サイレント・スプレッド
水道局中央処理施設の警備室で、真鍋と篠原は現場責任者の瀬口から話を聞いていた。
「異変が確認されたのは、三日前の深夜でした。水質検査で通常では出ない化学反応が確認されて……それで本庁から応援が来たと」
「それ以前に異常は?」
「目立った報告はありません。ただ、臨時の点検作業員が数名、入ってました。都の委託業者からの派遣で」
瀬口はやや言いにくそうに視線を落とした。
「申し訳ありません。名簿の確認がまだ済んでおらず……外部業者との情報共有に時間がかかっていて」
「構わない。その名簿を、確認させてもらえますか」
真鍋の声は冷静だったが、眼差しは明らかに緊張を孕んでいた。
篠原は隣で手帳を開き、会話の端々にメモを走らせる。
「……対象区域の処理は止めてる?」
「ええ、緊急遮断をかけて、上水への供給ラインはすべて切っています。ただ、住民からは『水が濁っていた』とか、『異臭がした』という通報が、すでに十数件ほど……」
「遅いな」
篠原がぽつりとこぼした。
「水って、普段あまり意識されない。だから異変があっても、通報されるまでに時間がかかる。つまり、初動が遅れる」
「影響が出ている可能性がある区域は?」
「北東ブロックの一部。人口密度はそれほど高くないけれど……工業系の研究施設が多いエリアです」
ふたりの表情がわずかに引き締まった。
対象が生活インフラにとどまらない可能性を意味していた。
*
処理施設の見取り図を見ながら、真鍋は無言で歩を進めた。
篠原はその横で、時折振り返りながら、施設内の空気を確かめるように歩いている。
「……この匂い、ちょっと気にならない?」
「薬剤の残留臭かもな。塩素だけじゃない、何か別の処理が施された形跡がある」
廊下の奥、薬品保管室の扉は重々しく閉ざされていた。
瀬口が持っていた鍵で開けると、中には金属棚が並び、整然と薬剤の容器が積まれていた。
あまりにも整頓されすぎた空間に、二人は無言で視線を交わす。
「妙にきれいだな。まるで“見せるために”片づけたみたいだ」
「……誰かが慌てて整理したか、何かを隠そうとしたか」
篠原は奥のロッカーに目を向けた。一つひとつ丁寧に確認しながら開けていく。
三つ目の扉を開けた瞬間、彼女は動きを止めた。
棚の奥に、使用記録ノートが立てかけられていたのだ。
「これ……」
彼女がページをめくると、化学薬品の使用履歴が詳細に記されていた。
だが、ある日付を境に、記録が唐突に途切れていた。
「三日前を最後に、記入が止まってる」
「異変が始まった日と一致するな。偶然とは思えない」
真鍋の目が、記録用紙のインクの擦れ具合をじっと見つめる。
誰かが慌てて閉じたような跡が残っていた。
小さな不整合の積み重ねが、二人の間に沈黙を生んだ。
どこかに、答えがある。けれど、それは今も手のひらからすり抜けていく。
その時、廊下の奥から急ぎ足の気配がした。瀬口が、肩で息をしながら資料を携えて現れた。
「……ありました。臨時の点検作業員について、先ほど照会したところ——この名簿の中に、身元の確認が取れない人物が一人います」
真鍋が手渡された紙面に目を走らせる。
「“三宅将人”。身分証は提示済み、だが業者の登録データには存在しない……」
「彼が、何かを混入させた可能性が高いな」
「防犯カメラの映像は?」
「記録サーバーが……三日前に“システム不具合”で一度ダウンしてまして」
「偶然じゃない。仕組まれた可能性が高い」
篠原がそっと息を吐いた。
監視が途切れたタイミング、記録の欠落、不自然な清掃。
点と点が、見えない線でつながっていく。
「都市の水に、異物を溶かして。足跡を消して、姿を消す」
「それが狙いなら、もう次の場所に向かってるかもしれない」
二人の視線が重なった。
この“汚染”は、局地的な事故ではない。
誰かの意志によって仕掛けられた、都市への静かな攻撃——。
「この化合物、本当に自然由来じゃないとしたら……どこで手に入れたんだ?」
「答えはまだ見えない。でも、作為の痕跡はある。問題は、この一件がどこまで拡がるか」
篠原は廊下の窓から外を見た。
濁った曇天の下、処理施設のタンク群が並ぶ。
それらが、都市全体の血管のように水を送り出していると思うと、胸に冷たいものが走った。
「……これ、拡散してる……?」
そのつぶやきは、空気の奥に溶けていった。
(続く)




