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異世界恋愛短編

“努力”が報われない世の中なんて、おかし過ぎますわ

作者: 喜田 花恋

  ルーシア・ティアロ侯爵令嬢は、オジエル公爵家のパーティー会場にいた。


 真正面に立つのは、公爵家の嫡男アレン・オジエル。気高い顔立ちに勝ち誇った笑みを浮かべ、隣に控える少女の肩を誇らしげに抱き寄せていた。


「ルーシア、お前との婚約は破棄だ。俺は“真実の愛”に目覚めた。俺が心から愛するのは、このミリアだ」


 隣に立つミリア・リッカートは、平民出身の令嬢で、最近ある伯爵家に養子として迎えられた。


 会場がざわめく中、ルーシアは静かに答えた。


「……そうですか。わかりました」


 胸の内には、悔しさと哀しさが入り混じった感情があった。だが表情は崩さなかった。


「えっ!?」


 アレンは目を見開いた。ルーシアが泣き崩れ、自分にすがりつく──そんな展開を信じていたのだ。


 胸の痛みを抱えたまま、ルーシアは微笑んでみせた。


「これで、地獄のような公爵夫人教育から解放されます。むしろ、感謝申し上げます」


「じ、地獄……?」


 隣のミリアが、不安げにルーシアを見る。


「ご存じなかったのかしら? この国で“公爵”とは、王族に準ずる立場。その妻となる者には、王族と同等、あるいはそれ以上の教育が求められます」


 ルーシアは一歩前へ出て、静かに語る。


「私は七歳で婚約を結んでからというもの、毎朝五時に起床。歴史、法学、音楽理論を学んだ後、身支度を整え、貴族学院へ登校。授業が終わればすぐに馬車で帰宅して、馬術、詩作、舞踏、茶会の模擬演習。そして夜は政務の基礎に語学、多国間外交の想定訓練……。眠るのは、日付を越えた頃です」


