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トム・ホープ

 オーレンクス侯爵領は王国の北にある。俺はそこで生まれた。父は王都から来た行商人で、どっかの大きな商会の次男坊だってことだった。地元の農家の娘だった母は、農閑期に宿屋の手伝いに出かけて父と知り合い、恋に落ちた。

「両親の許可を得てくる」と言って旅立った親父は、帰ってくることはなかった。母が教えてもらった商会へ、王都に行く知り合いに手紙を託したが、「そんな男は知らない」という返事だった。

 田舎娘がだまされたというお決まりの話だ。ただ、お腹に俺がいたってだけで。

 母は俺を産んで、二年後に気落ちしたまま亡くなった。

 俺を育ててくれたのは、祖父母と家を継いだ長男夫婦で、伯父も伯母も従兄弟たちも、両親のいない俺を特別扱いせずに家族として接してくれた。まあ、不自由のない生活をしていたと言える。

 近所の幼なじみたちも同様で、大柄なサムは意地悪だったけれど、子分になったら、一人前に扱ってくれたし、手先の器用なジョーイは人の心配ばっかしている善いやつだったし、赤毛のアデルはかわいくて、実家のパン屋を手伝っているときなんか、同世代の男はみんな、覗きに行ったもんだ。

 まっとうに暮らしていれば、俺も伯父を手伝って、大人になれば、少しばかりの土地を分けてもらい、嫁さんをもらって平穏な人生を送ったことだろうな。

 でも、親父の血かな。俺はどうにも、ここに腰を落ち着ける気にはならなかった。

 何かをやらかす前に、故郷を離れよう、と俺は十二になると、祖父と伯父の金をくすねて、家を飛び出した。

 侯爵領を出て当てもなく歩いていると、さっそく盗賊に遭って有り金を巻き上げられ、人買いに売られた。

 ゼノヴァン王国では、人身売買は禁止されている。けど、法を犯して金儲けをするやつは、どこにでもいるもんだ。

 俺は、サザランド伯爵が裏にいる組織に買われたらしい。伯爵領の表向き、孤児院というところに連れて行かされた。そこで見目のいい子どもは年頃になるとハルバ帝国に売られ、そうでないやつは何か技術を身に着けないと、最下層の奴隷として売られることになっていた。技術を持ったやつだけが、伯爵家で雇ってもらえるのだ。

 俺は必死に自分に出来るものを探した。

 子どもには、読み書きなどを教えるよう国は決めていて、定期的に孤児院や平民の通う学校へ、王都から監査の役人が入る。賄賂を渡してお目こぼし、ってことを誰もが考えるもんだが、それをやってバレると、労役と罰金という罰が待っているので、たいていの役人はやらない。初代王妃が決めた法律は、破ったやつに対してとても厳しい。

 十五歳になったとき、伯爵領の隣の王領の代官所で、共通試験を受けた。並の成績だったので、上の学校へは行かず、俺は馬の扱いに長けていたので、馬丁として雇ってもらえることになった。

 同い年の奴らのうち、成績が悪かった者は秘かに奴隷として売られていき、一部はサザランド伯爵が経営している秘密クラブで変態どもの相手をさせられた。

 売られなかったのは、同い年では俺とザドル・アルタートンの二人のみだった。

 アルタートンは目が細く、茶色の髪と瞳をしていて容姿がいいってわけではない。生まれてすぐ孤児院に捨てられたせいか、それともこの孤児院の劣悪な環境のせいか、感情の起伏がなく、他人に冷たいやつだった。ただ、非常に頭が良かった。こいつは王立学校へ行き、三年後、俺が御者の見習いになった頃に文官にならずに戻って来て、伯爵に仕え始めた。それも、とても忠実に。

 俺は、伯爵が「殺せ」と命じた奴隷を顔色も変えずに剣でメッタざしにしたこいつを見たことがある。上の命令には、絶対に従うやつだった。そのため、伯爵の身近に仕えるようになるのに、さして時間がかからなかった。

 サザランドの領地には、ハルバの民が闊歩していた。外見は俺たちと変わらないから、分からない。ただ、身分がわかるようにハルバの連中は王族以外、刺青をしていた。貴族は目立たないよう左耳の後ろに小さく紋章を。平民と奴隷は左の上腕に。

