冷酷無情な辺境伯の形骸妻でしたが、毒殺される前に家出します 〜規格外の魔力隠蔽を解いて森の廃屋を整えていたら、帝国元帥が瀕死で転がり込んできて執着が始まりました〜
冷え切った自室の長椅子で目覚めた瞬間、エミリアはすべてを思い出した。
自分がこの先の人生で辿る、みじめで冷酷な破滅の全貌を。
それは予知夢などという生易しいものではなかった。魂の奥底に焼き付いた『記憶』だった。
社交界の花形だった妹の身代わりとして、北方の「黒地獄」と恐れられる氷雪地帯、ノースヴァル公爵領の当主――ディルク・フォン・ノースヴァル辺境伯へ嫁がされてから半年。
ディルクは婚姻の夜に「お前を妻として愛することは永遠にない。この屋敷の片隅で、息だけをして暮らせ」と吐き捨て、一度たりとも寝室に姿を見せなかった。
使用人たちは女主人の冷遇を敏感に察知し、日を追うごとに無礼を極めた。やがてエミリアは食事に微量の遅効性毒を盛られ、身体の自由を奪われた末、ある雪の夜に「衰弱死」として片付けられる――それが、彼女が思い出した未来の結末だった。
(……馬鹿馬鹿しい)
エミリアは乾いた唇の端をつり上げた。
自分は今日まで、生家の冷遇に耐え、身代わりの婚姻を受け入れ、いつかディルクの氷の心が溶ける日を信じて健気に尽くしてきた。だが、その結末が毒殺だというのなら、なぜ従順でいる必要があるのか。
カチャリ、と無遠慮な音を立てて扉が開き、古参の侍女長が銀盆を乗せたワゴンを押してきた。盆の上には、見るからに薄く不透明な色の粥が載っている。
「奥様。朝食でございますよ。冷めないうちに召し上がれ」
侍女長の瞳には、隠しきれない侮蔑と、かすかな観察の光が宿っていた。
エミリアは、幼少のころから「欠陥」と罵られ、決して表に出してはならないと実父に禁じられてきた自らの力を、静かに内側で解放した。
彼女の生家である子爵家は代々、極めて稀少な『神聖変容』の魔力を帯びる血筋だった。だがエミリアの力はあまりに強大すぎた。強大すぎる力は他者の魔力を無意識に圧迫し、狂わせる。そのため彼女は、幼い頃に魔力回路を自ら完全に遮断し、魔力測定では「無能」と判定されるように偽装し続けていたのだ。
遮断をほんのわずか、針の穴ほど緩める。
途端に、粥の表面から立ち上る魔素の歪みが、エミリアの瞳にはっきりと黒い澱みとして視認できた。心臓麻痺を引き起こす、北方の自生毒草『雪影草』の抽出液だ。
「……ありがとう。後でいただくわ」
エミリアが穏やかに微笑むと、侍女長は嘲笑を噛み殺した顔で一礼し、足早に出て行った。
「さようなら、ノースヴァル邸。どうぞお元気で」
エミリアは粥を暖炉の灰の中にすべて流し込み、銀の器を布で綺麗に拭った。それから、持参したわずかな私物の中から、実母の形見である外套と、頑丈な革靴を取り出した。
宝石もドレスも一切持たない。
身代わりの花嫁として持ち込んだ荷物は、最初からトランク一つに収まる程度だった。
彼女は寝室の窓を開け放った。外は氷点下の吹雪。だが、完全解放されたエミリアの魔力は、彼女の全身を柔らかな光の繭となって包み込み、猛吹雪の冷気を微風に変えた。
屋敷の警備結界など、彼女にとっては蜘蛛の巣に等しかった。音もなく雪の庭へ降り立ったエミリアは、一度も振り返ることなく、領地の境にある禁忌の地――『常冬の原生林』へと姿を消した。
それから三ヶ月。
原生林の最深部、かつて古の魔女が暮らしていたという石造りの廃屋は、見違えるような空間へと変貌を遂げていた。
「よし、屋根の断熱結界はこれで完璧ね」
エミリアは額の汗を拭い、腰に手を当てた。
森の廃屋を見つけた当初は、崩れかけた壁と雪の吹き溜まりに覆われた無残な残骸だった。
だが、彼女の『神聖変容』の魔力は、物質の分子配列を整え、活性化させる特質を持っていた。朽ち果てた木材に魔力を通せば強靭な樫の木のように引き締まり、ひび割れた石壁は隙間なく接合された。
