手芸用品で大儲けする異世界転生
ピース・ワークが前世の記憶をとりもどし、異世界転生したことに気付いたのは、ある朝のことだった。
子爵令嬢である彼女は、その日が陛下に謁見するデビューの日だった。生まれて初めて領地を出、都へ滞在していたピースは、自分に課せられた使命の為に、心臓が破裂しそうに緊張していた。
ワーク家は子爵位をもっているといえ、借財が多い。はっきりいって身代は傾いており、楽な暮らしではなかった。
デビューの為に必要なものも、ほとんどすべてが姉のクラフトやニードルのお下がりだ。なかには、叔母のノッティングからもらったものもある。それらをどうにか見られるものに、みんなが協力して、直してくれた。
親族の女性達はみな一様に優しく、はやくに母のパッチを亡くしたピースが、その為にデビューではじをかかないようにと、心を砕いてくれているのだ。遠縁のオヤ家のイーネやボンジュック、レース家のボビンやタンボアも手をかしてくれて、きちんとしたガウンやアクセサリを用意できた。
ピースはだから、絶対にデビューを華々しいものにし、それなりの位の男性の目にとまることを目標にしていた。家族親族がここまでしてくれたのだ。それを無駄にはできない。結婚によって、ワーク家の苦境をどうにかしなくてはならない。
姉ふたりはすでにデビューを終え、美人姉妹で通っている。自分も、姉達ほどではないが、それなりに見られる外見だとピースは考えていた。少なくとも、結婚できないほどの不器量さではない。こちらが外見で選り好みしなければ、すぐにでも話はまとまるだろう。
なんとか、お金持ちの男性を捕まえる。この際、相手は貴族でなくてもいい。商人というのは卑しいといわれているが、ピースはそうは思っていない。
彼女は貴族令嬢らしくなく自分で繕いものなどしたので、その材料を売りに来る商人達を見たこともあった。ワーク家は僻地に領があり、ピースはそこで育ったので、都に居るような大商人ではなくて、行商人が荷を担いでやってくるのを見ていた。それはあまり、卑しいとも思えない光景だった。
なにしろ、姉達も叔母達も、当たり前に針仕事やあみものをしている。その環境で育ったピースは、そもそも手仕事を卑しいものだとは思っていなかった。だから、荷運びなどしているのを見ても、大変そうだとは思っても、卑しいとかみっともないとは思わない。
それよりも今は、可及的速やかにお金が必要だ。ただ単に身代が傾いているとか、借財が多いなんて、暢気な話ではなくなってしまった。ピースは聴いてしまったのだ。ばかなお父さま! 賭けるものがないからってニードルお姉さまをお嫁にやる約束なんてしてしまって!
彼女は昨夜、今日のデビューに緊張していて、夜半に目を覚ましてしまった。ベッドの上で何度寝返りを打ってもどうしようもなくて、水を飲もうと体を起こしたが、ベッドサイドには水差しがない。それで、化粧着を体にまきつけるみたいにして、部屋を出た。
ゆっくりと廊下をすすみ、ふと、ある部屋から灯がもれているのに気付いた。立て付けの悪くなった戸がきちんと閉まっていないらしい。ピースはそちらへ向かい、そこが、父親がつかっている部屋だと思い出した。
細いすきまを覗くようにすると、室内には父、それにニードルが居た。ニードルは神妙な顔で頷き、釣書を見ている。父は弱り切った様子だった。そして、小さな声が聴こえてきたのだ。ナイフ家のカーヴィングにダイスで負けて、お前を遣ると約束した、と。半年後までに金貨千枚用意できなければ、お前を嫁に出す、と。
父はいいひとだが、悪いところがある。カードや競馬やダイスが大好きで、しかも軒並み弱い。妻や子どもには優しいし、充分な愛情を注いでくれるけれど、それに見合うようなお金を持っていることはなかったし、長女のクラフト以外の娘には新品のドレス一枚融通できなかった。
