(2)
二日後の午後、母は医師を呼び、もう一度シルヴィアを診てもらった。
「ジェイコブ先生、どうでしょうか?」
心配して尋ねる母へ、医師は温かな笑みを向けた。
「お転婆なことをしなければ、もうベッドから出ても良いですよ」
……そうだったわ。お母さまが亡くなってから苛められていたので、逆らわないよう息を潜めていた。そのため、表情を変えない、内気で臆病な性格になってしまったけれど、もともとの私は活発な子だったのよ。
シルヴィアは少しずつ思い出した。
「ねえ、先生。お母さまは診なくてもいいの?」
と、そこで、シルヴィアは六歳児らしく無邪気に訊いた。
「おや、お母さまの心配かい? 大丈夫、お母さまはどこも悪いところのない健康体だよ」
「よかったあ」
喜んだ顔をしながら、シルヴィアは思う。
では、いつからお母さまは病気になったの? そういえば、記憶の中のお医者さまはこんなに年取ってはいなかった……。
「まあ、ヴィア。心配してくれて、ありがとう」
にこりとしたオーレリアは、医師に向かって言う。
「先生、娘の診察をありがとうございます。来ていただいたついでと言っては申し訳ありませんが、昨日から家政婦のマーシャル夫人も具合を悪くしておりまして、彼女も診ていただけませんでしょうか」
「おう。それはいけませんな。さっそく行きましょう」
診療カバンを持ったジェイコブ医師は、行きかけてシルヴィアを振り返る。
「元気になったからといって、木登りはいけませんぞ。乗馬の練習も来週からならいいですよ」
と、ウインクし、母と一緒に出て行った。
「ねえ、リタ。着替えたいの」
「はい、お嬢さま」
部屋の隅に控えていたリタが黒いドレスを持って来る。
「今日も黒い服なの?」
六歳のいつに巻き戻ったか分からなかったシルヴィアは、リタにかまをかけてみた。
「侯爵さま……お嬢さまのおじいさまが急死されて、まだ三か月ですもの。たまの気晴らしで乗馬の練習をしたら落馬なんて、ついていませんでしたね」
リタは十二歳のときから三年、シルヴィアの側にいるので、ときどき遠慮のない口調になる。
「そうね」
黒いドレスに寝間着から着替え、髪をとかしてもらったシルヴィアは、ドアを開けて部屋の外に出た。
……ヘンリーおじいさまが亡くなってから三か月後。おじいさまは長く宰相を務めて、この国はおじいさまでもっていると言われていたわ。もっとも、その一方で、権力欲が強く、敵も多かった。病死とされたけれど、毒殺だったという噂もあるわね。亡くなったのも王城の執務室だったし。
王宮にいることが多かった祖父のヘンリーとは、めったに顔を合わせることがなく、たまに帰って来た祖父に挨拶しても、虫けらを見るような冷たい目を向けられるだけだった。祖父は、母に対しても、『お父さま』とは呼ばせず、『閣下』と言わせて召使のように扱った。
だから、代々侯爵家に仕えていた使用人たちには評判が悪かった。もっとも、彼らもそれを祖父の前で態度に現すことはなかった。祖父のほうも使用人の感情など気に掛ける人ではなく、仕事ができれば、何も言わなかった。
シルヴィアは、リタをお供に図書室へ向かった。
「お嬢さま、お元気になられたのですね」
途中で、従僕のリカルドに出会った。さらりとした金髪を後ろで一つにまとめ、緑色の瞳をした青年だった。この容姿なので女性にもて、何人もの相手と付き合っていた。
リカルドは執事のバートラムの甥で、バートラムは自分の後任に育てたいようだった。けれども、前世ではこの一年後に、爵位を継いだシルヴィアの父のパトリックによって解雇されている。
……屋敷から追い出されたあと、みんなはどうなったのかしら。お父さまとイザベラに追従する召使ばかりになって、誰も私に話なんてしてくれなくて、さっぱりわからなくなってしまったけれど。
「たいしたことなかったの」
懐かしい想いを胸の奥に押し込め、シルヴィアは答えた。
「それは良かったです」
リカルドが右手を胸に当て、にっこりした。
「これから、どちらへ?」
「本を読みたいの」
図書室へ行って、これから為すべきことの参考になりそうな本を捜したかった。
「そうですか。でも、今日は早めに切り上げてくださいね。先ほど奥さまにもお伝えしましたが、旦那さまがお戻りになり、夕食をご一緒なさるそうです」
……あのクズが?