 やつらはこの国の人間を虫けらとでも思っているようで、簡単に殺した。そして教会の司祭や神父を殺してすりかわり、ハルバの神・ルーキンを崇めるよう強制した。ルーキンは男神で、この国と周辺が信仰するレダ女神と姉弟、互いの領域を犯さないよう約束をしていると伝わっているのに、だ。

 サザランド伯爵には、愛人との間に母親が違う三人の子どもがいた。正妻はその母親たちが結託して殺したそうだ。子どもたちもその血を引き、美しく、残忍だった。

 生まれた年の順で、長男のナイジェル、次男のヘンリー、長女のエンマ。

 伯爵は、娘のエンマを王妃にしたいという野望を持っていた。そのために領民に重税を課した。それは農民だけでなく、商人にもだった。

 サザランド領で商会を営んでいたロイという男は、仲間と共に伯爵に抗議したが、反対に冤罪で財産のすべてを取られ、妻はその美しさが伯爵の目に留まり、さらわれたあげく、麻薬漬けにされ、慰み者となりはて、秘密クラブの客相手に春をひさいでいた。それを知ったロイは城に忍び込み、妻を殺して自殺した。

 ロイには幼い息子がいたようだが、行方が知れない。きっと、死んだことだろう。

 秘密クラブの客は、貴族たちだった。中でも大物は、王家の血を引くダウロット公爵とジラフォード侯爵だ。ところが、さらにその上がいたことを俺は偶然、知ってしまった。

 ある夜、厳重な警護で貴人だと思われる若い男が伯爵の城を訪れた。目元を黒いマスクで隠したその貴人を、令嬢のエンマが嬉しそうに出迎えていた。

「あれ、王太子だぜ」

 仲間が小声でささやいた。

「お嬢さまは、きっと王妃になる」

 クックッ、とそいつは笑った。

 そのすぐ後だった。ハロルド王太子の婚約者レイズナー侯爵令嬢が婚約を破棄され、修道院に送られたのは。

 同じ頃、サザランド伯爵家の当主が突然死んで、長男のナイジェルが継いだ。

 そして俺は、偽造した紹介状で、王都のオーレンクス侯爵邸に御者として勤めることになった。俺が奴隷にされなかったのは、オーレンクスの出身だからだと知ったのは、ずっとあとのことだ。俺は、「知ることの出来るかぎりのオーレンクスの情報を送れ」との指令を受けた。

 これらはすべて、ハロルド王子の意志による。

 娘のエンマを王妃にすることだけが望みだった伯爵を、ハロルドは用済みだと判断した。ハロルドは、ハルバ帝国と秘密裏に取引し、さらなる贅沢を望んだ。どうやら薬をやっていて、少しおかしくなっていたのかもしれない。やつの頭には、女と美食と財宝しかなかった。国の民は自分に奉仕するのがあたりまえ、という考えなのだ。

 やつは、海に面したサザランド領を通じてハルバと密貿易をし、叔母のアレクサンドラの結婚によって割譲した王領を取り戻し、さらにオーレンクス侯爵領も自分の物にしようとしていた。

 そのため、サザランド伯爵には悪友のナイジェルが当主になる必要があったのだ。

 サザランド伯爵後継の件が落ち着くと、ハロルドはオーレンクスに目を向けた。成人して社交界デビューのため王宮にやってきた従妹のイレーネ姫を手籠めにして愛人にしようとした。だが、未遂に終わり、犯人を悪友のヘンリー・サザランドにして、婿入りさせようとした。

 ところが、侯爵夫妻の反対に遭い、計画が進まない。それどころか、ハロルドの悪辣さに気づいて見放した父のウィリアム王に廃嫡されそうになった。

 そこで、邪魔者を消そうとした。

 俺はそのころ、故郷の領主夫妻に仕えることになって、嬉しくて真面目になっていた。情報も、当たり障りのないものを送っていた。だが、以前に御者仲間とした博打の負けが残っていた。そこへ、久しぶりに会ったアルタートンがささやく。