酒に血道を上げないだけましだというひともあるが、ピースにとってはどちらも同じようなものだった。母も姉妹も、ずっと内職をして、家計を賄っている。クラフトはもう二十五にもなるのに、嫁にもいかず、婿もとらず、家計を預かっている。好きなひとが居るけれど、結婚を申し込んでくれなかったの、と冗談交じりの口調でいうが、それは嘘だとピースは思っている。父がこれ以上、家宝や、明日のパン代を賭けに費やさないように、姉が見張ってくれているのだ。
しっかりしたクラフトの為に、費やす金がないけれど賭けをしたい父は、最後の手段に出た訳だ。彼の所有物のなかで、唯一隠しておくことができない娘を、担保にした。
だからピースは、その朝余計に緊張していたし、吐きそうに気分が悪かった。お金持ちと結婚しなくては、と、追い詰められていた。それをしても、金貨を千枚もぽいと寄越してくれるかはわからない。
金貨千枚といったら、銀貨が五千枚分だ。銀貨二枚で絹の糸玉をひとつ買える。銀貨三枚で質のいい鉄刀木の杼を入手できる。銀貨十枚あれば、象牙の杼だって手にはいった。ピースがのどから手の出るほどほしい、綺麗ながらすのついたまち針だって、上等な陶製の指貫だって、切れ味のいい東国製のはさみだって、金貨千枚もあれば幾らでも手にはいる。
お金持ちの男性が、自分と結婚できるからといってそれだけのお金を払うものなのか、ピースには判断できなかった。だが、それにすがるしか方法がない。子爵令嬢が、ほかにどうやって、自分の自由にできるお金を手にいれるというのだろう?
二回ほど本当に吐いた。古参のメイド達はそれを、ボディスがきつい為だと考えたらしい。直しを提案してくれたが、ピースは断った。
それがよくなかった。実際のところ、ボディスはきつかったようだ。ピースはその晩着る予定のガウンを前に、青息吐息であれやこれや考えていたが、つくりかけの包布を仕上げてしまおうと思い立って、急に向きをかえた。そうしたら、くらくらして、その場に座り込んだ。
そして、ガウンの裾を間近に見た瞬間、そこに施された刺繍、その繊細な手仕事を目の当たりにして、思い出したのだ。前世の自分がなにをしていたかを。
「あのー……」
まさか、令嬢のほうから声をかけてくるとは思っていなかったのだろう。所在なげにクラレットをすすっていた青年は、弾かれたようにピースを見た。
「は。え、ええと、あの、申し訳ありません、俺はあの、無作法で、こんな時にどうしたらいいかわかりません」
素直にそんなことをいう青年に、ピースは微笑んで、小さくお辞儀した。
「わたくし、ピース・ワークといいます。ツール商会の、キットさんですよね」
「ああはい、俺がキットです」
頷いて、キットは居住まいを正した。が、言葉は出てこない。
謁見の間の出入り口近くだ。すでに、陛下への謁見はすませた。ピースはきちんとした白いガウンの裾を、長い手袋をつけた手で、軽く叩く。裾には見事な刺繍が施されているが、それは姉の手になるものだ。
ピースは自分の考えが間違っていなかったことを、この数十分で思い知っていた。貴公子達は彼女をダンスに誘い、お茶にも誘った。なかには公爵家の若さまや、他国の王子なども居て、ピースは精々愛想よくダンスに応じ、けれどお茶には行かなかった。
お金持ちと結婚しても、相手が姉を救ってくれるかどうか、わからない。それでもほかに方法がなければ、それをためすしかない。貴族の女がお金を手にする方法は、結婚しかないからだ。なかには本を書くひとも居るが、自分にはそんな才能はない。
そう考えていた。
だが、もっと確実性のある方法が、彼女の前にぶらさがっていた。
