(13)
リタが連れて行かれると、シルヴィアは母の寝室へ駆けた。
そこではメイドたちが汚れたシーツを取り換え、母の寝間着も着替えさせていた。しかし、吐しゃ物のすえた匂いがする。
「お母さま……」
オーレリアは血の気のない顔をして、目を閉じていた。
……お母さまが死んだら、どうしよう。前の時はゆっくり衰弱していったわ。だから飲んだのは即効性の毒ではないと思うのだけれど、実のお父さまと会えたりして、前と違っているから、お母さまのこともどうなるかわからないし――。
不安で胸が締め付けられていると、後ろからアリサがそっと言った。
「お嬢さま。まずは着替えて、何か食べましょう。奥さまがお目覚めになって、お嬢さまの具合が悪いと心配なさいますよ」
「そうね……」
アリサの言う通りだと思い、シルヴィアは自分の部屋へ戻り、アリサに手伝ってもらって黒いドレスに着替え、顔を洗って身支度を整えた。朝食も部屋で摂ったのだが、食欲がなく、食べ物が喉を通らない。だから、温かいミルクだけを飲んだ。
階下で慌ただしく人が動く気配がした。廊下へ出ると、ジュイコブ先生が母の寝室へ入って行った。
「先生……」
診察をする医師の後ろからシルヴィアは声を掛けた。
「ああ、シルヴィアお嬢さま」
医師が振り返った。
「お母さまは大丈夫だよ。すぐに吐き出したのが良かったね」
と、にこりとする。そして側にいたメイド長のエッダへ、「水分を多く摂らせるように。飲み物とかスープで。まずは、喉越しの良いものを」と、指示している。
「お嬢さま、ヴァイエンドルフが、話があるそうです」
と、執事のバートラムが言う。
シルヴィアは廊下へ出た。
「お嬢さま、誠に申し訳ありません。まさか、リタがこんなことをするなんて想像もできませんでした。お嬢さまはどうして、すぐにお分かりになったのですか?」
「バートラムに紹介者のリストを作ってもらったから、そこから考えたの」
「リストのことは何故、作らせようと?」
今度は、バートラムが訊く。
「勘かしら?」
と、シルヴィアはとぼけた。
……まさか前世の出来事から推測したとは言えないわ。
「そうですか。さすが、侯爵家の継承者」
ヴァイエンドルフは素直に感心している。
「ところでマーシャル夫人とドリーも毒で倒れ、上級の使用人は手が足らず、皆が不安がっています。今、新しい使用人を入れるのは危険だと思います。そこで、私の妻のリリアが奥さまの看護をお手伝いしたいと申し出ています。妻なら護身術の心得もありますので、良いかと。許可をいただけないでしょうか」
「あなたの奥さんなら、心強いわ。お願いします。でも、小さいお子さんがいらっしゃると……」
「息子のイリアスは九歳です。一人でも大丈夫かと」
「だめよ。その子もこちらへ連れていらっしゃい。部屋を与えて、バートラム。自由にさせるといいわ」
「こちらに来るのなら、遊ばせておいてはいけません。我がヴァイエンドルフの後継として、お嬢さまのお側にお仕えさせてください」
「いいでしょう」
警備責任者の言葉に、シルヴィアはうなずいた。
「では、そのようにいたしますが……お嬢さま、急に大人びてしまわれましたね」
バートラムが不審の目を向けるのが分かる。
「いずれ、あなたたちに話すことにするけれど、今は黙って見過ごしてね」
そう言うと、二人は「御心のままに」と女王に対するような、うやうやしい辞儀をした。
そして、ジェイコブ医師が処置をして帰って行ってしばらくすると、母が目を開けた。
「お母さま」
ほっとしたシルヴィアは、母の手を握る。それは、とても冷たかったが、オーレリアが微笑みを向けたので、シルヴィアの不安はどこかへ吹き飛んでいった。