「ひっ……」


 ミリアは顔をひきつらせ、膝から崩れ落ちた。


 ルーシアは静かに近づき、彼女の耳元でそっと囁く。


「すべてを身につけるには、十年かかるそうです。私は志半ばですが……。寝る間を惜しんで頑張れば──きっと、貴女ならできますわ。ふふっ」


 その笑みは、どこか楽しげですらあった。


「では、失礼いたします」


 くるりと踵を返し、ルーシアは堂々とその場を後にした。


「そ、そんなこと聞いてないわよ!」


「ミリア、大げさに騒ぐな。真実の愛があれば、どんな困難も──」


「公爵夫人になれば、楽ができると思ったのにーっ!!」


「黙れミリア! 貴族の夫人になるというのは、そんな甘いものではないのだ!」


 背後では、アレンとミリアの言い争う声が響いていた。



 丘の上の広場。


 ここは、ルーシアが幼い頃から愛してきた、大切な場所だった。風が遠くまで吹き抜け、草花の香りが淡く漂う、静かな高台。


 ──その日。


 すでに誰かがそこに座っていた。


「……シオン?」


「ルーシア。きっと来ると思ってた」


 穏やかに微笑んだのは、ルーシアの幼馴染み、シオン・アルベリオ。彼は伯爵家の息子であり、ルーシアと同じ貴族学院に通っている。しかし、成績は決して良くない。


 小柄で華奢、どこか頼りなく見える少年。けれども、ルーシアにとって、心から気を許せる唯一の存在だった。


「……婚約破棄のこと、聞いたのね」


「うん。すぐ噂になってたから」


 シオンは、何も問わず、ただ静かに彼女のそばにいた。その穏やかな空気に、ルーシアは肩から力が抜けていくのを感じた。


「私……本当に頑張ってきたのに」


 ぽつりと声が漏れる。


「公爵夫人として恥じぬよう、誰よりも努力してきたわ。褒められたいわけじゃなかった。でも……あんな風に終わるなんて……」


 ぽろり、と涙がひと粒落ちた。


 そのとき、隣に座っていたシオンが、そっとハンカチを差し出す。


「……泣いていいよ、ルーシア。君は、本当に頑張ってたんだから」


 その一言で、抑えていた感情が溢れだした。


 ルーシアは、ハンカチを握りしめたまま、静かに涙を流した。シオンは何も言わず、ただ彼女の隣でそれを見守っていた。


 やがて、彼はそっと口を開いた。


「……僕、アレンに話してくるよ」


「……え?」


「君との婚約を、もう一度考え直してほしいって」


「何を言ってるの……? アレンが、そんな話を聞くわけないじゃない。それに……あの人は、いつもあなたのことを──」


「わかってるよ。僕は、ずっとアレンに馬鹿にされてきた」


 シオンは小さく笑った。けれども、その目は真っ直ぐだった。


「でも……君があんなに努力してたのに、僕は何もできなかった。それが、悔しい……」


 彼は立ち上がり、震える拳を握りしめながら、ルーシアを見つめる。


「一度でいい。君のために、僕は何かをしたいんだ」


 その言葉に、ルーシアの胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


 彼は昔から、争いごとを避けるような優しい少年だった。そんな彼が、今、自分のために立ち上がろうとしている。


 その姿に、冷え切っていた心が、ほんの少しだけ温かくなった。



 貴族学院の中庭。


 その一角で、アレン・オジエルが悠々と腰を下ろしていた。周囲には取り巻きたちが集い、彼の機嫌をうかがうように笑っていた。


 そこへ、ひとりの少年が足早に近づいてくる。


「アレン。少し……時間をもらえないかな」


 声は震えていたが、その瞳には確かな決意が宿っていた。


「ああん? 誰かと思えば……シオンじゃないか」


 アレンは鼻で笑い、立ち上がる。


「どうした? いまだに校内の地図も覚えられず、迷子にでもなったのか?」


 取り巻きたちが、くすくすと笑う。


 シオンは唇を噛みしめながら、絞り出すように言った。


「……ルーシアとの婚約を、考え直してほしい」


 その一言に、周囲の空気がぴたりと凍る。


「な……」


 一瞬、アレンの表情がこわばる。だがすぐに、冷笑を浮かべた。


「何を言い出すかと思えば……それはもう決まったことだ。そもそも、お前に何の権限がある? 伯爵家の落ちこぼれが口を挟んでいい話じゃない」


「でも……ルーシアは……君が知らないところで、ずっと努力してきたんだ!」


 声を張ったシオンに、一瞬だけ驚きが走る。


「毎日、どんなに辛くても、公爵家にふさわしい令嬢になるために必死に頑張ってきた。その思いを……その努力を、踏みにじらないでほしいんだ!」


 シオンは怒りと悲しみの入り混じった顔で、アレンの胸元を掴んだ。


「……っ!」


 周囲の貴族学生たちがざわめき、止めに入ろうとしたその時──


「ふざけるなッ!」


 アレンがシオンを乱暴に突き飛ばした。


 ドサッ。


 シオンの細い身体が芝生の上に尻もちをつく。


「身の程を知れ、馬鹿が」


 アレンは見下すように言い捨てた。


「貴族の中でも格が違うんだよ。公爵家と伯爵家、ましてや“最底辺の成績”のお前が、俺に何か言えると思ったのか?」


 取り巻きたちが、あからさまに笑い始める。


 その中で、シオンはゆっくりと顔を上げ、震える声で言った。


「……もし、僕が……次の定期試験で君に勝ったら?」


 アレンは一瞬、きょとんとした。


「……は?」


「次の定期試験で、僕が君より上の成績を取ったら、ルーシアとの婚約を……考え直してほしい……」


 その静かな一言に、今度は中庭全体がどよめいた。


「ハッハッハッハ! 聞いたか皆! こいつ、何を言ってるんだ!」


 アレンは腹を抱えて笑った。


「毎回、学年一位の俺に、最下位常連のお前が勝つ!? 常識すらわからなくなったのか?」


 だが、笑いながらもアレンは、どこか挑発を楽しむように言う。


「いいだろう。そこまで言うなら、賭けに乗ってやるよ。万が一、お前が俺に勝てたら婚約を考え直してやる」


 そして、ふいに背を向ける。


「もっとも、そんな奇跡が起きるとは思えないがな」


 アレンは、取り巻きたちを引き連れ、中庭をあとにした。


 残されたシオンは、土のついたズボンを手で払いつつ、静かに立ち上がる。その目には、決意の炎が灯されていた。



「……というわけで、僕に勉強を教えてほしいんだ」


 シオンは、中庭での出来事をルーシアに話した。


「まったく馬鹿なんだから……。分かったわ。ちょうど、公爵夫人教育から解放されて暇になってたところだし」


 ルーシアは呆れたように言ったが、その胸の内は不思議な高揚感で満たされていた。シオンが自分のために、立ち向かってくれたこと──それが嬉しかったのだ。


 こうして、定期試験に向けた二人の特訓が始まった。


 やがてルーシアは、予想外のことに気づく。教えた内容を、シオンが驚くほどの速さで吸収していったのだ。


「シオン……。どうして今まで最下位だったの?」


「うーん……たぶん、興味がなかったからかな。勉強する理由も分からなかったし。でも今は、ちゃんと目的があるから。ルーシアに教えてもらえるのも楽しいし。君は、きっと先生に向いてるよ」


