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護符  作者: 橋尾 京果
3/20

003)ネフティト【イシス女神】

[登場人物]

ネフティト:アビドス神殿の舞姫

センネジェム:テーベの監督官

メリメルセゲル(メリ):書記見習い

カマル:書記見習い、アンドロイド


ハトシェプスト女王、トトメス三世:古代エジプト第18王朝のファラオ

何度経験を積んでも、舞台に上がる前には恐れが渦巻く。


ネフティトが舞台へ姿を見せると、悲鳴に近い歓声があがった。

野太い声と黄色い声の競うような叫び声が、ネフティトへ向かって飛んでくる。


アビドス神殿に併設された舞台の前には、ステージの遥か先にまで人々が集っていた。


手を上げて、ひとしきり観客に答えた後で、ネフティトは楽団へ合図を送った。

音楽が始まると、客席は水を打ったような静けさに支配された。


この瞬間が一番好きと、ネフティトは思った。

まだ恐れもあるが、自分を信じようと思える。


片膝を付き、長い静止を終えて踊り始めたネフティトへ、人々の雄叫びが再び浴びせられた。


半透明の衣装を翻し、身を飾っているアクセサリーが涼やかな音を立てる。

柔らかな身体をダイナミックに使って、遊ぶように舞う。

恐れは昇華され、喜びへと変わった。


ネフティトの動きに合わせて跳び跳ねたり、自由に身体を動かしたりする者達の熱がネフティトに伝わってきて、いつしか同化する。

この場にいる全ての者を魅了するのが、自分の使命だど感じるのだ。


音楽が激しさを増していく。

いつまでも、いつまでも踊っていたいと思う。


やがて旋律が緩やかになり、ネフティトは身体を始まりの態勢で鎮まらせた。

一瞬の沈黙、そして大歓声を受けて立ち上がった。

皆に笑顔を向けながら舞台の袖へと急ぐ。


「ネフティ最高!」

「行かないで」

「イシス女神!」

「ネフティ」

「ネフティ」


ネフティコールが続く中、舞台袖の幕へ身体が隠れると同時に、ネフティトはがくんと力が抜けて倒れこんだ。


数人の男達に身体を支えられて、神殿内の楽屋部屋へ戻ったネフティトは激しい呼吸を繰り返していた。

倒れるのはいつものことだったが、こんなにも息が乱れるのは珍しかった。


「今日は特に疲れたようだな。むっ?」

楽屋に控えていた老婆が怪訝な表情を作り、横たわったネフティトの顔の辺りへ手をかざした。

「何かが、お前に影響を与えているな」


「息が苦しい。頭がぼんやりするの。熱気のせいかな」

額に自分の手の甲を押し当てると、頬が火照っているのをネフティトは一段と感じた。


「邪悪な気配がのしかかっているな。お前を、このアビドスの地に押し留めようとしている」

老婆は目を閉じて、両手の掌をネフティトへ向けていた。


「邪悪な気配?」

「そうだ。恐らくこれは、ハトシェプスト女王を死へ導いた、あの存在だ。あの邪念が、再び活動を始めようとしている。動き出す。静寂は終わった」

何かを探るように動かしていた掌を、老婆はピタリと止めた。


「あれからもうすぐ九年。当時、お前はまだ幼くて、何もできなかったが。今は違う。もう十五歳だ」

瞼を開けた老婆は、強い意志を持ってネフティトを見つめた。

「ネフティト。力を尽くす時が来たようだ。覚悟を決めなさい」


「邪悪なモノは、この街へ私を留まらせようとしているの?」

「それは間違い無い。このままここにいては、お前の両親のように、お前も病に伏してしまうかもしれん」

老婆は再び瞼を閉じて天を仰いだ。

「息子達の病気も、邪悪な存在の仕業だったんだな。気が付かなかったとは、迂闊だった」


「ここを離れるしか無いのね」

ネフティトは諦めの混じった深い息を吐いた。


「お前が何を考えているかは分かる。神殿の舞姫を辞するには、センネジェムに話を通す必要がある」

ネフティトは泣きそうになって頷いた。


「辛いのは分かるが。センネジェムは今テーベの都にいる。彼の所へ行くのだ。いずれ、トトメス三世へ謁見を願い出ることを視野に入れれば、好都合でもある」