今や室内には、暖炉の心地よい爆ぜる音が響き、蜜蝋の甘い香りが満ちている。
窓辺の鉢植えには、本来なら春にしか咲かないはずの薬草や、甘い実をつける野苺が青々と茂っていた。エミリアが魔力を通して淹れた野草茶は、飲むだけで疲労が霧散し、魔力回路の不純物を洗い流す奇跡の霊薬と化していた。
誰の機嫌を伺う必要もない。誰かの冷たい眼差しに怯えることもない。
パンを焼き、森の恵みを採集し、夜は暖炉の前で本を読む。自分が自分であることの圧倒的な自由と幸福が、ここにはあった。
そんな静寂が破られたのは、ひときわ嵐の激しい夜のことだった。
ドサリ。
扉の外で、重いものが雪に倒れ込む鈍い音が響いた。
エミリアが警戒しながら短剣を手に扉を細く開けると、そこには全身に重傷を負い、純白の雪を深紅に染めて倒れ伏す大男の姿があった。
「……嘘でしょう」
息を呑んだ。
雪にまみれた漆黒の髪。彫刻のように鋭く整った顔立ち。引き締まった巨躯にまとっているのは、帝国軍最高位の軍服――そして、胸元に刻まれた銀の狼の紋章。
ディルク・フォン・ノースヴァル。
エミリアを冷遇し、放置し、あの屋敷に閉じ込めた張本人であり、帝国の『氷雪の軍神』と恐れられる男だった。
背中から左胸にかけて、魔獣の鉤爪によるものと思われる凄惨な裂傷があり、傷口からは紫色の瘴気が立ち上っている。即死していてもおかしくない致命傷だった。
見捨てて扉を閉めるべきだ、と理性が囁いた。彼は自分を捨てた男だ。ここで息絶えれば、エミリアを縛る過去は完全に消え去る。
しかし――エミリアの指先は、すでにディルクの凍りついた手首を掴んでいた。
「……私の平穏な森で、勝手に死なないでちょうだい」
エミリアは歯を食いしばり、成人男性の重い体を必死に引きずって室内の敷物の上へと運び込んだ。
軍服を裂き、傷口を露出させる。魔獣の猛毒が全身の血管を黒く染め上げていた。通常の治癒魔法では、毒を巡らせるだけで助からない。
エミリアは両手を広げ、躊躇なく自らの全魔力を解放した。
黄金色の光が部屋全体を満たし、廃屋が神殿のように輝く。彼女の『神聖変容』の力がディルクの胸へと流れ込み、猛毒の分子を直接分解し、引き裂かれた筋肉と皮膚を猛烈な速度で再生させていく。
ディルクの荒い呼吸が次第に整い、青白かった頬に朱が差した。
治療を終えた時、エミリアは疲労のあまりその場にへたり込んだ。外は夜明けを迎え、木々の隙間から黄金の朝光が差し込んでいた。
「う……ん……」
低くかすれた呻き声とともに、ディルクの長い睫毛が震え、鋼色の瞳が開かれた。
その瞳が、驚愕に見開かれる。目の前に広がるのは、暖かく満ち足りた清潔な室内、甘い薬草の香り、そして――乱れた髪のまま息を整えている、かつて自分が捨てたはずの「無能な身代わりの妻」の姿だった。
「……エミリア……? なぜ、お前が……」
ディルクは起き上がろうとして、己の体が完全に治癒していることに気づき、さらに言葉を失った。
「馬鹿な……私は、深淵の変異魔獣の毒を受け……心臓が止まりかけていたはずだ。この傷を癒せる魔法使いなど、帝国全土を探しても……」
「目覚めたのなら、すぐにここを出て行ってください、辺境伯閣下」
エミリアは冷たく言い放ち、暖炉の火を火かき棒で突いた。
「ここは私の家です。あなたに提供する施しは、その命を拾い上げたことだけで十分でしょう」
ディルクは呆然とエミリアを見つめた。
かつて屋敷の片隅で、俯いて怯えていた影の薄い少女の面影はどこにもなかった。毅然とした背筋、意志の強い光を宿した瞳、そして室内を満たしている、神聖と呼ぶにふさわしい圧倒的な高濃度の魔力。
「……お前が、私を治したのか?」
「否定しても信じないでしょう。そうです。私には生まれつき魔力がありました。あなたの屋敷で『無能の穀潰し』と蔑まれていた女に、命を救われた気分はいかがですか?」
