿いに、ある商人の屋敷があった。夜ではあったが、ひっそりと息を潜めるようにし、灯りの殆どを消して、外の動きに気配りを怠らなかった。

「はっはっは。ご無事で。」

「世話をかける。」

「なんの。しかし、こんなにお早く、お山からお下りになられるとは。」

「母者恋しを、女々しいと…。」

「いいえ、滅相も無い是でも吉次は、花も実もある男でござる。」




「巷説牛若苦労話」その六


 京の六波羅の屋敷は夜半にも関わらず、灯火も消える事が無かった。

「はっはっはっは。父上、多寡が童一人で何を狼狽えまするか。」

「…」

「おい。抜かるなよ。」

やがて屋敷を出て何処かへ向かう一団があった。

「最近の六波羅様は、どうしたんじゃろう。」

一般下々の噂は時の流れ、風説に敏感だった。「知らんのどすか。」

「いいや。」

女は辺りを用心深く見回すと。

「牛若さんじゃ。」

「何、ひょっとして?」

「ほら、知っとるじゃろ。」

「牛若さん一人に、何騒いどるのかいな。」

すると訳知り顔の男が

「童一人じゃない、後ろが居るのじゃ。」

「何じゃ、其れは。」

「おっと。其れは言えん。」


「巷説牛若苦労話」その七


 昨日まで底冷えのする厳寒の地にも嘘の様な暖かな空気が風となって流れ込んで来た。

体の芯から、活力がむずむずと湧いて来る。路行く童達の歓声にも、心洗われる様な、晴れやかさがあった。こんな陽春の一日、薄暗い屋内にくすぶって居る若者が居た。

「あれから二年…。」

「どうかなさりましたか。」

「ふふ。鞍馬より下山して早二年じゃ。」

「はっはっは。何の事やら。」

「乱世とは云うものの、あの童共の邪気の無い事よ。」

若者の眼尻から一筋流れる物が見えた。

 若者の相手は思わず眼を背けた。

「そうそう…黒谷の、さるお方の処に、最近年増の御方が居らっしゃるそうな。誰ぞや知らんが…。」

 上の空の若者は一瞬、ぴくりと動揺した。

その変化にしたりと微笑んだ男は又、余計な事を為したかと、複雑な色を見せた。若者の顔に少し光が差したかに見えた。



「巷説牛若苦労話」その八


「これ、そこの童。黒谷の上人さまは、どちらか。」

 緑が萌始めた京の都。黒谷を訪れるのは初めてであった。一年三六五日想うは只、未だ見ぬ常盤の事であった。

父義朝公はおろか、未だ頑是無い頃の記憶は、真昼の雪のように真白であった。

 鞍馬の荒法師や、天狗共に育てられたとは云え、牛若も木の叉から生まれたではなし、磁石に鉄片が引き寄せられるように、慈母の事は思わずには居られないのが、母子の情と云うものであろう。

「此処だよ。」

「忝ない。」

「あいよ。」

 其れは実に質素な僧房であった。

時折、町家の者や、旅人、身分を隠した武士風体の者、実に色々な人間が和やかに入っていった。

若い青年には何故か入れる切っ掛けが掴めなかった。

「牛殿。」

突然呼ばれた人声に思わず振り向くと、飛び烏であった。

「お前か。」

「六波羅が煩うござる」

一人前に成長したのか心配顔の飛び烏は、牛若の動きを察知して、追て来たらしい。




「巷説牛若苦労話」その九


 京の都は春であったが、若者の心に未だ春など遠い存在であった。

 黒谷の上人の僧房では、俄に人々のどよめきが消え、読経が始まった。若者には堪え難い永遠の時の流れに聞こえた。

 物陰で伺っていたが、やがて痺れを切らして、思わず出て行きかけると、

「待てッ。」

と飛び烏が押し止めた。

 路の向こう側から数人の役人が、鷹揚な構えで歩いて来た。

「ちっ。六波羅じゃ。」

「なに、くそ。」

「ま、待ってくれ。」

「牛殿。儂の立場は、どうでも良い。短気は身を滅ぼすどころか、お袋様が哭からっしゃるぞ。」

思わずびくりと若者は体を震わせた。下を向いてじっと堪える事にした。

「おいおい、またかい。」

「詰まらん事をやりおる。」

「抹香臭いわ。」

「一つ嚇してやるか。」

「待て待て、何の得がある。やめとけ、罰が当るぞ。」

「ほ~う、罰が恐いか。」

「まあ、止そう。」

「町人を相手にしても、六波羅の自慢にはならん。」

「そうじゃ、そうじゃ。」

ちょいと、僧房を除き込むなり、間もなく六波羅の役人は去って行った。

 読経に続き中では、笑いあり、啜り泣きあり、それがどよめきとなって、若者の耳に入って来るが。海原のさんざめく、波の音の様で、若者は上の空であった.