「分かったわ、お婆様。センネジェムの助力を仰ぐ。彼の元へ行くわ。悔しいけど」

やるせない気持ちで顔が歪むのを防ぐように、ネフティトは両手で顔を覆った。


センネジェムへ援助を頼めば、彼が見返りに何を求めてくるかは明白だった。

抗う術のない自分の、境遇への憤りが悔しさへ変わる。


「テーベのアメン神殿で、舞姫ができるようになれば良いがな。だが、テーベに赴任したばかりのセンネジェムには、まだそこまでの力はあるまい」


ネフティトは黙っていた。

誰かの庇護の元でしか、自分は踊ることができないのだろうかと思った。

祖母の言葉は、誰よりも自分の舞いを信じているネフティトを傷付けていた。


「そうね」

気の無い顔で答えるネフティトへ、老婆は言葉を濁した。

「お前と一緒に行ってやりたいが」


「お婆様は、お父様とお母様についていて。お婆様が診ていてくれたら、安心して都へ行ける」

無理に笑顔を見せるネフティトの様子に、老婆は苦しそうに顔を伏せた。

「息子達の身体は、移動に耐えられそうに無い」

「分かってる」


「病の原因が邪念となれば、対処も違ってくる。少しでも回復させられればいいのだが」

「お婆様も気を付けて」

「私らのことは心配するな。お前のことも、ここから常に見ているからな」




古都アビドスの街から現在の首都テーベまでは、ナイル川を船で遡るのが一番早く安全な道のりだ。

それでも四日はかかる。

途中のデンデラの街で下船し一泊するが、その日以外は川岸に停まった船内で寝ることになる。


船には、テーベからアビドスへ行商に来ていた者、その逆で都へ行商に行く者などが数人乗っていた。

初日は積み荷の陰に隠れて目立たないようにしていたネフティトだったが、若い女の一人旅を周りが放っておく訳が無かった。


話かけられる言葉に答えていると、二日目辺りから、有名な舞姫のネフティトだと気が付く者が現れ、船上はたちまち色めき立った。

「俺、あんたのファンだよ」

「俺だって。イシス女神の舞、何度も見たぜ」


「これ都に納める商品だけど、好きなの持ってってくれ」

一人の商人が広げたアクセサリーを見たネフティトの顔が、万人を惹き付ける女性から美しい物を愛でる一人の女の子へ戻り、ぱっと輝いた。


その顔を見た商人達が、自分も負けじと、大事なはずの商品をネフティトに渡そうと押し合いになった。

男物の腰巻きやかつらしか持たない者まで参戦している。

船は左右へ傾き、積み荷も揺れた。


「ちょっと。座りなさいよ!船頭さんが困ってるでしょ」

ネフティトの一喝で、男達はしゅんとなって大人しく腰を下ろした。


ネフティトは幼い子供のような困り顔を作り、商人達へ訴えた。

「皆さんにお願いがあります。実は私。船旅が初めてで心細いんです。デンデラに着くまで、どなたか歌を唄っていただけませんか?」


男達の関心を自分から引き離すためだった。

人は歌を唄っている間や歌を聞いている間は、割と他のことに気を取られないのをネフティトは知っているのだ。


だが、口から出た心細いという気持ちも本当だった。

船が上流へ向かうに連れて、川の色に不穏な気配を感じることが多くなっていたのだ。


「よし、俺に任せろ」

「いや、俺が唄ってやる」

「お前ら、俺の美声を知らんのか」

再び、男達の争いが始める雰囲気を前に、ネフティトは叫んだ。

「順番に。時間はたっぷりあるんだから」


船は夕暮れ近くになって、宿泊地になるデンデラの船着き場が見える所までやってきた。

商人達に歌を唄わせる作戦が上手くいき、その頃は乗船客全員での和やかな大合唱になっていた。


船着き場の川岸には幾人かの人影が見える。

ネフティトと同世代と思われる若い二人組の姿もあった。


「何だ、あの雲」

船頭が上流のほうを見て呆然とした。

ネフティトも皆も、唄うのをやめてそちらへ視線を向けた。


どす黒い雲が、ナイル川の上空に浮かんでいる。

強い風が吹き、雲はみるみる内にネフティト達のほうへ押し寄せた。