「あの、頼みたいことがあるのだけれど」
「はあ……なにか、ご用命でしょうか。うちは、ドレスや装飾品の商会ではないですよ。そういうもんをつくる為の、道具をつくって、売っていて」
「あなた、わたくしをさらってくださらない?」
にっこり笑うピースに、キットは言葉を失った。
キットは紳士的、かつ理性があり、ふたりは小さなテーブルをはさんでソファに座っていた。彼は、かわりもののご令嬢が、貴族ではない商人が紛れ込んでいるのに興味を持ち、話をしたいのだと判断したらしい。ピースが付添の姉や侍女をまいて、たったひとりで居ることにも気付かないで、ではお茶を飲みましょう、と震える声で提案してくれた。
「あの……それで、ピース嬢」
「ええ」
「さっきのご冗談はともかくですね、俺のような商人と話したところで、楽しいことなんてありゃしませんよ」
「楽しみを求めている訳ではないわ」
「はあ?」
キットは顔をしかめてから、無礼だと思ったのだろう。咳払いし、俯いた。「申し訳ございません」
「かまいません」
ピースは自分がワーク家の三女だと、先程明かした。どうやらキットは、彼女の名前が読み上げられる場面を見ていたようで、驚きはしなかった。
痩せても枯れても、そして身代が傾き、娘のひとりが賭けの賞品にされていても、子爵家は子爵家である。誇りとこれまでの歴史、名誉というものがあり、こういった席では丁重に扱われる。ピースはきちんとしたガウンを身につけ、マナーも完璧だったので、咎められもしなければ、眉をひそめられることもなかった。
今は違う。商人と一緒に座る彼女に、厳しい目を向けるご婦人がたが居た。子爵令嬢が侍女もなしで商人風情とお茶なんて、とんでもない、と。
サンドウィッチなどの軽食が、テーブルには並んでいる。たっぷりはさまれたマヨネーズが、やわらかい灯でてらてらと光っていた。甘そうなビスケットや、ジャムがたっぷり塗りつけられたケーキもある。
「どうぞ、召し上がって」
「はあ」
ピースは紅茶をソーサーへうけ、優雅にすすった。キットは腹をすかしているらしく、サンドウィッチへ手を伸ばすが、ためらいつつ戻す。「わたくし、あなたにさらってもらいたいのよ。端的にいえば、あなたと結婚したいの」
キットは口をあんぐり開け、ピースを見た。
ピースは微笑み、小首を傾げる。
「だめかしら」
キットはここに居る。結婚相手を見繕いに来ているのはまるわかりだ。商人であっても、お金を積んでチケットを手にいれれば、こういう場にまざることはできるのだ。そこで、いいお家柄だけれどお金がない家の末娘やら、とにかくなんでもいいから金持ちと結婚したい娘やらと、首尾よく婚約にこぎつける商人は、幾らも居た。
「……ああ、ええと、ピース嬢」
「ええ」
「俺は商人ですし、あなたとは身分が違いすぎます。それにこのご面相です。髪は赤い」
彼はそばかすの目立つ頬を示し、癖毛を示した。たしかに、茶色に近い色だが、髪は赤い。この国では赤毛は、病弱の象徴だ。そういうイメージがついているのである。そばかすも、あまりいいものとは見なされず、必死に美容せっけんや薬品でそれを消そうとする者が後を絶たなかった。おしろいを厚く塗ってごまかすご婦人は、山程居る。
とはいっても、前世の記憶、現代日本人だったことを思い出したピースには、それらは瑕疵とは思えなかった。キットは誠実そうな態度だし、ちょっと中性的なやわらかい顔立ちで、ピースの感覚では美男の部類にはいる。年齢も、二十歳にならないくらいで、ピースとの釣り合いもとれていた。
ぽっと、キットは頬を染めた。「赤毛をからかって楽しんでいらっしゃるんでしたら、やめてください」
「とんでもない。あなたはいい男ぶりだわ」
「で、ですから」