とはいえ、その日は悪い事が重なるようだ。
玄関で言い争う声が、二階まで聞こえてきた。
「見てきます」
と、シルヴィアは廊下へ出た。そこに従僕のダニエルがいる。
「行かないほうがいいですよ。侯爵がガラの悪いのを十人ほど連れてきているんです」
……あいつが。
シルヴィアの頭に血が上った。
「行きます。お母さまが倒れた今、ここの女主人は私です。ついてらっしゃい、ダニエル」
ダニエルは目を見張ったが、シルヴィアの命令に従った。
中央階段まで行き、下を見ると、玄関ホールの両開きのドアの所で、執事のバートラムがパトリックとその護衛の男たちを中へ入れないよう説得し、彼の後ろでヴァイエンドルフと五人の護衛騎士が横一列になって、阻止しようと立っている。
シルヴィアは優雅な足取りで、階段を真ん中辺りまで降りて行った。
一番始めに彼女に気づいたのは、パトリックだった。
「来たか、小娘。オーレリアの所へ案内しろ。倒れたと聞いて、医者を連れて来たぞ」
パトリックの横には、額の広い三十代ほどの男が茶色いジャケットを着て、黒い鞄を持ち、きょろきょろと辺りを見回していた。
……あいつだわ。
母を前世で殺した医者。
「ヴァイエンドルフ、あの医者を拘束して。おそらく毒を持っているわ」
「な、なにを」
医者らしき男がうろたえる。
「させるかよ!」
横にいたパトリックの護衛の男が叫んで、前に出た。
「何を言うか、小娘! ここは私の屋敷、私こそがオーレンクス侯爵だぞ!」
「笑わせないで」
シルヴィアは笑みを顔に貼り付かせ、ゆっくりとした足取りで階段を降りてゆく。
「あなたが侯爵? 誰が決めたの」
「国王陛下だ」
パトリックが威張る。
「それがどうしたの? オーレンクスの正統な後継者は私。侯爵家の権限は、母と私から発生するの。あなたはお呼びではないのよ、パトリック・サザランド。この家から出て行きなさい!」
「なんだと、この……」
「おだまり!」
シルヴィアの気迫に、一瞬、辺りが静かになった。
「ヴァイエンドルフ、この連中を叩き出しなさい」
「御意」
うなずいた警備責任者と護衛騎士たちが、嬉々として招かれざる客へ襲い掛かる。
「上等だあ!」
と、パトリックの連れて来た男たちも応戦し、乱闘が始まった。
その間を縫って、パトリックがシルヴィアに向かって突進してくる。
ダニエルが前に出るが殴られ、よろめいたところで、パトリックがシルヴィアの腕を掴もうとした。
そのとき、短剣がパトリックの右腕に刺さる。
「うわあああっ」
のけぞって、階段を転げ落ちるパトリック。
「おもしれェことになってるな! どっかで見たツラぁばっかじゃねえか!」
父のアルフレッドが部下を引き連れて、玄関のドアからなだれ込んで来た。
わるーい顔をしている。
「第三騎士団の地獄の番犬!」
「狂犬アルフレッドだあ!」
パトリックの護衛たちが、たちまち逃げ腰になった。どいつも脛に傷を持つ身だったらしい。
……お父さまったら、どんな二つ名?
これは母に言えないだろうな、と思っているうちに、パトリックと医者、そして護衛のならず者たちは捕縛されていった。
「ご協力、感謝いたします」
と、父がヴァイエンドルフと握手を交わしている。
「放せ! 私はオーレンクス侯爵だ。無礼をすると、どうなるか分かっているんだろうな!」
騎士たちに引きずられながら、パトリックがわめいて暴れている。
そこへ、表の車寄せに馬車が停まった。御者が扉を開くと、中から黒いインバネス・コートを着た男性が降りてきた。
「これは、なんの騒ぎだね?」
深い響きの声で言ったその人は、銀髪で怜悧な容貌をしており、灰色の瞳の目をすがめた。
纏う重厚な雰囲気から、魔王が降臨したかのようだった。