暗い空で辺りが覆われると、すぐに大粒の激しい雨に見舞われた。


強風と大雨の中、商品を濡らしたくない商人達の焦りで船が大きく揺れ始めた。

「早く、船着き場へ。もう少しだ」


そんな時だった。

大型の積み荷を縛っていた縄が、ぶちっと音を立てて切れた。

積み荷はゆっくりと傾き、がたんと船縁ふなべりでバウンドして川へ落ちていった。


その衝撃と同時に、ネフティトは船底から突き上げられるような勢いを感じた。

気が付いた時には、ネフティトの身体は船から投げ出され、ナイル川の水面に着水するところだった。


水に沈む瞬間、ネフティトは川岸に立っていた若い男の一人と目が合った。

「助けて・・・」

その声は届かなかっただろう。

ネフティトの喉へ水が押し寄せ、ごぼっと息が吐き出された。


水面がどんどん遠ざかっていく。

へどろを薄めた色をした重く暗い水が、ネフティトの身体をものすごい勢いで川底へと誘う。


怖い。誰か。お婆様。


息のできない苦しさで混乱していると、ネフティトの腕を掴む者が現れた。

濁った水の中でも、彼の顔は何故かはっきりと見えていた。

さっき川岸に立っていた若い男だった。

男は力強く水を蹴り、ネフティトを水面へと運んだ。


「あそこだ!」

ナイル川から頭を出した二人へ向かって、川岸から縄が投げ入れられた。


激しく咳き込むネフティトには縄を掴む余裕が無かった。

ネフティトの代わりに、男は輪になった縄の先をネフティトの身体へ通すと、ネフティトの身体を守りながらも、自らは川岸まで泳ぎ切った。


川岸まで辿り着き、水から上がったネフティトを、男達が支えようと我先に集まって来た。

いつの間にか雨は止み、雨雲もどこかへ行ってしまっていた。


ネフティトを助けたのは、少年と言っても通りそうな無垢な瞳の持ち主の男だったが、寄って来ようとする男達へ向ける視線には容赦が無かった。


「下がれ。触れるな」

鋭い言葉を浴びせ、ネフティトの震える肩を片手で抱き抱えながら、もう片方の手で男達を追い払っている。


「メリ。大丈夫か」

男達をかき分けて、目の前に躍り出てきたのは、川岸で、メリと呼ばれた男と一緒にいたもう一人の男だった。


「俺は大丈夫だ。お前こそ、体調が戻ったのなら。彼女を早く、あの場所へお連れしてくれ」

メリという男はそう言って、その男にネフティトを預けた。


託されたネフティトが男の肩越しに振り返ると、メリが自分の身体を盾にして、男達がネフティトを追いかけようとするのを防いでいるのが見えた。


「助けてくださって、ありがとうございます。もう、一人で歩けます」

ネフティトは自分の肩を抱く男の顔を見上げた。


瞳の大きい端正な顔立ちの男だった。

さっきの男と同じくらいの歳に見えるが、奥深い落ち着きと、さっきの男には無い冷たい印象を受ける。


「私はカマル」

カマルはそっとネフティトから離れた。


「あなたを助けた男はメリメルセゲルです。監督官の命令で、あなたを迎えに来ました」

「監督官?」

「センネジェムです」

その名前を聞いて、自分の顔が沈んでいくのが分かった。


「監督官は多忙な方です。私達が代わりを務めますので、お許しください」

表情を曇らせた自分を、センネジェムに会えなくて気落ちしたと誤解したらしい。

ネフティトは曖昧に頷いた。


カマルは宿屋ではなく、デンデラに建てられた神殿にネフティトを案内した。

「今夜はここでお過ごしください。ここなら、他の旅人は入って来れませんから、安心してください」


必要でない限り笑顔を見せない主義なのか、動きも話し方も滑らかなのに、無愛想と言うか温かみを感じ無い。

そんなことを思いながら、ネフティトはカマルの後ろ姿を見送った。


カマルが去ってしばらくすると、ネフティトの部屋に豪勢な食事が運ばれて来た。


これも全てセンネジェムが用意したものかと思うと、口にしたく無いところだが、体力を付けておく必要があると、ネフティトは自分に言い聞かせた。


義務のつもりで口へ運んだ料理だったが、あまりの美味しさに手を休める暇も無いほど、気が付けばペロリと平らげていた。