エミリアの辛辣な言葉に、ディルクは顔を歪めた。怒りではない。それは、胸を抉られたような苦悶の色だった。
「違う……私は、お前を無能などと見下したことは一度もない……!」
ディルクは床に手をつき、震える声で絞り出した。
「お前が子爵家で虐待同然に扱われていたことは知っていた。あの強欲な父親がお前を身代わりに送り込んできた時、私は……私の呪われた魔力でお前を傷つけることを恐れたのだ!」
「……なんですって?」
エミリアは眉をひそめた。
ディルクは手袋を脱ぎ捨て、己の右腕を露わにした。そこには、皮膚の下で黒い光が脈打つ、禍々しい紋様が刻まれていた。
「ノースヴァルの血筋は、代々『暴走する破壊魔力』を宿す。感情が昂れば周囲を凍てつかせ、触れる者すべてを破壊する呪いだ。私は幼い頃から戦場に身を置き、人を遠ざけて生きてきた。お前のような繊細な小鳥を娶れば、いつか私の魔力で殺してしまうと思った……だから、遠ざけたのだ。『息だけをして暮らせ』と言ったのは……私の側に近づくなという、不器用すぎる警告だった……!」
エミリアは絶句した。
あまりにも不器用で、独善的で、言葉の足りない男の言い訳。
「だが、私が前線に出ている間に……お前は屋敷から消えた」
ディルクの鋼の瞳から、大粒の涙が零れ落ち、床の木目を濡らした。帝国の軍神と呼ばれ、決して膝を屈することのなかった男が、彼女の足元で崩れ落ちていた。
「お前がいなくなって初めて、屋敷の者どもがお前に何をしていたかを知った。毒を盛っていた侍女長も、それを扇動していた家令も、すべて地下牢へ叩き落とした! だが……お前はどこにもいなかった。吹雪の森へ消えたと聞き、私は半狂乱で森を彷徨い……魔獣の群れに囲まれ、死にかけていたのだ。お前を……お前を失った世界など、私には何の価値もなかったからだ!」
ディルクは這うようにしてエミリアの足元へ近づき、彼女の革靴の先へ額を押し当てた。それは、騎士が主君に捧げる以上の、狂おしいまでの服従の礼だった。
「許してくれとは言わない。私がお前を追い詰めたのだ。だが……頼む、エミリア。私をここから追い出さないでくれ。お前の視界の端に置くだけでいい。薪割りでも、森の魔獣狩りでも何でもする。お前が生きているこの場所の、番犬にしてくれ……」
誇り高き辺境伯の、あまりに激しい執着と懇願。
エミリアは深くため息をつき、火かき棒を置いた。
彼の右腕の呪いを見る。破壊の魔力――それは、エミリアの『神聖変容』の魔力にとって、最も親和性の高い、浄化しがいのある力だった。彼女が近づいても凍えることはない。むしろ、彼女の温かな魔力が、ディルクの暴走する冷気を心地よく中和していた。
(本当に……なんて不器用で、迷惑な人)
「立ち上がりなさい、ディルク」
初めて名を呼ばれたディルクが、すがるような目で見上げる。
「私はあの冷たい屋敷には戻りません。社交界の着せ替え人形にも、身代わりの哀れな妻にも戻る気はありません。私は、この森で私の意志で暮らします」
「ああ、ここにいてくれ。お前の好きなようにすればいい。領地も、全財産も、この命も、すべてお前の好きに使ってくれ」
「……薪のストックが少なくなっていたところよ」
エミリアがそっけなく告げると、ディルクの顔に信じられないものを見るような、眩い歓喜の光が灯った。
「すぐに割ってくる。森じゅうの枯れ木を集めてこよう」
「そんなに集めたら邪魔よ。……それから、お粥を作ってあげるわ。毒の入っていない、ちゃんとした美味しいやつをね」
「……ああ。喜んでいただく」
無愛想で冷酷だったはずの辺境伯は、まるで世界で最も尊い宝物を与えられた少年のように、エミリアの手を取り、その甲に熱い誓いの口づけを落とした。二度と離さないと、全身で語るように。
窓の外では、ノースヴァルの厳しい冬の風が吹き荒れていたが、暖炉の火に照らされた小さな家の中には、決して消えることのない春の光が満ちていた。