「この仕事をしてくれたら、負けた分はきれいに払えて、手持ちが残るくらいの礼金をやろう。なに、簡単なことさ。侯爵夫妻の帰国の馬車の御者をするだけだ」

 侯爵夫妻が領地へ帰るという当日、俺はアルタートンの指示の通り、同僚に薬を盛って、交代した。

 裏切り者は、他にもいた。護衛の一人だった。そいつは、「道が倒木で通れません」と嘘をついて、脇道へ一行を誘導した。

 川沿いのその細い道には、ハルバの伏兵がいた。

 俺は、伏兵がいる場所の近くで急に馬車を止めた。

 毒矢が茂みからとんできて、裏切り者の騎士から殺られた。

 護衛たちは奮戦したが、ハルバの毒の剣と矢の前にはどうしようもなく、次々と斃れ、後続の馬車に乗っていた従者と侍女は、奴隷になるよりはと、剣の前に身をさらし、自害した。侯爵夫妻も毒矢にやられて息絶え、オーレンクス騎士団長のジョージ・ヴァイエンドルフは自らも毒で息絶え絶えだったのに、主人夫妻の遺体をハルバの奴らに辱められないため、両脇に抱えて川に飛び込み、沈んだ。

「よくやってくれたね」

 ハルバの連中が馬車から金目の物を盗んで騒いでいるとき、アルタートンが木陰にいた俺のところへやってきて、猫なで声で言った。

 右手で大金の入った袋を差し出している。だが、左手は?

 こいつは俺を殺すつもりだ、と察した俺は、金貨の袋を受け取り、アルタートンがナイフを突出すと同時に、それをやつの顔に投げつけ、ジョージ・ヴァイエンドルフの愛馬へ駆け寄ってその背に乗り、横腹を蹴った。

「行ってくれ。オーレンクスへ」

 裏切り者の俺が帰っても、殺されるだけだろう。けれども、侯爵夫妻の最後を報せて、せめてもの償いをし、故郷で死にたい、と思った。

 ヴァイエンドルフの愛馬は、五日かかる道を一日で駆け抜け、城門の前で倒れて死んだ。

 俺は中から出て来た人たちに、侯爵夫妻が暗殺されたことを話し、意識を失った。

 目覚めたとき、地下牢のベッドの上にいた。

「気づいたかい。まずは腹ごしらえをしな」

 扉の格子の向こうから看守が言い、そこを開けて水とスープとパンを載せたトレイを持って入って来た。

「じきにアンナ様がおいでになる。妙な気を起こすんじゃねえよ」

 と、テーブルに置いて出て行った。

 俺が食事を終えた頃、大勢がやってくる足音がした。

 扉が開いて、ジョージの妻のオリガ・ヴァイエンドルフが姿を現した。

 オーレンクスの祖先がこの土地へ仲間たちと足を踏み入れたとき、荒れた大地と広い森しかなかったという。その森には精霊を信仰し、幻術を使う民がいて、マイケル・オーレンクスは彼らと友好的に付き合い、森の民はオーレンクス領の人びとと婚姻関係を結んで、今では二つの民は親戚のようになっている。ただ、森の民の血が濃く出ると、大柄な体格に生まれた。俺の幼なじみのサムみたいに。