「巷説牛若苦労話」その十


「おい、牛殿。」

若者は、はっと驚いた。

「どう、致した。」

「どうじゃ無いぜ。もう終った様じゃ。」

牛若が驚いて見回すと、多くの聴聞者は雪崩の様に帰宅の途についていた。

「毋者。毋者、毋者。」

 口元で常盤を呼びながら、その子は夢中で人だかりの中を駆け回った。

 僧房では、数人の僧が箒で掃いたり、打ち水で、人々が舞い上げた埃を鎮めたりして居た。「むむっ。母者、いや。常盤様は如何致した。常盤…。」

「どうなされた。」

突然の闖入者に年輩の僧が尋ねた。

「と、常盤さまは?」

「どちら様か存ぜぬが、如何いたしたか落ちつかれてお話なされよ。」

目を怪しく血走らせ、興奮状態の若者に尋常ならざるものを感じた僧の配慮だった。

 暫くして

「こちらに、お女中で、常盤様と云われる方が見えませなんだか。」

「はてさて、その様な方は存ぜませぬが、多くのご聴聞の方にもしかしたら、居られたかも知れませぬな。」

 じっと、青年の目を見つめる僧は、若者に邪悪な影は無く、むしろ思いつめた悲しい光りを見た。

「どの様なお関わりでござろうか。」

若者ははっとして口を噤んだ。

「ん、申されんでも良い。」

「常盤様と云えば先の源の義朝公の、想い人。」若者の目がきらっと光った。

何かしら説破詰まった若者の心を悟って、

「お若い方、心配は御無用。ここは、御仏の國。気遣いは要らん。」

何かを見抜いたかの様に

「そうよ、のう。お若い方、何事も辛抱が肝心。急くと何事もし損じるぞ。」

「…。」

「困った者を救うのが、我々仏弟の役目故の。諦めず辛抱するのじゃ。その時には某か応えられる事もあるであろう。」

やがて僧房からは、すっかり肩を落とした若者が姿を現した。

「…。」

飛び烏がそっと見送る姿があった。


「巷説牛若苦労話」その十一


 六波羅の平兼盛の館で酒宴が催された。宵の口から庭内あちら、こちらに篝火を焚いて、歌舞を楽しむ仕掛けであった。女房衆もうち揃い、宴も酣のころ主が上機嫌で広庭に出て来た。

