(30)
「お嬢さま、起きてください。今日は領地に出発するので、寝坊はできませんよ」
エッダの声がして、シルヴィアは目が覚めた。
鎧戸が開けられ、エッダがカーテンを引いたので、光が差し込み、まぶしい。
「昨日は……?」
右手で目をこすりながら半身を起こし、シルヴィアは訊いた。
「向こうで寝てしまわれたので、フィリップ殿下が抱きかかえて連れてきてくださいましたよ。わたくしがお着替えをして、ベッドに寝かせたのです」
うわあ、恥ずかしい。
昨夜、キスされて気を失って、そのままだったようだ。
「身支度をいたしましょう。殿下から、ドレスのプレゼントがありましたよ」
エッダに助けられてベッドを降りたシルヴィアは、歯を磨き、差し出された洗面器の水で顔を洗った。
ドレスは白で、襟と袖口にレースがあしらわれ、所々にピンクのリボンがアクセントでついていた。それをエッダはシルヴィアに着せ、髪の両サイドを三つ編みにしてピンク色のレースのリボンで留めた。
今まで黒い服ばかりだったので、色彩のある服を着ると心まで軽くなるようだ。
姿見の前で、くるりと回ってみたシルヴィアは、駆け出した。
ドアを開けて、薔薇の花が生けられた花瓶が幾つもある居間に行くと、そこには身支度を整えた祖父がもういた。服はまだ、黒だったけれど。
「ヴィア、きれいだね」
と、彼女を抱き上げたリチャードが付け加える。
「あれのプレゼントだというのが、気にくわないが」
「着ては、だめだった?」
「まあ、婚約者候補――だから、仕方あるまい」
二人は従僕のネイサンの案内で、食堂へ行き、陛下とジュリアスと共に朝食を摂った。
「エセルおじさま、フィル様は?」
「仕事が立て込んでいて、そなたをここへ送り届けたあと、帰ってこない。しかし、昨夜のことは聞いている。侯爵……この子は得難い宝だ。できれば、我が家で育てたいのだが」
エセルバード陛下がシルヴィアに答えたあと、祖父のリチャードに向かって言うと、祖父はナイフとフォークを置いて、冷ややかな目をして告げた。
「ここに滞在中は、良くしていただきました。しかし、だからと言って、我らの間にある問題が解決したわけではありません。この子には、両親も祖父である私もいます。『魔女の血』を継ぐからといって、王家が家族から幼い子を、ましてやオーレンクスの継承者を引き離すのであれば、今度こそ、我らは故郷の山河を血に染め、最後の一人となろうとも、戦うでありましょう」
祖父の語気の強さに、王の顔が引きつった。
「父上、妙な欲を出すと、レイラ様の祝福がなくなりますよ。シルヴィアは、初代王妃の愛し子なのですから。伯父のハロルドと同じになりたいのですか」
ジュリアスが手厳しいことを言う。
「失言であった。許されよ、侯爵」
「おわかりいただけたなら、幸いです」
冷たい表情で答えた祖父はもう食事に手を付けず、皿を下げさせた。
気まずい雰囲気が流れるが、誰も言葉を発しない。
シルヴィアも食欲がなくなってしまったので、皿を下げてもらった。
そこへノックの音がし、侍従がフィリップの訪れを告げた。
王が入室を許可すると、ドアが開けられ、白い軍服姿のフィリップが姿を現した。
「お食事中、申し訳ありません」
急いで来たのか、髪が少し乱れている。
「何があった」
エセルバード王が訊く。
「サザランド領にいる第二騎士団の部隊から報告がありました。昨夜からの大雨で、サザランド領が……全域で水没したとのことです」
「なんと……」
「領民たちは?」
絶句した王に代わり、ジュリアスが訊く。
「他領に逃れて、死者はいないとのことです」
……やりすぎよ、レイラ様。
『てへっ』
と、レイラ様の声が聞こえた。
『雨がやめば、元通りになるわよ。これは魔法だから』
……どうすれば、やむの?
『シルヴィアが、〝雨よ、やめ〟と念じれば、いいだけよ。でも、もったいぶって、塔にあるお天気玉の前で祈ったほうがいいかも?』
「フィル様、私をすぐに塔に連れて行ってください」
「わかった」
と、答えたフィリップは、祖父に向かって言う。
「レディ・シルヴィアをお連れします。必ずお返ししますから」
「仕方がない」
リチャードがしぶしぶ許可する。
「ならば、出発が少し遅れるな。侯爵が帰るというので知らせていなかったが、今日、即位の儀式を行うことになった。出席してくれまいか」
「御心のままに……と言いたいところですが、あいにく手元に礼装などありませんので、欠席させていただきましょう」
「オーレンクス侯爵、正式なお披露目は後日になりますが」
と、ジュリアスが父親に代わって言う。
「王の空位が続くのはこの混乱の時期によくないということで、急遽行うため、列席するのは貴族院のメンバーとあの見届け人の平民たちです。衣装もすぐ手配いたします。どうぞ、気兼ねなくおいでください」
ここまで勧められては祖父も否と言えず、了承した。
「では、行こう」
と、フィリップがやってきて、シルヴィアを抱き上げる。
「おじいさま、すぐ戻ります」
シルヴィアが言うと、フィリップは彼女を縦抱きにしたまま、そこを出て玄関ホールへゆく。彼の部下が扉を出たところにある車寄せで、馬の手綱を持って待っていた。
フィリップはシルヴィアを抱いたまま馬に乗り、王宮へ駆けた。
門を入って王宮の脇に回り込み、馬を降りると、そこにいた近衛騎士が馬の手綱を受け取る。
フィリップは慣れた様子でそこのドアを開けて中へ入り、迷路のような廊下を抜けて、昨夜来た塔の入り口までたどりついた。
そこには昨夜と違い、二人の衛兵が入り口を護っていた。
二人がフィリップに頭を下げ、扉を開ける。
彼は階段を上り、最上階に出る。昨夜と違うのは、頭上から光が入り、塔の中がとても明るかったことだ。
中央には、小さなテーブルの上に載った虹色の玉が光を反射してきらめいていた。
フィリップはシルヴィアを降ろし、窓を一つ開けた。こちらは晴天なのに、その彼方だけ黒雲が覆っていた。
……雨よ、やんで!
