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護符  作者: 橋尾 京果
16/20

016)メリ【冥界】

[登場人物]

メリメルセゲル(メリ):書記見習い

カマル:書記見習い、アンドロイド

ネフティト:アビドスから来た踊り子

センネジェム:テーベの監督官

カエムワセト:職人村の監督官

ジフ:使用人


*カァ(魂の形の一つ):生命力

「何だって!?」

メリメルセゲルのこめかみから冷や汗が流れた。

「どうしてそんなことに」


「ヘベヌト様のお屋敷で、ネフティト様の居場所を聞いたと申されていました。私は、シラを切っていたんですが。そのやり取りを聞き留めたネフティト様が、自ら姿を現されまして。しばらく、お二人で話をされた後。ネフティト様が、これをメリメルセゲル様に渡してくれと」


ジフが差し出した手の平の上には、イシス女神の護符があった。

そっと、拾い上げてみる。

メリメルセゲルの記憶の中ではもう、ネフティトの一部となっている護符だ。


「ネフティトは。おとなしくついて行ったのか?」

信じられなった。

申し訳ありませんと、しがみ付いてくるジフを呆然と見下ろした。


「もっと早くこちらへ来たかったのに。舟を待っていても、全然来なくて。仕方無く、陸路で来たんです」


ジフの泣き言は耳に入らなかった。

イシス女神の護符を握りしめてみたが、護符を置いていったネフティトの真意は掴めなかった。


「ネフティトに。会いに行って来る」

カマルとジフに、そう告げるのが精一杯だった。


静かに怒りの感情が湧いてきているが、怒っているのはセンネジェムに対してでは無く、ジフに向けてでも無かった。


ネフティトと自分は婚約した仲では無いのか。

例えそれが、本人同士の約束であろうと、お互いの意思は本物だと思っていた。

それなのに、こんな簡単に他の男の元へ行ってしまうなんて。


テーベ行きの渡し舟に乗った頃には、怒りが喪失感へ変わっていた。

結局、未だに自分はネフティトから愛されている自信が無いのだ。

センネジェムには敵わないと言う劣等感も同居している。


今頃、センネジェムとネフティトが一緒にいると思うと、嫉妬でどうにかなりそうだった。


「メリ」

抱えた膝に顔を伏せていたメリメルセゲルは、カマルに呼ばれた。


気だるくはあったが、それでも顔を上げると、カマルはナイル川の上流を指差した。


どす黒い雲が、夜が近くなった南の空に浮かんでいる。

ネフティトが溺れかけた時に現れたのと同じ、邪悪さを包括したような、あの曇だった。


一瞬にして現実に引き戻された。


「メリ、すまない。私は。意識が保てないようだ」

カマルがそう言って、ガクンと、頭を膝の間へ落とした。


ネフティトが溺れる前にも、こんなふうに意識を飛ばしたカマルを思い出す。


しかし、カマルを気遣っている余裕は無かった。


強い風で小さな渡し舟が大きく揺らいだ。

瞬く間に空一面が黒い曇で覆われ、激しい雨に、メリメルセゲルの身体は打ち付けられていた。


渡し守を手伝おうと、揺れる舟底に転がっている予備の(かい)を手にして立ち上がろうとした。

だが、大きな波が押し寄せ、メリメルセゲルの身体は転がるようにして転んでいた。


気が付くと、カマルの姿が無かった。

川へ落ちたのだ。


「カマル」

急いで周りを確認するが、雨が打ち付けている水面は、カマルがどの辺りへ落ちたのかを教えてくれなかった。


焦っていると、後方の水面がごぼごぼと沸き立つように泡立ち始めた。


自分も投げ出されないように、必死に船縁を掴んでいると、吐き出されるようにしてカマルの身体が浮上してくるのが見えた。


うずくまった格好で横倒しになっている。

意識は無いようだ。


カマルの身体を捕えたまま、黒い水流がメリメルセゲルの目線よりも高く持ち上がった。

もの凄い勢いの風と轟音が空気を震わせたのを聞いたと同時に、カマルが吹き飛ばされて行った。