さて何事かと云えば、お得意の男舞いを披露する所存らしかった。

 ほろ酔い気分で、ふらふら瀕死の蝶の様に舞う姿は、酒の肴になる程のものではなかった。  

 舞いも終わりて、さてその余韻を皆々楽しんでいた。すると突然庭の方から

「ぎゃっ」

 と蝦蟇をひねり潰した様な悲鳴がした。

 何事かと慌てて駆け寄れば、先程の屋敷の主が、穴に嵌って泥だらけになって居た。その時遥か塀の外で

「何奴!」

 と警護の武士の大声がした。いきなり走り去る足音がした。すると警護の武士共が、怪しい男を追い掛け始めた。

 暫く追い掛けても、足の速さは尋常ではなかった。到頭行き止まりの袋小路へ追い詰めた。「曲者め、尋常に直れ。」

するとそこには、涼しい顔をした男が立って居た。

「どう為された。」

「怪しい奴め。」

しかしその男は息一つ乱れず、六波羅の追い掛けていた怪しい男とは別人らしかった。

 厳しい詮議を受けたが、やがて嫌疑は晴れて、釈放された。薄笑いを浮かべた飛び烏であった。


「巷説牛若苦労話」その十二


 六波羅一族の屋敷は夜ともなれば、我が世の春と活況を見せていた。

 一帯は篝火が並び、日夜、殿上人も足繁く通いつめて居た。如何にも不夜城の名に相応しかった。平家に非らずば人に非らずと、

 そんな奢りに水を差す出来事があった。

「おい。聞いたかい。」

六波羅から程遠くない飯屋で数人の町人が、噂話しをして居た。

「何じゃい、出し抜けに。」

すると、

「最近なんだってなあ。六波羅様も…。」

と云いつつ辺りを見回すと、小声で

「落ち目だそうじゃないかい。へっ。」

「これっ。声が大きいぞ。連中に聞こえてみろ、大した歓迎だぞ。」

「おお、嫌だ嫌だ。」

「そりゃ、恐いやのう。」

「儂ゃ聞いたぞ。最近五条の橋に、入道が出るそうな。なんでも平家の腰抜け共の、刀を奪い取るとか。うっはっは。」

其の時、店の女将が

「お止し、六波羅じゃ。」

一瞬で店の中は水を打った様になった。

 すると

「ごめんよ。」

「このっ。おふざけでないよ。!」

一同ほっと安堵の中、

「いや~。命がちじまったぃ。」

女将のとんだ冗談に大汗をかいてしまった。

 そんな女将も

「でも、見てみたいね、其の入道をさ。」

「きゃっはっは。そうだよな、おいっ。」

「行ってみようか。」

「よせやい、冗談だろ。」

五条に出没するとか云う怪人や、弱腰平家の話で持ちきりであったとか。


「巷説牛若苦労話」その十三


 飛ぶ鳥落とす勢いの一族があれば、その勢威の陰で、ひっそりと息をして居る人々もいた。 

 みすぼらしい住いは、表の権勢をよそに、年増と侍女二人の侘び住いであった。

 時代から取り残された初老の媼が、座敷に独り寛いでいた。

「白湯でもお召し上がりになられましょうか。」「おう、かえでや、後にしてくだされ。」

「時に主さま。世間のお噂は、ご存知で…」

すると女主人は

「こんな年増女に、世間の噂話しなど語る者もあろうか。」

と哀しい薄笑いを見せた。

「菜売りの男が申すには、五条の橋にこの頃、大入道が出るそうな。」

「おお、恐や恐や。」

侍女は笑いながら小声で、

「六波羅の大入道が縮こまって居るそうな。」

すると主は、きっと睨んで

「これっ、その様な恐ろしい事、おくびにも語る事は、儂が許しませんぞ。誰が聞いて居ろうか。」

「あの…。」

「なんじゃ。ゆりの。」

「お客様がお出ででござりますが。」

「はて、何方であろう…。」


「巷説牛若苦労話」その十四


「何方じゃ。」

「はい、其れが申しませんで…。」

「六波羅か…。」

「いいえ、その様にはお見受け致しませぬ。」

「十四、五歳の美しい殿方で、」ゆりのは、少々顔を赤らめて俯いた。

「はて、用向きは。」

「はい、其れが常盤様に只一目なりとも、願えればと…思いつめたご様子で。」

 其の時、常盤の顔が、さっと青ざめた。何やら遠い過去を振り返る様な眼差しに、思い当たる事が有るらしく伺えた。

「如何致しましょう。」

(あの子かも知れない。いいえ、きっとそうであろう。)

