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 父が本宅に泊まるとき、母は二階にあるシルヴィアの部屋で一緒に寝る。

 幼い頃はそれが嬉しくて、母に思いっきり甘えていたのだが、王妃教育で閨のことを教えられてから、母は父と同衾するのを拒否していたのだと知った。

 いつだったか、母がシルヴィアの部屋に来て鍵をかけたら、父がドアを叩いて大騒ぎをし、執事のバートラムに宥められて自分の部屋に帰ったという出来事があった。

 夫婦であることを拒否するのは、父に虐げられていた母の唯一の抵抗だったのかもしれない。

 祖父と父は母を外に出さなかった。領地のことと金銭については、継承者である母の署名が必要なため、母には領地経営と資産管理についての書類にサインさせ、王都の屋敷とたまに領地の屋敷に行くこと以外、許さなかった。

 社交は愛人のイザベラがした。この国では正妻を社交の場に連れて来ないで愛人を同伴することは特に恥ずべきことではなかった。イザベラは社交界で、ダドリー夫人と呼ばれていた。

 亡くなった祖父のヘンリーにも多くの愛人がいたが、晩年の相手はスペンサー夫人という三十代の肉感的な女だった。

 ……あの人を一度だけ見た覚えがあるのだけど、いつのことだったかしら。

 シルヴィアの記憶はすべて戻っているわけではなく、身体は六歳で、思考は十六歳。そして記憶は、十六歳の自分が六歳の頃を回想しているような感じだった。

 朝になって、ノックの音と共に、リタの声がした。

「奥さま、お嬢さま。旦那さまは朝食も召しあがらずに別宅へお帰りになりました。ですので、ここを開けてください」

「あら、もう帰ったの? もっと小言があるかと思ったけれど、爵位を継いだのが嬉しかったのね」

 母がドアの鍵を開けながら言った。

 ドアの向こうには、リタだけではなく、母の専属メイド・ドリーもいて、着替えを持っている。ドリーはハシバミ色の髪と瞳を持った三十前の女性で、一年後に領地にいる親の決めた婚約者と結婚が決まっていた。

 それから、シルヴィアの部屋で身支度を整え、母娘は一緒に食堂へ歩いて行った。そこで待っていた執事のバートラムが一礼してから報告する。

「奥さま、旦那さまがマーシャル夫人が病だと知り、『次の家政婦を手配する』とおっしゃって、マーシャル夫人を解雇するようお命じになりました。いかがいたしましょう」

 バートラムは父親も執事をしており、主というなら、父・パトリックより母のオーレリアだった。このとき、四十になったばかりで、黒髪で青い瞳の苦み走った容貌をしていて、若い頃は女性に騒がれたようだが、妻子はいない。

「あの人が屋敷のことを気にかけるなんて珍しいこと」

 母は皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「でも、もう決めてしまったのなら、覆すことはできないわ。マーシャル夫人は六十を過ぎていたわね。これを機にゆっくりするのもいいかもしれない。退職金と年金の手配をしましょう」

「次の家政婦は、明日来るそうです」

「手回しのいいことね」

 ……そう。タイミングが良すぎる。もしかして、マーシャル夫人も毒を盛られたの?

 父の陰謀はもう始まっているのかもしれない。そう思ったシルヴィアは、無邪気に訊いた。

「ねえ、お母さま。朝食のあとは、何をなさるの?」

「少し休憩したら、今日は書斎へ行ってお仕事なの。会計係のグレゴリーをあまり待たせてはいけないわ」

「じゃあ、私も行っていい? おとなしくしているから」

 ねだると、「しかたないわね」と母は了承してくれた。

 食事のあと、シルヴィアは母の書斎について行った。

 祖父と父も書斎を持っていたが、王都の屋敷のそれは本の置き場になっていて、ほとんど使われたことはない。一方、母の書斎はオーレンクス侯爵家の重要書類が棚と机の上にあふれていた。

「奥さま、お待ちしておりました」

 ドアを開けると、三十代初めくらい、茶色のスリーピース姿で黒縁メガネをかけた男性が椅子から立ち上がり、頭を下げた。

「今日もよろしくね」

 母は奥にある黒いマホガニーの机へ向かい、椅子に座った。

 シルヴィアは書棚の前に行き、資料本の背表紙やまとめられた書類の項目を眺めていた。

 母が会計係の説明を受けていると、突然、ノックもなくドアが開いて、書類カバンを抱えた若い男が入っていた。

「失礼、奥さま。侯爵閣下の命により、サインが必要な書類をお持ちしました」

 紺色のスーツを着たその男は、慇懃無礼な態度だった。

 シルヴィアは観察するために壁際へ寄り、カーテンの陰に隠れて様子を窺った。

「ベネット、先代さまが亡くなったとたん、旦那さまが連れて来た秘書とはいえ、三か月もいれば、この館の女主人が奥さまだとわかるだろう。無礼はやめたまえ」

 グレゴリーが怒って怒鳴りつけるが、その男は知らん顔だ。

「おい、会計係。旦那さまのことは、閣下と呼べ。爵位を継がれたのだからな。で、奥さま、これにサインを」

 と、ベネットは書類の束を母の前にどさりと置いた。

「これは……ドレスに宝石。この首飾りの値段はなに? 王妃さまでもこんな高い物は持っていないわ」

 母が驚き、ベネットをまじまじと見る。

「ダドリー夫人は奥さまに代わって侯爵家の社交を担当しておいでだ。社交界のファションリーダーになるのさ。そのための必要経費だ」

「父もそうだったけれど、あの人はそれ以上ね。我が家を金の卵を産むガチョウだとでも思っているのかしら。領民が懸命に働いて納めた税金で、私たちは暮らしているのよ。こんなもの、払えません」

「閣下のご命令に逆らってはいけませんね、奥さま。『明日の朝早くに持ってくるように』と命じられていますので、今夜中にサインをお願いします。私は客室に泊まらせてもらいますから」

 ベネットは笑いながら書斎から出て行った。

「どうなさいますか?」

 グレゴリーが訊く。

「たとえ殴られようとも……できないわ」

 母が悲痛な声で答えた。

 ……おじいさまとお父さまは、侯爵家の寄生虫というわけね。

 まずは、あの男を罠にかけようと、シルヴィアは思った。






 

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