番外編・東の大陸の二人(エミリア)
西の大陸にあるゼノヴァン王国から連れ出され、船に乗って大海原を渡り、東の大陸のほぼ全土を支配していたハルバ帝国の港に着いたのは、十日も経っていただろうか。六歳だった私は船酔いで船室に閉じこもっていたので、そのときの記憶はない。
私を孤児院から攫った男に抱き上げられ、船から降りて馬車に乗せられた。
それから立派な屋敷で船酔いが治まるまで三日ほど養生したあと、ゼノヴァン王国とは違ったゆったりとしたドレス、それでもひと目で最上の品とわかるものを侍女たちによって着せられ、私はお姫様扱いで、帝都まで行き、宮城の一室でハルバの皇帝と会った。
ゼノヴァン王国での礼のカーテシーではなく、大理石の床に衛兵によって平伏されられた。私の前で片膝を突いているのは、私を攫った男の上司のようだ。
言葉が分からないので、何を話しているのかは理解できない。でも、上目遣いでこの豪華絢爛な部屋の彼方の玉座にいる男を見た。
黒髪に白いものが混じり、男盛りの年齢は過ぎていたが、豪奢な衣装を着ていても分かる均整のとれた体、整った顔立ち。遠くからでは色が判別できなかったけれど、それでも分かる鋭い眼差し。支配者としての圧倒的なオーラ。
――これこそ、極上の〝おとこ〟だわ!
巻き戻り前の記憶があるから覚った。異母姉のシルヴィアから奪い取った若造のライオス王子なんて、比較にもならない本物の男。財力も権力もあるこの大陸の頂点に立つ最高の人間。ハルバ皇帝、デオス・アゲロス・シジ・ランゲノス。
きっと手に入れてみせる――ゼノヴァン王国なんて、小さいわ。あの国の王妃になるよりも、この帝国の女の頂点に立ってやる!
私は野望に燃え、雌伏の時を過ごした。
*****
私は後宮で『ルヴィニ姫』と呼ばれた。『紅玉姫』という意味だ。私のストロベリーブロンドから、皇后が名付けた。
ハルバ帝国では皇帝のみが一夫多妻で、後宮は女主人の皇后を頂点に子供を多く産んだ者から上位の妾妃の地位をもらい、あとは閨で奉仕する使用人という立場だった。また、皇后になるには実家の身分など関係なく、優秀な男児を産んだ者が皇帝から指名され、その地位に就いた。後宮は男子禁制で、女たちは許可なく外出も許されず、宦官が後宮の運営に携わり、女性騎士が警護をした。
そんな女の園で、私は将来、ゼノヴァン王国の妃になるべく教育を受け、皇后の養い子という立場にあった。
前世では勉強なんて大嫌いだったけれど、最高の女になるためには、そんなことを言っていられなかった。行儀作法、教養、楽器の演奏、詩の朗読に舞踏。なんでも熱心に取り組んで、自分の美貌にも磨きをかけた。
また、後宮の事情にも通じるために、女官や侍女たちにも優しく、皇后とその側近の女たちにもへりくだった。さらに有力な宦官へは、私にあてられる予算のうちからできる限りの賄賂を贈って、好感度を上げておき、じわじわと味方を作って、じっと機会を窺った。
皇后には成人した皇子が一人と娘が二人あった。元は伯爵令嬢で、実家は閨閥を作るほどの野心も力もなく、それで皇帝は身近に置くようになり、子が生まれ、皇后となった女だった。教養、容姿ともに、たいしたことはない。無害な女だった。養い子となった私に、ときに声をかけるくらいで、関心は息子が皇太子になるかどうか、だけだった。
皇帝には他に、まだ幼い息子が一人いて、こちらの母は侯爵の娘であり、美貌と教養を誇る女だった。父親が宰相で、周囲の勧めによって一度だけ閨に呼んだとき、身ごもったというから、強運の持ち主でもある。
皇帝はまだ世継ぎを指名していなかったので、後宮は皇子の母の皇后と第二妃、この二人の女が対立する場でもあった。他に子がいないということは、閨に召されても、孕まないか、殺されたか。それは容易に想像がついた。
私は賄賂を渡して好感を得ていた宦官のウルグにさらに金を握らせ、ささやいた。