そこへ、メリメルセゲルとカマルがやって来た。


「良かった。口に合ったみたいだね」

メリメルセゲルが空になった板皿を見て、ネフティトへ笑顔を向けてきた。

薄い唇と切れ長の細い瞳は、異郷に住む者達を連想させ、白い歯が覗くと、一段と若く少年のように見える。


「先ほどは。助けてくださり、ありがとうございました」

ネフティトは立ち上がって丁寧に膝を折った。


「いやいや。大事無くて良かったよ」

メリメルセゲルの人の良さそうな笑顔にネフティトは癒される思いだった。


「この神殿へ泊まる許可が取れたのも、この食事も。全て、メリの手配なんですよ」

カマルがぺらっと告げた。


「おい。それは別に言わなくてもいいだろ」

「そうかな?私ならお礼が言いたいと思うが」

カマルの言葉を聞いて、ネフティトは急いでメリメルセゲルへお礼を告げた。


「もう、カマル。お前はあっちへ行ってろよ」

メリメルセゲルが呆れた顔で言い放った。

「肝心な時には、具合が悪くなって。うずくまってしまった癖に」

「私は泳げない。具合が悪く無くても、何もできなかった」

カマルは平然と言って、部屋を出て行った。


「あー。えーと」

二人きりになったことに突然気が付いて、メリメルセゲルは戸惑っているように見えた。

「あいつ、カマルは悪い奴じゃないんだけど。何て言うか、正直過ぎるんだ」


「メリメルセゲル様。本当に、いくら感謝しても足りません」

「だから。お礼はもういいよ、ネフティトさん。それに、メリって呼んでくれ」

「では、私のことも敬称は入りません。ネフティトとお呼びください」


「分かったけど。その言葉使いもやめてくれ。上司の奥様になる人だから、俺のほうが敬わないといけないのに」

メリメルセゲルの言葉に、ネフティトは目を見開いた。


「センネジェムがそう言ったの?私が、あの人の妻になると」

問い詰める口調になってしまった。


「いや。ちゃんと聞いた訳じゃないけど。一緒に暮らすと言っていたから。てっきり」

動揺するメリメルセゲルの答えを聞いたネフティトは、椅子に腰を下ろして顔を伏せた。


「ごめん。何か悪いこと、言ったみたいだな」

素直に謝るメリメルセゲルに、罪は無いのだと思い直して、ネフティトは顔を上げて明るい表情を作った。


「ねぇ、メリ。この食事のお礼がしたいわ。明日、日の出の時間に塔門のそばの中庭へ来て」

メリメルセゲルは不思議そうな顔をしたが、分かったと言って立ち去って行った。




朝日が昇る。

ネフティトは清んだ空気を自分の身体の隅々にまで送り込んだ。


少しずつ明るさを増す太陽を背にして、ネフティトは舞い始めた。

イシス女神の踊りだ。

音楽は無い。

メロディはネフティトの身体の中に轟いている。


夫と過ごす幸せを享受するイシス。

やがて夫に不幸が降りかかる。

幸せだった時が終わり、夫を殺されたイシスが哀しみの中、バラバラになった夫の身体を探し求める。

夫は復活し、再び訪れた幸せを喜び、舞う。


ネフティトの動きが沈黙すると、胡座の姿勢で呆けたように踊りを見入っていたメリメルセゲルが、しばらくしてからやっと立ち上がった。

顔を紅潮させて、両手を口元へやっている。

「すごい!ネフティト。君はすごいよ」


ネフティトは膝を折って挨拶した。

「ありがとう。メリ」

メリメルセゲルの潤んだ瞳を見たネフティトは、恥ずかしそうに笑った。

舞いの中に存在した大人の女性が、あどけなさの残る女の子に戻った瞬間だった。


「そろそろ、朝食を食べないと。船に乗り遅れるが、いいのかい?」

いつからそこにいたのか、カマルが柱の陰から姿を現した。

「ヤバい。ネフティト、急ごう」


船になど、乗り遅れても構わなかったが、ここにずっといられる訳でも無い。


ネフティトはメリメルセゲルとカマルの案内に身を委ね、センネジェムの待つテーベに向かったのだった。

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