「それに、素敵なご商売をしてらっしゃるでしょ」
ピースは笑いをひっこめ、低声でいう。
「わたくしは、あなたのご商売に興味があります。もっと素直にいうのならば、わたくしもあなたのご商売にまぜてほしいの。その為には、結婚してあなたのお家にはいるのが一番はやいと思ったから、結婚してほしいと頼んだのよ」
ピースの声色がかわったからだろう。キットの表情がひきしまった。商売の話となれば、流石に商人だ。相手が若い女でも、真剣な顔になる。
「……ピース嬢、どういう意味ですか?」
「遊びで提案していると思われたくないから、わたくし自身を、いわば担保にしようと考えたの。ほかに担保にできるような財産は、わたくしにはないわ」
提案、という言葉に、キットの顔が尚更真剣になった。髪に似た赤みの強い茶色の瞳が、きらきらとかがやきだす。
ピースは身をのりだすようにして、ささやいた。
「キット、あなた、あたらしい商品を開発してくださらない? 売り上げのうち、わたくしがもらいたいのは、金貨千枚だけ。それ以外はすべてツール商会にあげる。かわりに、開発費用と広告費を、あなたにもってほしいの。半年以内にツール商会を、この国で一番の商会にしてみせるわ」
「ばかばかしい」
数十秒も考えて、キットはそういった。戸惑いが顔に残っているが、皮肉っぽく笑う。
「半年で金貨千枚も売り上げるような商品の案がある、とでもおっしゃるんですか? ご令嬢に?」
「ええ」
「どんな商品です。人間のかわりに布を織ってくれる道具ですか? 人間のかわりに服をつくってくれる道具ですか。それらはどういう仕組みなんです?」
ピースは口を噤み、キットを見る。「……随分具体的ね?」
「一昨年、そんな話をしに来たかたが居たんですよ。でも内容は具体的じゃない。設計図だってありゃしない。夢物語です。だってご当人が、仕組みはわからないができる筈だ、とおっしゃるんですから」
ツール商会は、手芸用品を扱う商会のなかで、唯一、都内に工房がある。そこで熟練の職人が道具をつくっているのだ。キット達経営者の家族も、そもそもが職人だ。だからピースは、キットに話を持ちかけようと思った。すぐに職人達に試作してもらえるし、自分もそれを試せる。
この国はまだ、布などはすべて手織り、縫いものも手作業でしている。たしかに、機械織りやミシンが発明されたら、相当売れるだろう。生憎ピースはそれらがどういう仕組みか知らないし、キットに話を持ち込んだ人間も、仕組みを知らなかったらしい。
ピースはゆるく、頭を振った。
「わたくしがつくってほしいのは、そういうものではないわ」
「では、どんなものですか。もしかしたら、勝手に靴下をあんでくれるとか……」
ピースは肩をすくめる。
「それに近いけれど、まったく違う。わたくしは、便利な道具を提案したいの。それも、あなた達の技術なら、簡単につくれるようなものよ」
「ピース嬢、俺達の商会の技術を過信なさっているんでは?」
「いいえ、できます」ピースはにっこりした。「だって、もうあるものを組み合わせたり、少しだけ形をかえただけのものだもの。ねえキット、わたくしに金貨千枚払ってくれると約束するのなら、あなたを億万長者にしてあげると、そういっているのだけれど、賢いあなたなら理解できるのではなくって?」
「……では、ピース嬢、その案とやらをおきかせください」
「それはできません。まだつくってくれるかどうかもわからないのに」
「こちらこそ、設計図も商品の構想もなしに、約束などできません」
「ですから、結婚を持ちかけているの」ピースは胸を反らす。「わたくしがあなたの家にはいります。商品が売れなかったら、お金も要りませんし、離婚してくださって結構」