カマルの身体は丸まった体勢で、河川敷を越えて東の地まで飛んで行く。

「カマルっ!」


小さくなったカマルの姿が、緩やかな上り勾配の、遠くの地面へ叩き付けられるようにして落ちたのが見えた。

そのまま、微動だにしない。


「カマル」

メリメルセゲルの顔面が引き攣った。

骨が砕かれる音が聞こえるような落ち方だった。


カマルを持ち上げていた水流が、今度は、メリメルセゲルを捕えようと向かって来た。

闇の色をした水流が、覆い被さるようにして自分を呑み込もうとしてくる。


メリメルセゲルは必死で呪文を唱えた。


呪文に呼応するかのように、眩しい光がメリメルセゲルの胸の辺りで生まれた。

首にかかっているホルス神とイシス女神の護符が光を発したのだ。

太陽に近い色をした強い光だった。


次の瞬間には、静寂が訪れていた。

空には沢山の星が輝いている。


「船着き場へ早く」

メリメルセゲルは渡し守へ声をかけ、自分も櫂を掴んで水を漕いだ。


舟を降りると、メリメルセゲルはカマルの所へ走った。


メリメルセゲルが近付いて行く間も、カマルの身体は全く動かなかった。

うつ伏せで、右腕と右足が不自然な方向を向いている。


「カマル。カマル」

カマルの脇へ跪くと、メリメルセゲルはカマルの身体を抱き起こした。

瞼を開けたままのカマルの瞳は、どこも見ていなかった。


カマルのカァが、既にカマルの身体から離れているのを感じた。


「嘘だ。カマル。死ぬな。逝かないてくれ」

カマルの右手が、だらんと地面に垂れ下がった。


「嫌だ、嫌だ。どうして、皆。俺を置いていくんだ!」

メリメルセゲルは叫び声を上げて泣いた。


急に、この世界にたった一人で放り出された気がした。

息が上手くできない状態で、カマルの頭に顔を寄せて打ちひしがれた。


しばらく、世界の音を遮断していたメリメルセゲルの耳が、ふと、今まで聞いたことの無い音を捉えた。

鳥が短く鳴いた声を限りなく小さくしたような音が、一度だけだが、確かに聞こえた。


何だろうと、カマルの顔を見たメリメルセゲルは、カマルの瞳に生命が戻った瞬間を感じ取った。


「カマル!良かった。カァが戻って来たんだな」

「メリ。何が。何が、あったんだい?」

「何があったって。お前、痛みは感じないのか?!」

擦りむいた顔を向けて平然と言うカマルを見て、メリメルセゲルは驚いていた。


右腕は肩の所から外れかかって、骨が露出しているし、右足は膝から下が、ぐにゃりと身体の外を向いてしまっている。


余り出血していないことを、今更ながら不思議に思った。

骨が焦げたように黒く見えるのは、気のせいだろうか。


カマルは身体を起こそうとして、自由にならない手足の状態にやっと気が付いたようだった。


「動かないほうがいい。さっきまで。死んだように、意識が無かったんだぞ」

メリメルセゲルに制止させられたカマルは、視線を夜空へ投げたまま押し黙った。


メリメルセゲルは大急ぎで近くの民家からロバを借り、カマルを何とかロバの背に乗せた。


「ちぎれた手足を、治療してくれる医者がいる。じい様なら知ってるはずだから」

取り敢えず、メリメルセゲルはカマルを祖父母の屋敷へ連れて行こうとした。


「良く聞いて。メリ。私、の身体は。医者では。治、治せない」

「何言ってるんだ」


「頼む。い、言う通りに」

言葉も上手く話せない状態で、カマルは必死に訴えてきた。

「わ、私の屋敷へ。向かって、くれ」


カマルの屋敷へ行ったところで、カマルの身体が治るとは思えなかった。


「もう一度。い、意識が無くなるが。屋敷に着く頃には、意識は。戻、るから。し、心配。いらない」

ロバの背中に抱き付くようにして上半身を預け、カマルは瞳を閉じた。


「カマルっ」

反応が無い。

本当に意識を失ったようだ。


不安しか無かったが、もしかしたら、カマルの最後の望みになるかもしれないという思いも過った。

迷った末に、メリメルセゲルは言われた通り、カマルの屋敷へ向かうことにした。


カマルの屋敷が見えて来た頃、最初に意識が戻る前に聞いた、チッという声に近い音が再び鳴った。