「主さま…。」

「かえで、その者に合おう。」「では、奥へ。」 

 煩い世間の目を、如何に対処するか。

それより到頭その日が来た。常盤は打ち震える胸を必死で鎮めた。

 先ず部屋の中央に祭った厨子の扉を開き、御仏の御名を誦した。

「南無…。」




「巷説牛若苦労話」その十五


 常盤は六波羅に捕われたと云う、母を案じて危険を冒した。我が子の命行く末を案じながらも、慈母の苦しみの前には、全てを投げ出さずには居られなかった。

 暗い闇の中に浮かんだ、六波羅の灯火は常盤にとって正に地獄の火と、思えたであろう。「其処に直れ。」

「…」

「ふ、声も出ぬか。」

「お許しを。」

「そちが、義朝の女か。」

 ずけずけと遠慮もわきまえぬ、叱責、詮議の嵐に常盤の心は千々に乱れた。

「おうっ、あどけない顔をして居るが、やがて我々平家の仇となろう。」

「父上早う致さぬと。」

流石に清盛公は、あからさまに嫌な顔をして背けた。

「儂は知らんぞ。」

「父上が弱気では示しが付きませぬ。」

其の時屋敷の奥から慌ただしい足音が響いて来た。

「清盛殿。後生でござる。何卒。後生じゃ。」


「巷説牛若苦労話」その十六


 池の禅尼の計らいで、辛うじて我が子の生命は繋がった。しかし、其れからは親子を名乗れぬ、辛い歳月であった。

 そして、今目の前に居るのは奇跡的に窮地を脱っした、其の時の幼子であった。

「一度失った生命。粗末にするでない。」

 と云いつつも、我が子の肩を抱く常盤には、他に云うべき言葉が浮かばなかった。

「そなたが恙無く居る事は判った。しかし二度と此処へは来るでない。」

暫く身を揉んでいた若者もやがて諦めた様子で頷いた。

「はい。」

媼は外のかえでを呼んだ。我が子に形見の品として錦の袋を与えた。

「是は我が家に伝わる名笛《草刈り笛じゃ。》儂と思うてのう…。」

「忝のうございます。牛若一日とて母上の御事を忘れた事はござりませぬ。此の品母上と思い肌身離さずに居ます。」

「そうか…。」

聞きたい事は山程あり、語りたい事は又山程ある。しかし、常盤は意を決して云った。

「もう、行きなされ。六波羅の事は一時も油断なされるな。」

「母上…。」

 未だ何か云いたそうな顔に別れを告げた。母は後ろを振り返らず逃げる様に部屋を後にした。若者は暫くその母の残り香を心の隅に止めようとした。




「巷説牛若苦労話」その十七


 川面に霞みが立ち朝日のきらめきに水鳥達が見え隠れする加茂川に、早くから荷を負うた里人が行き来するのが見える。

 そんな静寂を破って、街道を何かがやって来る。七騎の早馬だった。疾風のような勢いに、人は怪んだ。

「おいっ。きゃつらは何者ぞ。」

 馬上の一人は危うく舌を噛みそうになった。「この六波羅に歯向かうとは良い度胸だぜ。」「なに、此の平家一門に仇なす奴は決まっておる。」

「源氏かい。」

「そうとも。」

「先の果たし合いで死に損なった、田舎武者じゃ。」

話に夢中で、罪も無い町人達を馬もろとも足蹴にする等、とんでもない仕打ちであった。


「巷説牛若苦労話」その十八


「獲物は北か。」

「盛経殿が先手で回っておる。」

「おうっ。」

 砂埃を立ちあげて只管駆けると、鞍馬の街道筋に黒山の人だかりがあった。

 六波羅のあまりにもの横暴振りが、到頭肚に据え兼ねたのであろう。反平氏勢力が決起した処で、肝心の時に六波羅へご注進が入ったのであろう。

「控えよ、控えよ。」

其処には野武士や、修験者崩れの様な如何にも怪し気な風体の者。皆平氏一色の世の中に、辟易したのであろう。

 一網打尽と云う処であった。多くの者が手負いとなった。呻きながら未だ抵抗する者。早々に退散する者。

 しかし其れは逃さじと大変な騒ぎであった。その手負いの中に一人の若者が居た。

「あっ、お前だな~。」

思わず若者は目を逸らした。


「巷説牛若苦労話」その十九


 いつかの鮮やかな変り身は六波羅の役人の節穴を誤魔化せても、今日の白昼の始末はさすがの飛び烏も、どうしようもなかった。

 おまけに左腕に矢傷を受けてしまった。

「お前はいつかの若造だな。」

「お前はいつかの腰抜けじゃな。」

「何を。」

すると役人仲間からも、苦笑が涌いた。

「ひっ捕らえろ。」

役人は烈火の様に怒った。顔が割れてしまった飛び烏は、役人共の荒っぽい扱いに身を任すしかなかった。