子爵令嬢が商人と結婚し、おまけに離婚するなんて、とんでもない醜聞になる。そんなことをしたら、ピースは今後、二度と結婚できないかもしれない。
そのリスクは商人であってもわかる。子爵令嬢が、自分の人生を棒に振りかねないのに提案してきた、その事実に、キットはまた、表情をひきしめる。それだけの勝算のあるものだと判断したのだ。
「本気ですか?」
「ええ、最初から本気です」
「……本当に、売れなかったら、或いは実現もできないようなものなら、離婚しますよ」
「いいといっているじゃないの」
ピースは軽く、キットを睨む。「わたくしが考えている商品は素晴らしいものです。これを売れなかったら、あなたの腕が悪いということだわ」
キットは溜め息を吐いて、両手を開いた。
「わかりました、ピース嬢。さいわい俺は、商会の契約印を持っています。これであなたと契約しましょう。結婚は必要ない」
「なにをいっているの」ピースは鼻を鳴らす。「結婚はわたくしにとっても担保なのよ。あなたがお金を持って逃げないように、傍で見張ります。金貨を数十枚も出せばお父さまは納得するわ。話をつけてきて頂戴」
ピースの切り口上に、キットはその晩ではじめて笑った。
ピースの想像通り、父は金貨百枚ほどで、キットとピースの結婚をゆるした。賭け事に熱中はしているものの、根は気のいい父だ。大商会の商人なら、下手な貴族に嫁ぐより安心できる。それに、ピース自身がいいだしたのならと、すぐに承諾してくれた。
ふたりの婚約は翌日の新聞に公示され、ピースは姉達から心配されたが、くわしいことはなにも喋らなかった。キットにはああ啖呵を切ったものの、実は不安だったからだ。ニードルのことも、知らないふりをした。
数週間後、キットとピースは晴れて夫婦となった。
半年後、ピースは都にある上邸へ戻った。
「ピース、まあ、どうしたの?」
内職にいそしんでいたのだろう姉達が、慌てた顔で出てきた。その左手にはまっている指環を見て、ピースは溜め息を吐く。
「ああ、お姉さま……」
ピースは涙ぐんで、姉にすがりついた。
「よかった! お金はきちんと届いたのね?」
ニードルはそれで、察したのだろう。ピースをぎゅっと抱きしめた。「ピース、あなたが助けてくれたのね!」
「いいえ、キットが頑張ってくれたのよ」
「よくいいますよ」
呆れ顔で、キットがゆっくりと歩いてくる。彼は手に手に、ピースが見繕った姉達へのお土産を持っていた。カラフルな絹糸に、質のいい布、めずらしい動物の毛糸など、箱に沢山詰まっている。
ニードルとクラフトが、彼に小さく会釈した。キットは丁寧にお辞儀し、駈け寄ってきた使用人達に箱を渡す。ずれた帽子を整える。その手にも、指環がはまっている。「うちの奥さんのおかげで、わがツール商会は大儲けしていますよ。金貨千枚程度では申し訳ないんで、もう少し妻の実家を支援しようって話をしていたところです」
談話室で、懐かしいソファに腰掛け、ピースは夫の手からうけとった杼を、姉達へ渡した。牛骨でできたものだ。頑丈で、施された彫刻が美しい。おまけにその彫刻のおかげで、つるつると滑るようなことがない。
古ぼけた火除けの衝立ごしに、暖炉で薪がぱちぱちと燃えているのがわかる。
「半年近くも顔を出さないでごめんなさい。忙しくて……ねえお姉さま、レースもお好きだったでしょ」
「え、ええ……」
貴族令嬢がこういったことをしているのははずかしいものだが、キットは気にしているふうではないし、ピースももう気にしていない。姉達はそれで、気持ちが解れたらしい。ニードルは嬉しそうに、クラフトはちょっとうっとりした目で、牛骨の杼をさしこんでくる日の光にすかすようにした。
「とっても綺麗ね」
「東国の牛の骨なの。あちらには頑丈な牛が多く居るのですって。これは針のところにその牛骨をつかっているの」