 オリガ・ヴァイエンドルフは生粋の森の民で、先代侯爵の妻・アンナ様もまた、森の民だった。

 オリガが大きな身体を横にどかすと、家宰のベネディクト・アダムスの息子、リチャードが怜悧な美貌をさらに冷たくさせて、俺を一瞥し、アンナ様をエスコートした。

 そのとき六十を超えていたアンナ様はいつもピンと伸ばしていた背筋を丸くし、ずいぶん年をとったように見えた。

 看守が外から椅子を持ってき、アンナ様がそれに座った。

「トム・ホープ。おまえは、何てことをしてくれたんだろうねえ」

 アンナ様は溜め息をついた。

「そして、あらかた終わってしまってから目覚めるなんて、何と幸せなことか。これを、ごらん」

 と、アンナ様は手にしていた布包みを広げてテーブルの上へ置いた。

 中から、水晶玉が出て来た。

 俺がそれをじっと見つめていると、情景が次々と現れる。

 城の礼拝所で、イレーネ様とリチャードがサミュエル様の叔父でもある司祭様の前で結婚の誓いを述べ、誓約書にサインしている。

 侯爵夫妻の遺体が近くの教会に安置されているというので、リチャード・アダムスとユーリ・ヴァイエンドルフが配下を引き連れて受け取りに行くところ。

 ヘンリー・サザランドが近衛の一部と第二騎士団の隊ひとつを率いて、城門に来、応対に出たベネディクト・アダムスの首を近衛騎士が刎ね、なだれ込む。一方で、海からハルバの兵百人ほどが船で来襲し、火砲という初めて見る武器で攻撃し、港の街を砲弾で焼いていく。

 陸からヘンリーと共に来たハルバの兵は、抱えられるほど小さい火砲で領民を次々と撃っていく。

 人が死ぬ。それも俺の故郷の人たちが。

 ヴァイエンドルフの留守部隊が真っ先にやられた。

 俺の祖父、祖母、伯父と伯母もハルバのやつに撃たれて死んだ。いとこたちは戦って、死んだ。家は焼かれた。農地は踏みつぶされた。

 幼なじみのサムは、力任せに丸太を振り回して、ハルバの兵を二人振り飛ばしたが、腹を撃たれて大穴が開いた状態で、立ったまま死んだ。嫁さんは、ハルバの奴らに奴隷として、港へ連れて行かれた。

 優しいジョーイは、武器を作るためにサミュエル様の弟君・エドワード様の工房へ入った。

 森に逃れて無事だったアデルは、夫を殺され、復讐心に燃えて、弓の弦にするため、美しい髪を切った。

 第二騎士団の副官は怯えていたけれど、他の騎士たちは城の財宝を集めて、その前で笑っていた。

『ハロルド王、万歳!』

 賢明なウィリアム王はすでに殺され、悪辣なハロルドが王となっていた。

 オーレンクスの人と大地を蹂躙して、やつらは笑っていたんだ!

 降参したオーレンクスの人びとの前で、ヘンリーはイレーネ様と結婚式を挙げ、新しい侯爵として、税を二倍に上げると宣言した。そして、ハルバと騎士団の連中の略奪から免れていたすべてのもの、次の畑仕事のための種もみまで持っていってしまう。陸路で、荷車が列を作って出て行く。

「これが、おまえの引き起こしたことだ」

 違う。違うんだ! そんなつもりじゃなかった。俺はただ……。

「トム・ホープは殺すべきでしょう」

 死の大天使がいたら、こんな姿をしているだろう。リチャード・アダムスが静かに言った。

「いや。あたしはもう、領民が死ぬのは見たくない。これでも、うちの民だからね」

 アンナ様が疲れたように応えた。

『ハルバの武器ってのは、すごいじゃねえか!』

 水晶玉から、エドワード様の笑い声が聞こえた。

 この方は、天才だった。ハルバの武器を手に入れると、たちまち同じ物を作り上げた。

 反転攻勢が始まる。

 オリガをはじめとするヴァイエンドルフの女たちは、手始めに、初夜のベッドでイレーネ様を凌辱しようと待っていたヘンリーを去勢して、監禁した。そして城にいた側近どもを誘惑してベッドで殺した。

 このとき、アルタートンは結婚証明書を持って王都のハロルド王の許へ行っていたので、いなかった。

 城の者と領民たちは、二人一組になってハルバの兵と王国の騎士を一人になったところを見計らって、殺していった。

 合言葉は、『ハロルドに死を。ハルバを許すな』

 そして、ユーリが率いるヴァイエンドルフの本隊とリチャード・アダムスが侯爵夫妻とジョージの遺体を伴って帰還した。

 遅くなったのは、ハロルドの息がかかった近衛隊に邪魔されたからだ。そいつらの始末もあって、早く帰って来られなかったらしい。近衛では、一小隊分の人数が行方不明となった。

 ユーリ・ヴァイエンドルフが帰って来てまずやったことは、ベネディクト・アダムスを殺した近衛騎士と対峙して、一閃でその首を刎ねたことだ。

 抵抗する騎士やハルバの兵には、エドワード様が作った火砲の玉が浴びせられた。

 港では、ハルバの本国に送られるはずだった奴隷たちが解放されていた。港の住人と無傷だった森の民たち、そしてヴァイエンドルフが管理する鉱山の人びとの協力によってだった。