 さんざ歩かされ、六波羅の獄門へ押し込められてしまった。

「ほうれ、お情けじゃ。喰えや、喰えや。」

地獄の門番の鬼の様な男が、飯を配って居た。飛び烏は全身に痛みが走った。体が火の様に熱かった。

「お前。熱くて喰えんのじゃろう。儂が喰ってやろう。」

 囚人の仲も中々のものだった。飛び烏は全力を振り絞って、飯を取り返した。

「ほっほう。お前中々元気があるじゃないかい。」


「巷説牛若苦労話」その二十


 夜も更けていた。

「お前の名は。」

「と、飛び烏じゃ。」

「熱くて眠れんのじゃろう。」

「涼しくて良い気分じゃ。」

「ふっ、はっはははっ。」

「おいっ、煩い。」

ちら、と振り返ると

「お前、幾つじゃ。」

「歳なんか幾つでも良いじゃ。」

「はっ、可愛いもんだ。はっ。」

飛び烏は、ついと顔を背けた。

「おっ母ぁが居るじゃろ。」

「くっ。」

「どうした。」

「儂は木の叉から生まれたんじゃ。」

「はっ。」

「おい、煩いのじゃ。」

中々夜は眠らせてくれなかった。

「ふ、木の叉か。」

「儂も木の叉を見ると、何か懐かしい気になるもんじゃ。」

「ははっ。」

「儂の名は、笠置の海山坊と申す。」

「いかれた名じゃ。」

「飛び烏とて似た様なもんじゃ。」

「はは、違いないや。」

 やがて半時もすると、獄門の中は地獄の様な鼾で一杯になった。


「巷説牛若苦労話」その二十一


 牢屋の中にも人間らしい交流があるらしい。

「おい。飛び烏。」

「是を喰え。」

この様な巷でもお互い気が合い、打ち解けると少しは人間らしい感情も芽生えるようだ。

 典型的な事では毎日の飯。いや単純な暮らしで他にこれと謂う事も無いからかも知れない。その晩遅く、飛び烏は顔の上に砂がぱらぱらと、振りかかるので眼が醒めた。

「ん。」

 ふと眼を向けると、自分の頭上の灯り窓から、誰かがじっと、こちらを伺っていた。

「飛び烏か。」

聞き覚えのある声から思わず応えた。

「牛殿か。」

相手は無言で小刀を手渡した。

「一時後に…。」

云い残して消えた。


「巷説牛若苦労話」その二十二


 夜もかなり更けた頃、六波羅の片隅から怪しい火が、ぽっと燻り始めた。

 夜遊びが祟り、すっかり寝込んで居た武者溜まりの男達も、何が何やら、よく判らないで居た。

 その時

「火事だ~。」

「ぎゃっ」

「何者じゃ。」

「出会え。出会え。」

忽ち火は一角に燃え広がった。

 その時、あらぬ方角では人目を憚りながら、男達が動きだした。

「おおいっ、逃げたぞ。おえっ。」

「いや、火の方が先だ。」

 と六波羅界隈は右往左往の混乱が続いた。脱獄の手引きをしたのは、若い童子の風貌をした青年であった。

「牛殿、済まない。」

「ははっ、何の事じゃ。」

騒ぎは明け方まで続いたそうな。


「巷説牛若苦労話」その二十三


 京は華の香に咽ぶ様な霞につつまれていた。

瀟洒な構えの屋敷が立ち並び背後に、やや、うらぶれた家があった。

 庭先にさつきが一群れ咲いて居た。

一人の年増が庭先で着物を取り込んでいた。

「かえで殿。」

「あれ、若。…」

思わず周囲を見回し、庭先に佇む若者を奥へ招き寄せた。

「これっ。若殿。来てはならんとお伝えした筈じゃ。」

其処には青白く顔を引き攣らせた女が居た。

「申し訳ござりませぬ。

このかえでの不始末でございます。若には何の…。」

「かえでも、かえでじゃ。」

「母者…。」

「其れを申してはなりませぬ。」

「いいえ、儂もそう分別の無い年頃とお思いか。」

「分かって居る。」

 声を潜めて、

「先夜ものう、六波羅の探査であろう。怪し気な男がこちらを伺って居った。」

「儂が今度、成敗を。」

「止して下され。入道殿に知れたら其れはもう、地獄じゃ。」

「…。」

「分かった儂は帰る。」

「一寸お待ち。かえで。」

「はい、ご用で。」

「あれを持たせておいで。」

「餅菓子でございますね。」

 母堂と見ゆるが女はこっくりと頷いた。

「儂はそんな物は要らぬ。」

 もう、童子では無いとばかりに、首を振った。

 その仕種に幼い時の侭の可愛らしさが彷佛したか、

女は思わず若者を二の腕に掻き抱き、

「後生だよ。粗末にしないでおくれ。」

 暫く二人は石の様に、身動きも無く抱き合った。

