(25)
「団長さま、薔薇の花をありがとうございます」
「どういたしまして。庭のものなんだ。亡くなった母が好きでね」
フィリップがこちらを向いて、にこりとする。
……会話だけ聞いたら、若い男女のものだけれど、手をつないでいるこの格好では、若い父親と娘、もしくは叔父さんと姪っ子ね。
壁際にぽつりぽつりと蝋燭の明かりが灯された廊下を、フィリップは六歳のシルヴィアの歩幅に合わせて、ゆっくり歩いてくれている。
「だっこしようか?」
「知り合って間もない方に、そんなことしてほしくありません」
つーん、とシルヴィアは横を向いた。
フィリップは、くすりと笑った。
「レディ・シルヴィア。僕は本気だよ。君が王家に嫁ぐのが嫌だっていうのなら、僕は家も家族も捨てよう。オーレンクスに婿入りしてもいいし、全部捨てて、二人で世界中を旅するのもいいね」
「どうして、そこまで……」
〝すべてを捨てる〟というフィリップに驚き、シルヴィアは彼を見た。
フィリップは、柔らかく微笑んでいる。
……調子が狂うわ。
シルヴィアはフィリップから目を逸らした。
頬が熱い。
軽い人だと思っていたのに、そんな包み込むような、愛しむような顔をするなんて、ずるい、と思った。
こんな会話を交わしていると、前方でワゴンに食器を載せる音がした。
「兄上の夕食か?」
ワゴンの傍らにいた侍女にフィリップが訊く。
「はい」
と、侍女はスカートをつまみ上げて頭を下げ、答えた。
「スープ以外、手をつけていらっしゃいません」
「そうか……今日もか」
侍女は一礼して下がった。
フィリップは、侍女が出て来た部屋の扉をノックし、返事も待たずにそこを開けて中へ入った。
「兄上、僕です」
燭台の明かりが幾つもつけられているが、部屋の中は食堂より薄暗い。その中央にある四柱式のベッドには帳が下ろされていて、紗で出来たそれの向こうで影が動いた。
「フィリップか。今夜は泊まっていけるのかい?」
「いえ、また本部に戻らねばなりません。その前に、兄上の顔を拝見しようと」
と、フィリップは天蓋から垂らされた帳を開けた。
そこには積んだ枕に背をもたせかけ、半身を起こしているジュリアスがいた。
長い金髪を背に垂らし、瞳は春の空のようで、きゃしゃな身体つきから、白い寝間着姿だと女性のようにも見える。
「それから、兄上に小さなお客様です。こちらは、レディ・シルヴィア・エル・オーレンクス」
フィリップは、シルヴィアを兄の枕元へ押し出した。
「初めまして……じゃなくて、ごきげんよう?」
いきなりジュリアスを目前にして、シルヴィアは混乱してしまった。
「おもしろいお嬢さんだね。昨日も今日も会ってるよ。でも話すのは初めて……かな?」
ジュリアスが、くすくす笑う。
「殿下を始め、皆さまのお心遣いで、気持ちよく過ごさせていただいております」
シルヴィアは、カーテシーをした。
「小さいのに、難しい言葉を知っているんだね」
シルヴィアへ微笑みかけ、ジュリアスは弟に訊いた。
「どうして、彼女が?」
「お見舞いをしたいと言うので」
「それは、ありがとう」
ジュリアスは再び、シルヴィアに目を向ける。
「いつものことなんだ。身体に力が入らなくて、どこかが痛む。食べ物の味もろくにしなくて、砂を噛むようだ。ずっとこんな状態なら、死んでもかまわないかな、と思う」
「兄上……」
フィリップが悲しげな顔をする。
「わかっているよ。こんな私でも、おまえと父上が必要としてくれていると。でも、苦しくて」
「あのう……それは、いつから?」
シルヴィアが訊くと、ジュリアスは弟から視線を再び戻した。
「二十三年前……五歳だったかな。母上は領地でフィルを産んだので、そこにいたんだ。父上が王都より、田舎の領地がいいって、侍医と共に行かせた。予感があったんだろうか。祖父のウィリアム王の葬儀が終わったあと、父と私は毒殺されかけた。毒を盛ったのは、父の側近と私の世話係の侍女だ。二人とも、家族を人質に取られていて、その場で自殺したよ。彼らの家族も、死体で見つかった。赤ん坊のフィルを乳母や家臣たちにまかせて王都へ戻って来た母上は、療養中で、ベッドの上で身動きできない父上を暗殺者から護って、亡くなった。伯父上は、よほど私たちが邪魔だったのだろう。悪夢のようだった。けれども、父上と私が不自由な身体になったことや、跡継ぎのエドガル王子が生まれたことで、それ以上のことは仕掛けてこなかった……」
「ごめんなさい。つらいことを思い出させてしまって……」
シルヴィアは、上掛けの上に出ていたジュリアスの手を、両手を伸ばして握った。
……ハロルド、エドガル。ライオス王子の祖父と父親は、ろくでもないわね。もっとも、血はつながっていなかったわけだけど。
シルヴィアは目をつむり、大公にしたように、ジュリアスの身体の中を診てみた。
黒いものの浸食は大公よりひどく、顔の辺り以外は、全身真っ黒だ。
シルヴィアは一気にではなく、部分に分けて、それを散らすことにした。
まず、頭。
……散れ!