間違い無く、カマルの体内から聞こえてきた。


カマルがゆっくりと瞼を開いた。


「大丈夫か?」

「大丈夫だ。心配かけた」

しっかりした口調が戻って安心したが、いつもカマルから感じる、優しい語尾の言い回しが消えていて違和感があった。


「もうすぐ。お前の屋敷に着くから」

「ありがとう」


カマルを背負って屋敷に入ったメリメルセゲルは、存在するであろう使用人に向かって叫んだ。

「誰か来てくれ!」


「誰も来ないよ」

カマルが静かに言い、動くほうの手で居間の奥の扉を示した。

「あそこへ、運んでくれ」


扉を開けた先は初めて入る部屋だった。

がらんとしていて何も無い。


「左の壁際へ寄って欲しい」

部屋の左側へ進み、壁の近くに立つと、カマルは壁に描かれた模様の一つを触った。


後ろで、床を擦る音がしたので振り返って見ると、床にぽっかりと穴が空いている。

穴から地下へ向かう階段が見えた。


「えっ?」

想定外の出来事だった。

何も無かった所に、突然階段が現れたのだ。


「階段の下まで運んでくれ」

説明をしようとしないカマルに説明を求めるよりも、この先に降りれば何かが分かる予感がした。


急な階段を後ろ向きに降りると、眩しいくらいに明るい空間が広がっていた。

上の居間と同じくらいの広さがあり、同じようにテーブルと椅子が幾つも設えてあった。


丸い床から立ち上がった壁と天井も丸く繋がっており、半分に切った巨大なヤシの実を、内側から見上げたところを想像した。


何か分からない細長い物が天井に張り付いて、白い光を放っている。


他の部屋へ通じているであろう扉が、異様なほどの数で、この部屋を取り囲んでいた。


「これは。ここは、何なんだ?」

「あの紅い扉の奥へ連れてって欲しい」

この部屋を取り囲んでいる扉の中で、一つだけ紅い色で塗られた扉を、カマルは指さした。


紅い扉の前に立つと、カマルが扉の脇に掛けられた黒っぽい板を指で数回叩いた。

ぴぃっと言う甲高い音の後、がこんと何かが外れる音がした。


カマルに促され、メリメルセゲルはそっと扉を押した。

今度はすぐに階段が見えた。

更に地下へ降りる階段だ。


さっきより長く急な階段を、メリメルセゲルはカマルを落とさないように、ゆっくり降りて行った。


下階へ到着した時には、メリメルセゲルは汗だくになっていた。

背中にいるカマルの身体が熱を持っていたからだ。

手足は冷たいのに胸の辺りは、炎に触れているみたいだった。


階段を下りきった場所は狭く、扉が二つだけ見えた。


「メリ。ありがとう。ここでいい。私はもう大丈夫だから。早くネフティトの所へ行ってくれ」

意識してなのかは分からないが、落ち着いた声を出している。


「こんな寂しい場所に、お前一人を残していける訳ないだろう」

メリメルセゲルは鼻息を荒くした。

負傷しているカマルへ強い言葉を浴びせたく無いが、心は憤慨していた。


「この扉の向こうは何の部屋なんだ?ベッドがあるなら、横になったほうがいい。何か。足を固定する板とかは、無いか」

ぐらぐらの右足は、見ているのも辛かった。


「横になる必要は無い。床に座らせてくれ。本当に大丈夫だから。兄が、もう少ししたら。やって来るんだ」

「遠くに住んでるっていう、お兄さんが?」

メリメルセゲルは嘘の匂いを感じた。

そんな都合良く、遠方から来るはずが無いと思った。


「じゃあ。お兄さんが来るまで、待つよ」

「ここにいる間に。ネフティトが、センネジェムを好きになってしまったら、どうするんだ」

「だとしても。ここにいる」


ネフティトを失ったとしても、たぶん、いつかは立ち直れる。

と、思う。


だけど、カマルを残して去った後で、もし、カマルが命を落としたら、自分を許すことができないと思った。


カマルは困った顔をした。

「メリが、ここにいると言うなら。私も。決断をしなければならなくなる」

「決断?」


「全てを話す決断だ。私にとっては、死ぬよりも辛い決断になる」