「わたくしは、第二妃様のお味方をしたいと存じます」
そう告げ、皇后ではなく、その皇子を陥れる策を与えた。
ウルグは小太りの三十男で、優しい顔立ちをしていたが、金に執着が強く、第二妃の父とつながっていた。しかしウルグは金に目がくらみ、第二妃を裏切って、私の側についた。
第二妃の父の宰相は罪をでっち上げて、皇后の産んだ皇子を殺すまではできなかったが、足切りの刑を処されるまでに追い込み、後継者から追い落とした。それと共に皇后も地位を追われ、皇女と共に離宮に幽閉された。いずれ第二妃の手の者によって、殺されるだろう。
第二妃は皇后になることを皇帝に願った。しかし、それは聞き届けられることはなく、第一妃とされた。
皇子が一人だけとなったため、宦官の長・シェンは皇帝に願い出て他の妃を順番に閨へ送ることを上奏した。それは許可され、皇帝が絵姿を見て選んだ女が閨の相手を務めることになった。
そこで私は、私に容姿が似た妃と入れ替わり、皇帝の閨に侍ることができた。
閨教育はシェン自らがした。
宦官は男性器を切除されているとはいえ、高官になるほど妻を持っていた。四十代のシェンは処女を散らすことなく、私に性技を教え込んだ。
皇帝の閨に連れていかされたのは、十六になってすぐのことだった。薄暗い皇帝の寝所で、私は六十を過ぎた皇帝に抱かれた。
十年前、初めてその姿を見たとき、覇気に満ちていたのに、今の皇帝はただの老人に過ぎなかった。
ねえ、私は美しいでしょう? 肌も艶やかでかぐわしい若い女を抱いて、どう?
破瓜の痛みを和らげる薬湯をあらかじめ飲んでいたので、痛みはなく、義務的な行為で悦びもなかったけれど、私は自分の若さと美しさを誇りたかったし、皇帝に賞賛されたかった。
でもこの男は何も言わず、仕事を終えたとばかり、行為が済むと私を寝所から追い出した。
つまらない。前世の記憶にあるゼノヴァン王国のライオスは猿だったけど、皇帝も最低だわ。
そう思ったけれど、目的は子を孕むことだったので、我慢した。
やがて選ばれた女のうち、私を含めて六人が子を宿した。
ときが満ち、私は男児を産んだ。他の女は、女児が四人に男児が一人だった。
私は宦官たちに金を握らせ、女児は生かして誕生を報告し、男児は隠して、女児で死産だったと言うように指示を出していた。
宦官たちは、その通りにした。女児は政略に使える。男児を隠したのは、私の子に何かあったときの身代わりにするつもりだった。
皇帝は政務に没頭し、子の誕生を発表しただけで、喜ばなかった。
私は宦官たちと結託し、第一妃と皇子、そして皇帝へ密かに毒を盛り、三年かけて殺した。
皇族の霊廟にその遺体が安置されたあと、私は息子を即位させ、自ら摂政となり、権力を握った。
そう、帝国で最高の女になったのよ。
シェンを「父」と呼び、私の言うことを聞く文官を宰相にして、ウルグを将軍の地位に据えた。内政をシェンがやり、軍人たちは任命権を盾に、ウルグが掌握すればよいのだ、と思っていた。
宮城の男女は私を褒め称え、栄耀栄華の暮らしがずっと続く――はずだった。
それなのに!
なぜ、王宮の周囲で、蛮族たちの歌が聞こえるの?
帝国は強大だったはず。こんなにあっけなく滅びるなんて、ありえない!
シェンとウルグは、とうに逃げてしまった。女官たちも官僚たちも、誰も私のそばにはいない。幼い息子は、毒を飲まされて玉座で死んでいた。
「どうして、こんなことになったのよ!」
火が回った宮殿で、皇后の衣を着、宝石で身を飾った私は叫んだ。
「皇帝が――デオスがいないからさ。あいつはあれでも、ルーキン神の愛し子だったからな」
目の前に、いつの間にか黒衣の男が立っていた。
「おもしれー舞台だったぜ。三文芝居だが」
男は笑って、姿を消した。
あれは、皇帝が使っていた魔法使い・セヘル?
「待ちなさい! 私を助けなさいよ!」
私の叫びは鬨の声にかき消され、そのとき宮殿の天井が焼け落ちたのだった。