 これでヘンリーは、狂った第二騎士団の副官以外の配下をすべて失ったのだった。

「ヘンリー・サザランドを殺すのはたやすい。けれども、ハロルド王が反乱とこれを決めつけて、オーレンクスを討とうとすれば、多くの民を失ったあたしたちに勝ち目はない。今度こそ、虐殺されるだろう。一方で、ヘンリーは自分が負けたことを王に知られたくないようだ。それで、あたしたちは、共存するよう、密約を交わした。『表向きはオーレンクス侯爵をヘンリーが名乗り、ハロルド王が言う二倍の税を払う。だが、領民に手を出したときには、我々は蜂起する』と。ヘンリーは、これを飲んだ。それで、代官として、アルタートンを呼びたいそうだ。サザランドの兵五十人と共に。最初、五百人とぬかしたのを、減らしたんだけどねえ」

 と、アンナ様が皮肉っぽく口の端を上げた。

「で、サザランド伯爵への使いを、あんたにやってもらいたい」

「俺?」

「裏切ったら、その場で殺す」

 殺気を込めて見つめるリチャードに、俺は答えた。

「かまいません。やらせてください」

 もう自分の命なんざ、どうでもよかった。

 俺は体力が戻ると、サザランド伯爵の許へ従者に化けたヴァイエンドルフの騎士と共に、ヘンリーの手紙を届けた。

 驚いたことに、御者をしていた俺を誰も覚えておらず、ヘンリーの従者だと思っていたことだ。これがアンナ様の使う幻術だと知るのは、後のことだった。

 アルタートンは、五十人の兵と共にオーレンクス領にやってきた。ヘンリーから代官に指名され、ヘンリーが隣領の男爵の屋敷に引っ越して、オーレンクス領を見張るようになると、アルタートンがまず代官としてやったことは、オリガ・ヴァイエンドルフを街の広場で鞭打つことだった。

 領民たちが、怒りの目で見ている前で、背中を血だらけにしたオリガは、「夫の苦しみと悔しさに比べると、たいしたことはない」と言い放ち、駆け寄った親戚の女たちの手で連れて行かれた。

「ヘンリー様に逆らった者は、皆こうなる。覚えておけ!」

 アルタートンは脅したつもりだったろうが、反感を買っただけだった。住民を殺すことは、ヘンリーに止められていたので、これ以上のことはできなかったのだ。

 アルタートンは税を徴収してハロルドの許に送ることを役目としていただけでなく、姿を消したイレーネ様をヘンリーの所へ連れて行くことも命じられていた。

 戦乱のあと、飢餓が来た。野草を食べ尽くすほどの飢えの中で、老人と子どもが次々と死んでいく。それでも、アルタートンは何もしなかった。

 故郷の様子を知ったリチャード・アダムスの姉、ハールーンの第三王妃によって、密かに食糧が届けられ、何とかその苦境を乗り切った。

「みんなを救うためなら、俺は悪魔に魂だって売ってやる!」

 エドワード様が、武器を作って他国に売ることを主張した。

 背に腹は代えられず、家宰の地位を継いだリチャードは、ハルバに脅かされている国と取引を始めた。

 そんなときだ。イレーネ様の居場所がばれたのは。

 アルタートンがサザランドから連れて来た従者が、赤ん坊の泣き声がすると、告げた。城中を密かに見回っていたアルタートンは、ある日、礼拝所に人が集まっているのを知った。そっと近寄ると、洗礼式が行われたところだった。