「どうして」

「何も聞かず、立ち去ってくれないか?」


頼まれると、意思が揺らいだ。

だけどと、メリメルセゲルは心の内で首を振った。


瀕死の傷を悪化させてでも、カマルには自分に隠したい秘密があるのだ。

自分がここにいては、それがバレてしまうのだろう。


「お前を一人にはしない。だから、決断してくれ。カマルから何を聞かされても、俺はお前を見捨て無い」

メリメルセゲルはカマルが隠したがっていることが何であれ、全部受け入れるつもりで言った。


「私だけじゃ無い。メリにとっても、辛い結果になる。それでも、聞きたいか?」

カマルの言い方は鋭かったが、メリメルセゲルは迷い無く頷いた。


「話せば長くなる。今日中に、ネフティトの元へ行けなくなっても。いいのか」

「辛い決断をしてまで、話してくれるんだろ?聞くよ。今夜」


「では。そっちへ」

カマルは階段の正面にある扉では無く、階段横の扉を指した。


「待って」

扉に取り付けられた棒へ手を掛けたメリメルセゲルは、カマルに呼び止められた。

「覚悟をするから」

そう言われて、メリメルセゲルの心も、今更になってザワついた。


「開けてくれ」

メリメルセゲルは緊張した気持ちに意識を向けないようにして、腕に力を入れた。


棒を引くと、真っ暗だった部屋が一瞬で光に満ち溢れた。

ごちゃごちゃと、見たことのない物が、細長い部屋の左右に収められている。


視線を感じて、自分の右側へ目を向けたメリメルセゲルは、息を呑んで後退った。

そこに、カマルがいたのだ。


今、自分が背負っているのもカマルだ。

「どうなってるんだ」


もう一人のカマルは全裸で突っ立ったまま、どこを見ているのか、こちらを気にする素振りも無い。


「カマルの兄さんか?」

やっと、メリメルセゲルが発した言葉を聞いたカマルが、少しだけ笑ったような気がした。


「もっと。驚くかと思ったよ。どこでもいいから、私を降ろしてくれ」


棚板を支えている縦桟(たてざん)へ上半身を預けるようにして、カマルを座らせた。


「話をする前に。そこにいるもう一人の私へ、私の意識を移して欲しいんだ」

メリメルセゲルはぽかんとした。

カマルにそう言われても、頭には疑問符しか浮かばなかったのだ。


「私の言う通りにやってくれればいい。だけど。その間、私の意識は無くなる。メリが手順を間違えたら、私は二度と目覚めることは無い」


理解が追い付いていなかったが、重責だというのが感覚で分かって不安になった。

だか、顔には極力出さないようにした。


「どちらにしろ。今いる身体は、もう少ししたら、またダウンするだろう。熱が上がり続けてるんだ」

確かに、あの熱は異常だった。


「ダウンしたら。きっと、今度は目覚めない」

「そんな」

「メリ。先に言っておくが。私が目覚めなくなっても。ミイラにしようと思わないでくれ」


メリメルセゲルはたじろいだ。

メリメルセゲルの常識では考えられない発言だった。


「ミイラにされなかったら。来世へ行けないじゃないか!」

ミイラにされなかった人間は悪霊になって、永遠にこの世を彷徨うのだ。


「大丈夫なんだ。さっきは嘘をついた。兄が来るのは、一ヶ月ほど先だ。だけど。目覚めなくなった私を、兄なら助けられるかもしれない。だから、私の身体は、そのままにしておいて欲しいんだ。私を助けたいと思ってくれるなら。願いを聞いてくれ」

カマルは祈るような表情を向けてきた。


「分かった。約束する。それに。俺が手順を間違えなければ、カマルは助かるんだろ」

「そうだ」


メリメルセゲルはここが、死後に向かうと聞かされている冥界なのではないかと考えていた。

カマルは冥界から現世へやって来ていることを隠しているのではないだうか。


一ヶ月も目覚めない人間を助けられるなんて、カマルの兄は冥界の神かもしれない。


メリメルセゲルは大真面目にそんなことを考えていた。

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