シルヴィアが願うと、ゆっくりと黒雲が動き、薄れて向こうの空も晴れて行く。
「これで、いいかしら?」
「そのようだ。現地からの連絡が来なくては、はっきりとは言えないけれど、きっとやんだよ」
サザランドの空のほうを見ていたフィリップがシルヴィアを振り返り、微笑む。
「昨日は、このままでいい、なんて言ったけれど、レイラ様の力をみくびっていたな」
フィリップが溜め息をつく。
「すごいものだ。生前は、どれほどのお力を持っていらしたのか」
「あの……昨夜は運んでくれて、ありがとう。重かったでしょう?」
「そんなことはない。羽のように軽かったよ」
シルヴィアを抱き上げたフィリップが、くるりと回る。
「それにしても、頬へのキスで眠ってしまうとはね。僕の眠り姫」
間近で夏の青空の色をした瞳に見つめられ、シルヴィアの顔が赤くなった。
「男の人にキスされたのは、前世も今も、初めてなの」
「前世でも? ライオスと婚約していたのに?」
「前世では、王太子の婚約者ということで王妃教育ばかりさせられていて、彼とは手も握ったことはないわ。大切な夜会でも、私が病弱だといって、異母妹の――といっても、今ではなにも関係がないと分かっている、エミリアとライオスは踊っていたわ。婚約者という立場に縛りつけ、挙句は婚約破棄してオーレンクスの継承者であることまで、私から奪って殺したの」
「ゲスなやつめ」
フィリップが眉を顰め、シルヴィアを抱きしめた。
「ヴィア、もう、そのことは思い出さなくていい。今のことだけを考えて。きっと幸せにするよ」
ぼぼっ、とシルヴィアが真っ赤になったとき、レイラ様の声が聞こえた。
『きゃあ、ステキ! イケメンの告白って破壊的ね!』
「いま……誰が?」
シルヴィアを抱えたまま、フィリップが辺りを見回す。
『やっほー。ここよ』
と、光の玉が二人の周りを飛び回り、それが空中で止まると、親指ほどの大きさのレイラ様の姿になった。
『本体は宝物庫にいるけれど、ちょっと外を見たくなったので、シルヴィアについてきたの』
「さっきから、そこにいらしたんですか」
小さなレイラ様は、フィリップの目にも映っているようだ。
彼がシルヴィアを下に降ろす。
「保護者つきだったんだね」
うーん、とフィリップが複雑な表情をした。
『いい雰囲気を邪魔したお詫びに、おせっかいなおばちゃまが良いものを見せてあげよう』
と、レイラ様が言ったとたん、シルヴィアの身体が大きくなった。
『これが十六歳のシルヴィアちゃんでーす』
「きれいだ……」
フィリップが目を見開く。
「君を邪険にしたライオスは、大ばか者だな。ああでも、そのドレスは今の君には子どもっぽすぎる。もっと君に似合うものを今度は送るよ」
と、彼はシルヴィアを抱きしめた。
身体が大きくなると耳にフィリップの胸の鼓動がよく聞こえ、その腕の中の暖かさが心地よく感じられる。
……ああ、私、この人のことが好きなのね。
このとき、シルヴィアは自分の恋心を自覚した。
「フィル様……」
彼女が顔を上げて二人が見つめ合い、甘い雰囲気になったとき、
『ごめーん。時間切れでしたーっ』
レイラ様の姿が消え、その言葉と共に、一気に六歳に戻ったシルヴィアは、ポスンとフィリップの腕の中から抜けて、床に降り立った。
「ひどいな。生殺しだよ」
右手でフィリップが、頭をがしがし掻いた。そして、息をふう、と吐く。
「レイラ様は、ずいぶんとお茶目な方だったんだな」
そうぼやきながら窓を閉め、ポケットからハンカチを出して、虹色のボールにかぶせた。
「さあ、帰るとしよう」
シルヴィアを部屋の外に出したフィリップは鍵を締め、彼女を再び抱き上げて、塔の階段を降り始めた。
「即位の儀式は、始まっているかしら」
落ちないため、フィリップの首に両腕を回しながら、シルヴィアが訊いた。顔が赤いのを見られないように、と願いながら。
「多分ね」
足元に目をやりながら、フィリップが答える。
「どんなことをするの?」
「まず、侍従に付き添われて地下へ行き、初代王妃の宝物庫へ入って、出てくる。これは以前にやったね。次に玉座の間に出て、王都を管轄区域とする司祭とこの国の貴族たちの前で、良き王となることを誓う誓約書へサインし、司祭から王冠を被せられ、王笏を持って玉座に座る。あとは宰相や外国からの賓客の祝いの言葉を受けてから、祝賀パーティだ。これは後日になるな」
「パーティがないと、短い?」
「そうだね。今頃は、誓約書へのサインは終わって、戴冠の儀式かな? 途中で入ると、儀式の邪魔になりそうだから、終わるまで廊下で待っていようか?」
「そうします」
シルヴィアがうなずいたので、フィリップは彼女を縦抱きにしたまま塔を降り、衛兵たちの前を通って廊下を行き、玉座の間の扉の前に立った。