淑女にあるまじき悪態を心の中で吐いてしまった。
「わかったわ」
シルヴィアはそう答え、廊下を歩いて行った。
三階にある図書室へ向かう途中の廊下の壁には、歴代の侯爵家当主とその正妻の肖像画が掛かっている。
建国に貢献した初代侯爵は淡い金髪で、瞳は灰青色だった。妻は茶色の髪に同じ色の瞳をしている。あとは、当主も茶色や赤の頭髪でさまざまだったが、曾祖母のアレクサンドラからイレーネ、オーレリア、そしてシルヴィアと続いて銀髪で紫の瞳だった。夫たちはみな金髪で、色の濃淡はあっても青い瞳をしている。そして、アレクサンドラとその夫が馬車の事故で娘のイレーネが結婚する一か月前に亡くなっている以外は、祖母・イレーネ、前世の母・オーレリアは共に若くして病死している。
……願いを叶える紅玉の首飾りを持っていても、王家の血を引く女性たちは短命ね。どうして?
暗殺――という可能性がシルヴィアの頭に浮かんだ。否定はできなかった。
愛し合う相手と結婚したアレクサンドラは肖像画を見ても幸せそうだったが、娘のイレーネは影が薄く、暗い。
十五歳で社交界デビューをし、夜会などに出ると、シルヴィアにくだらないことをわざわざ教えてくれる人もいる。
祖母イレーネはサザランド伯爵の次男ヘンリーに乱暴されかけ、その醜聞をもみ消すために婿に迎えたのだと。曾祖父が激怒して許さなかったが、馬車の事故で死亡したため、王命で結婚が成立したのだ。ヘンリーは王家に多額の献金をしたとか、秘密を握っているとか噂されたが、侯爵そして宰相となったヘンリーは敵を密かに葬っていったので、真実は闇の中だ。
オーレリアの夫になったのは、ヘンリーの甥のパトリックだ。ヘンリーは甥を婿に迎えて、侯爵家の実権を握り続けようとした。だから、相続権を持つ娘のシルヴィアが生まれると、愛人の許に入り浸る甥を咎めることもしなかった。
……おばあさまはどうか分からないけれど、お母さまは毒殺の可能性があるわね。でも、毒を使うなら、どうやって?
使用人はみな身許がしっかりしていて、長年勤めている者ばかりだ。
……家族を人質にとられて、または弱みをにぎられて、なんてこともあるわね。ともかく油断しないことだわ。
図書室へ行ったシルヴィアは、歴史の本と毒に関する本を読みあさった。
そうしているうちに晩餐の時間が近づいてきたようだ。リタにうながされ、自分の部屋へ戻ったシルヴィアは晩餐用に別の黒いドレスに着替え、二階にある家族用の食堂へ行った。
そこには母が先にいて、主の席の右隣に立っていた。シルヴィアはその横に行く。
従僕が杖でドアを叩き、「侯爵さまがおいででございます」と頭を下げる。その前を、喪服を着た父のパトリックが通り過ぎ、主座に着いた。
父が席に着くと、母とシルヴィアも椅子に座った。
「昨日、正式に私が侯爵となった。義父と同じように、これからは『閣下』と呼ぶように」
挨拶もなく、いきなり父はそう言った。
「……はい。かしこまりました」
母は目を伏せ、答えた。反論すれば、暴力を振るわれるのがわかっているからだ。
パトリックは現在、二十四歳。十代の頃から女性関係が派手で、今も愛人のイザベラの他に女がいるという噂だ。ハンサムで、もてるのだが、美食に過食、日ごろの不摂生からか、少しずつ太り始めている。肌も荒れていた。
……今見ると、こんなクズを恐れていたなんて。
父はシルヴィアを無視して食事を始めた。
シルヴィアも、この父をどうやって出し抜こうかと、そればかりを考えていた。