 その言葉に、ルーシアの胸がほんのり温かくなる。


「あなた、全然馬鹿なんかじゃないわ。むしろ、才能があるわ。ただ……今まで本気で努力しなかっただけ」


 そう言いながら、ふとルーシアは思い出す。


 アレンが誰よりも成績優秀でありながら、一度も努力する姿を見せたことがなかったという事実を──。



 試験当日。


 ルーシアは、シオンとアレンの二人が見える位置の席で、静かにペンを走らせていた。


 ちらりと横目で見ると、シオンは迷いのない手つきで、すらすらと問題を解き進めている。


 一方のアレンは、顔をしかめ、何度も頭をかきながら、焦り気味に答案に向かっていた。


 その様子だけで、勝負の行方は見えていた。


 ふとした瞬間、ルーシアの視線が、アレンの答案用紙の一部をとらえる。


 そこに記されていた答えは、明らかに誤っていた。



 数日後。


 貴族学院の成績掲示板の前には、生徒たちの人だかりができていた。


「一位は……アレンか。さすがだな! しかも“全科目満点”だって!」


「えっ、ちょっと待って……見て、二位!」


「うそでしょ!? あの万年最下位のシオンが二位!?」


 ざわめきの中心には、アレンの名と、そのすぐ下に記された『シオン・アルベリオ』の名前があった。


 差は、わずか一点──しかし、その順位は明確だった。


 シオンは息を切らしながら掲示板を見上げ、唇を噛んだ。


「悔しい……」


 その背後から、鼻を鳴らす音が響いた。


「フンッ。奇跡は起きなかったな。俺に勝とうなど百年早い」


 振り返ると、そこにはアレンが腕を組んで立っていた。


「まあ……お前の努力は認めてやろう。婚約についても、考え直してやらんでもない」


「え、本当に……?」


 その瞬間、澄んだ声が空気を切り裂いた。


「その必要はありません」


 その声の主──ルーシア・ティアロが、堂々と二人の前に現れた。


「婚約破棄は、私の意志で確定させていただきます」


 その言葉に、周囲がどよめく。


「公爵と言えど、“不正”を行うような方に、この身を委ねるつもりはございません」


「ふ、不正……?」


「どういうこと……? アレンが不正を?」


 さらに、ざわめく周囲。

 

 アレンの顔が引きつる。


「公爵夫人教育の厳しさに、ミリア嬢が途中で逃げ出したと聞いております。あなた方の“真実の愛”とやらが、どれほど薄っぺらいものか……よく分かりました。それに──」


 ルーシアの目は、まっすぐアレンを射抜いていた。


「私は、誰かの代わりなどではありません」


「ま、待てルーシア! 本当にいいのか!? この機会を逃せば、二度と復縁はないぞ!」


 アレンは語気を荒げ、焦燥を隠すように言い放つ。


「公爵夫人になれば、裕福な生活が約束される。金で何でも買える。綺麗なドレスも、邸宅も、望むような未来だって──すべて手に入るのだ!」


 ルーシアは、ほんのわずかに眉をひそめ、そして静かに口を開いた。


「望むような未来……」


 一拍、置いた後。


「そういうことですか……。あなたは、お金で“成績”を買ったのですね」


「なっ、違う! そんなつもりじゃ──言葉の綾だ!」


 アレンの弁解は空しく響き、周囲のざわめきは一層強まっていく。


「つまり、一位って……」


「金で買った点数だったのか……?」


「シオンの方が、本当は──」


 アレンの表情が青ざめていくのとは対照的に、ルーシアは涼やかに微笑んだ。


 そして、隣に立つシオンの手を取り、まっすぐ前を見据える。


「あなたとの復縁は、あり得ません。なぜなら──私も、ようやく“真実の愛”に気づきましたから!」


 その言葉は、はっきりと、そして力強く掲示板前に響き渡った。


「行きましょう、シオン」


 二人は肩を並べ、その場を駆け出していった。


 後に残されたアレンの周囲には、静まり返った空気と、冷たい視線だけが漂っていた。



 その後。


 アレンの定期試験における不正が明るみに出た。採点を担当する教員を買収し、答案を正解に書き換えさせていたという。


 入学以来、すべての試験で同様の不正があったことが発覚した。貴族学院はこれを重大な背信行為とみなしてアレンを退学処分とし、関与していた教員も解雇となった。



 その日。


 ルーシアとシオンは、いつもの丘の上にいた。


 柔らかな風が吹き抜ける中、ルーシアが静かに口を開く。


「私、夢ができたの。教師になりたいって思ってる。……努力が報われない世の中なんて、おかしいでしょう? だから将来、この国を支える子どもたちに、努力の尊さを伝えたいの」


「うん。素敵だね。ルーシアなら、きっといい先生になるよ」


 ルーシアはふっと笑って、空を見上げた。


「それと──」


 言いかけた言葉を、そっと飲み込む。


 あの日、勢いで口にした“真実の愛”という言葉。その意味が、ゆっくりと、でも確かに二人の間で育ちつつあることを、ルーシアは感じていた。


 穏かな日差しが、二人を優しく包み込んでいた。

最後までお読みいただきありがとうございます。


誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。


2025.7.12

第5の場面を加筆・修正いたしました。

茨木様、アドバイスありがとうございます!

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― 新着の感想 ―
金で下駄を履かせてアホを卒業させる学校に価値は無いので、この発覚で学校の権威も信用も地に堕ちてますな。
夫人にレベル高い教育が必要なら公爵家当主にはより高い教育がされているんだろうなと思ったら! 実力に裏打ちされた傲慢ではなくて、単なる物知らずの金満馬鹿ボンボンだったとは! 真実の愛のお相手があっさり…
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