パンと、黒いのが消え、光が見えた。
次に胴。両腕。両足。黒いものを祓い、身体に光が循環するのをイメージする。
しかし大公と違い、黒いものが再びジュリアスに戻ろうとする。
……しつこいわね。子どもの頃からだから?
『毒だけじゃないわ。呪いもかけられているわね。うちの子に何てことしてくれるのよ!』
レイラ様の声が頭の中で響き、光の奔流がそれに襲いかかって、黒いものと一緒に消えた。
「ハルバ……なの?」
そんな感じがし、遠くで術師の断末魔の叫びが聞こえた気がした。
「シルヴィア……これは……」
フィリップが絶句している。
目を開けると、シルヴィアは自分の全身が光っているのを知った。けれども、それもすぐに消え、手を放せば、ジュリアスが呆然として両手を上げ、それを交互に見つめている。
「なに……したの。小さなレディ」
と、ジュリアスは次にフィリップに目をやる。
「この子は、何者? 宝物庫のときみたいに光ったよね。すごいよ! 身体が軽い。痛みもだるさもない。こんな清々しい気分になったのは、初めてだ! 今にも踊り出したいくらいだよ!」
ははは、と笑い出し、その場で踊るようなしぐさを見せる兄を目の当たりして、信じられないといった顔をしたフィリップがシルヴィアに訊こうと口を開く。
それより早く、ベッドによじ登ったシルヴィアが、ジュリアスの目の前で、パンと両手を叩いた。
「しっかりしなさい! ジュリアス・ゼノヴァン。あなたの身体の中にあった悪いものを追い出したの。でも、丈夫になったわけではないわ。食べて寝て、動いて、身体を作らなくちゃだめ!」
「私はどうして、こんな小さな子に説教されているんだろう」
目を丸くしたジュリアスがフィリップに言う。
「失礼、レディ・シルヴィア」
と、フィリップはシルヴィアの両脇に手を差し入れ、抱き上げてベッドから降ろした。
「どういうことか、説明してくれるね」
笑顔が怖い。
怒ってる?
「えーっと」
まずいわ、と思ったけれど、目の前でやってしまったことを隠し通すことなど出来ないと観念した。
「宝物庫に入ったとき、レイラ様と会っただけでなく、治癒の力をいただいたの。でも、二回分だけよ?」
これは、嘘。
「他の人にばれると、変な期待を持たれてしまうのも嫌なの。だから、ジュリアス様、まだ具合の悪いふりをして? ゆっくり治っていったように見せてね」
と、かわいく首をかしげてお願いした。
「うっ」
ジュリアスが頬を染め、フィリップは横を向いて何かつぶやいている。
「君が成人していたら、求婚したのにな」
ジュリアスが言うと、
「僕はもう、した」
フィリップが答える。
「ええっ?」
「だが、父君に断られた。とはいえ、完全に希望が断ち切られたわけではない。彼女にふさわしい男になったら、再び求婚するつもりだ」
「しつこいのは、嫌われるわよ」
ふん、と鼻で笑い飛ばしながら、シルヴィアの頬が熱い。
「でもフィル、ハロルド王が決めた婚約者がいたよね?」
「彼女はとっくに恋人と逃げたさ。伯爵家では病死としたようだ。でも、それで良かったのかもしれない。あの家は、伯父上の悪事に加担していたので、昨日、当主が逮捕された。もう終わりだ」
……うわあ。なんだか、いろんなところに影響があるわね。
時戻りをしたら、物事がシルヴィアの予想もしないほうへ転がっていくようだ。
「二回というと、私以外には……」
「そうか、さっき父上の膝に触ったのが、それだな?」
ジュリアスの問いに、フィリップが答えを導き出す。
「そう、これで終わりよ」
シルヴィアは、フィリップの結論に便乗した。
「大公のおじさまには、ゆっくりと治ったふりをして、とお願いしたけれど――今のジュリアス様のように、嬉しくなって、そんなことは出来ないかも。だったら、レイラ様の宝物庫に入ったとき、祝福を授けられたと言えばいいわね。機能回復訓練は必要だけど」
「騎士団附属の病院に、良い訓練士がいる。父と兄の許に寄越してくれるか、聞いてみよう。身体が回復した口裏合わせは、僕がやっておくよ」
「そうしてくださると、嬉しいわ」
と、用事が済んだとばかりに、シルヴィアが踵を返し、出て行こうとする。
「レディ、その前に」
と、フィリップが回り込む。
「秘密を共有したことで、せっかく親しくなれたのだから、僕のことは、フィルと呼んで欲しいな」
「大公殿下のご子息に対して、失礼なのでは?」
「僕がいいと言っているので、問題ない」
と、にこりとする。
呼ばなければ、通してくれなさそうだった。
「フィル……さま?」
「それでいい」
答えたフィリップは、いきなりシルヴィアを抱き上げた。
「親しくなったから、もうだっこしてもいいね」
シルヴィアに言ったフィリップは、兄のジュリアスへ声を掛けた。
「では、兄上。よい夢を」
「ああ、今夜はぐっすり眠れそうだ」
……それはいいことだけど、私はどうなるのー。
意外と腹黒かも、とシルヴィアはフィリップに対する印象を改めた。