 いきなりそこへ乱入したアルタートンは、赤ん坊を取り上げ、人質にした。

「イレーネ様、来ていただこう」

「見つかったのなら、仕方ありません。でも、その子を放して」

「あなたの子か? では、ヘンリー様の御子。オーレンクスの継承者なら、一緒に来ていただかねばなりません」

 イレーネ様は絶望したかのような顔をし、傍らにいたリチャードは視線だけで人を殺すような表情をしたが、アルタートンは気にせず、赤ん坊を連れ出した。

「荒ぶる神ルーキンと違って、女神レダは慈愛の神ですが、我が子が害されるとなれば、戦うこともいとわないでしょう」

 その場にいたサミュエル様の叔父の司祭さまがつぶやいた。

 この方は、のちに教皇まで上られて、ハルバと戦う聖騎士団を作られたのだった。

 こうして、イレーネ様と娘のオーレリア様は連絡を受けたヘンリーによって、王都へ連れ去られた。その際、信頼できる者たちを使用人としてアダムスは同行させたが。

「あんたを、自由にさせすぎたね」

 ヘンリーが行ってしまってから、アンナ様はアルタートンに幻術をかけた。

 オーレンクス領に残ったサザランドの兵はヴァイエンドルフたちによって始末され、アルタートンは代官として立派に務めている幸せな夢を見続けている。

 その後、アルタートンの代わりに、リチャード・アダムスが偽りの報告書をヘンリーに出していた。

 ヘンリーは領地に一度も来ない。自分たちの利益を受け取ることができれば、気にしないようだ。

 リチャード・アダムスのその後の手腕は凄かった。

 密かに武器を売るだけでなく、鉱山の鉄鉱石の産出量の報告を誤魔化して密貿易で稼ぎ、農地が回復する間、それで領民を食わせ、重税を払った。肥料と耕作物を工夫して収穫量を上げ、三年めから税を払ってもなお、利益が出るようにした。エドワード様の作る物と発明品で売れる物は売りさばき、王国が通商していない国とも取引し、領地の境に壁を造って、王国からの攻撃に備えた。

 しかし十年後、イレーネ様は病で亡くなり、遺体となって領地へ戻って来た。

 リチャードにとって、生きる希望はオーレリア様だけとなった。

 オーレリア様は、成人すると共に、ヘンリーの甥・パトリックと結婚することになった。だがその前に、ヴァイエンドルフの縁者の護衛騎士と駆け落ちし、すぐに連れ戻された。そして、パトリックと結婚させられた。

 オーレリア様はシルヴィア様を産み、シルヴィア様が六歳になったとき、王国と戦う力を蓄えたオーレンクスは、母子を連れ戻す準備を始めた。

 俺は、アルタートンからの使いとして王都にいるヘンリーの許へ往復していたが、姿形を変え、王都の屋敷に潜入し、連絡係となった。そのころ、王都の屋敷にはヘンリーの手の者が入り込み、誰が敵か味方か、分からなかったからだ。

 そしてヘンリーが死んですぐ、ハロルド王が死に、オーレリア様も病死される。

 このことで、さすがのリチャードも判断が鈍ったのか、行動が遅れた。

 オーレリア様の遺体が領地に帰って来たとき、すでにパトリックは書類上、愛人のイザベラを正妻とし、娘のエミリアを正式な自分の後継者としていた。そして、ハロルドの息子のエドガル王は、シルヴィア様をライオス王太子の婚約者とした。

 これで、オーレンクスはシルヴィア様を連れ戻すことができなくなってしまった。

 イザベラが正妻となったことで、シルヴィア様は俺の住む小屋に押し込められ、使用人以下の生活を強いられた。

 俺はアダムスと連絡を取りながら、シルヴィア様に一人でも生きていけられるよう手立てを教えた。だが、そうしているうち、前からいた使用人と同じく、俺も屋敷を追い出されてしまった。

 連絡役として、下町に暮らしながら侯爵邸を探っているうち、シルヴィア様が王太子から婚約破棄され、いわれのない罪で処刑されることになった。しかし、その前にシルヴィア様は自殺したということで、血まみれの遺体が処刑場にさらされた。オーレンクスの継承者は、まるで関係ないエミリアという娘であるとされ、王太子の婚約者となって――。

 いや、そうじゃない。

 オーレリア様とシルヴィア様は、生きていなさるじゃないか。

 リチャード・アダムスが正式にオーレンクス侯爵と世間に認められ、人質だった娘のオーレリア様は領地に帰って来ることができた。

 役目を終えた俺も故郷に戻り、死んでいった者たちの冥福を祈りながら、穏やかに残りの日々を過ごすのみだ。








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