 漸く心の空白を埋める事が出来たか、

若者はささやかな女の仮住まいから立ち去った。

 その後ろ姿に「五条の橋は悪法師が居って、悪さをするそうな。

避けて行かれ。」

と云った。

青年はその言葉にニコリと、爽やかな笑顔を返した。


「巷説牛若苦労話」その二十四


 京の春は突然やって来る。艶かしい六波羅近辺は、不夜城の如き華やぎを見せて居るが、ある辻を境に急に寂し気な巷となる。

 薄ぼんやりと霞んだ、おぼろ月夜に、何処からともなく現れたのは、何不自由なく我が世の春を決め込んだ御仁。

「う~、今日は良かった。うん。」

「太夫の、また声が可愛い。」

すると一人の男がふと、気付いた。

「おっと、こちらは鬼門じゃ。」

「なんと、鬼門とは。」

「五条じゃ。不味い。」

「なに、どうって事は無し。平家武者に恐いものが有るか。おいっ。」

「からむなよ。」

すると途中まで渡りかけた橋の向こう岸に何やら人陰が見えた。

「ん。」

「お前、何者だと思う。」

向こうの怪しい人陰も、こちらに気付いたと見えて、近づいて来た。



「巷説牛若苦労話」その二十五


「来たぞ、ぬかるな。」

「おうっ。」

怪し気な人陰は、ひたひたと近づいて来て、数間先でぴたりと止まった。

「おおっ、お前か。」

「権助ではないか。どうしたんじゃ。こんな夜。」  

 どうやら知り合いの用事で川向こうまで出かけて居た帰りであるらしい。

「旦那様、こんな晩、五条の橋は止した方が

ええです。」

「儂等平氏の侍に恐いものが有るか。」

権助はそっと伺い

「そんなもんですかい。」と

「ふん。聞き捨てならん。匹夫の分際で。」

「へいっ、御免を。」

 その時、向かい側から、がらん、がらんと高下駄の乾いた音が不気味に響いて来た。

「ひゃっ。」

「おいっ、権助めもう、……… いっちまいやがった。」

 向こうからは謎の人物は高下駄を響かせ更に近づいて来た。

「さて、お刀頂戴つかまつる。」

「お刀頂戴つかまつる。」

「うぉ~っ。」

 恥も外聞も無く一目散に立ち去った。

「ふんっ、近ごろの侍は骨の無いのが、うじゃうじゃと。」

「仕様も無い。こんな立派な物を。要らぬのなら、頂くまで。」

六尺を超えた大入道であった。暗いおぼろ月夜に刀の品定めをして居ると、何やら又人の気配を感じた。

「忙しい晩じゃ。」




「巷説牛若苦労話」その二十六


 薄ぼんやり霞んだ月には丸く暈がかかり、妙に明るい晩であった。入道の耳にも心に滲みる良き音色が響いて来た。

 殺伐とした荒法師の心も、何となく和ませて呉れる、笛の主は遠目には童の姿に見えた。「この様な晩、よりによってこんな物寂しい五条の橋を渡るとは、果たして夜叉か、物の怪か。」

 しかし、相手は小柄ながら、少しも動ずる様子は無かった。つい眼と鼻の先まで来て、一向に歩みを止めようとはしない。

「まて!」

荒法師は大音声で云った。

「此処の五条の橋を小童めが、儂を目の前にして、人も無気に通り過ぎようとは。正体を暴いてやる。」

「何用じゃ。」

 一見童に見て取れるが若者はきりりとまなじりを上げて睨み据えた。意外な展開に驚いたのは荒法師であった。




「巷説牛若苦労話」その二十七


「小童に刀は不要であろう。置いて行け。儂が頂戴する。」

「ふん、嫌だと申したら…。」

急に法師は表情を変えた。

「儂の名を武蔵房弁慶と知っての事か。」

「そんな名等儂は知らん。」

「小僧、申したな。」

「小僧では無い。名乗る筋合いも無い。」

云うが早いか、法師は大薙刀をすらりと構えた。「面白い。」

若者は動じもせずに、清清しい笑いを見せた。「うおっ。」

 薙刀の空を大きく舞うのが見えた。素早く躱された法師は、平衡を失い、よろめいた。

 しかし、ニの振り三の振りで迂闊にも欄干に深く切り込んで法師の動きは止まってしまった。

 欄干の上に駆け上がった若者は、その隙に法師の顔面と胸板に強烈な蹴りをした。

その俊敏な動きに、どうと倒れた法師は、直ぐに立ち上がる事は出来なかった。

 上に輝くおぼろ月を眺めながら、

「うあっはっは…。」

 流石の荒法師弁慶も恥辱には耐えられなかった。




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