さしだした鉤針に、姉達は更に表情を和ませる。ピースがキットを仰ぐと、夫は小首を傾げ、鉄刀木の杼や紫檀の棒針などをとりだす。「こういうものもありますよ」
「まあ、綺麗」
頑丈な脚付きの刺繍枠や、道具置きにも、姉達は嬉しそうにした。
「ちょっとためしてみてもいいかしら」
「どうぞ」
ニードルが杼に糸をまきつけはじめる。すぐに、簡単なモチーフをあみはじめた。あっという間にあんでしまって、左手につけた指環で糸を切る。
ピースがそれを見てにっこりすると、姉達も笑った。
「これ、重宝しているの。それをまさか、妹が考案したなんて、驚いたわ」
ピースは首をすくめ、ふふっと笑う。考案したのは自分ではなくて、前世の世界では普通にあったものだ、なんて説明は、しない。
ピースがキットに提案し、つくらせ、売らせたものは、幾つかある。そのひとつが、リングタイプとペンダントタイプのヤーンカッターだ。
あみものでも縫いものでも、手芸をしていたらわかるが、糸を切る瞬間は数限りなくある。そんな時、手を停めてはさみをとるのは、正直時間がかかるし、作業のリズムが狂う。
ピースの前世は、手芸をたしなむ女性だった。曖昧な部分もあるが、趣味の手芸に関してははっきりと思い出せる。あの、はさみをつかう瞬間は、煩わしいものだった。それに、飛行機など刃ものを持ち込めない場所もある。そういうところでも作業を続ける為には、リングやペンダントタイプのヤーンカッターは、実に役に立つものだった。
指環の端に出っ張りがあり、そこと指環本体の間に細い溝があって、その溝の内部に刃がある。糸を滑り込ませて切ることができる訳だ。不用意に髪など触ると切れてしまうが、人間を傷付けるためにはつかえない。
ペンダントタイプは、小さな円盤に幾つか、細い溝があり、その内部に刃がある。つかいかたはリングタイプとかわりなく、やはり刃は溝の奥にある為、ひとを傷付ける為にはつかえない。
キットとツール商会の職人達は、ピースの拙い設計図と、細かい説明で、理想通りのものをつくってくれた。おまけに、可愛らしい彫刻やなにかも施してくれたのだ。これは売れに売れた。
まず、実際に日常的にあみもの、刺繍をする女性達が、はさみとほぼ同じ値段でも、指環やペンダントを買った。作業効率に関わるからだ。一旦手を停めてはさみをとるのと、手許ですぐに糸を切れるのとでは、はやさが違う。
また、子どもの世話をしながら仕事をしている場合など、はさみで怪我をしないように遠ざけておけるという利点がある。布は一気に切ってしまって、はさみはそれ以降絶対に子どもの手の届かないところへ置いておける、というのは、一部の女性の間で指環タイプのヤーンカッターが大きく支持される理由だった。
更に、貴族階級にも売れた。手芸そのものは、庶民のするもの、という認識だ。が、機織りやレースあみをする訳でもないのに、杼を持って肖像画に描かれたがるご令嬢は多い。そして、その名目で道具を入手し、隠れて手芸を楽しんでいるご令嬢も多かった。ご婦人だけでなく、殿方も、隠れてあみものをたしなんでいる者は多い。そういうひと達も、小さくてつかいがってのいい道具をありがたがった。
ツール商会はこれだけでなく、ピースの提案したほかの道具もつくってくれた。キットが主導して、すばやく動いてくれたのだ。
棒針と棒針を、特製の革紐でつなげたもの。これは前世でつかっていた、輪針を再現したものだ。靴下や袖などの筒状のものを簡単にあめる。弓に対するボウガンのようなものだ。技量が拙くても靴下をあめるのは画期的で、やはり売れに売れた。
針置きも売れた。これは磁石をつけた腕環のようなもので、金属製の針をそれにくっつけておけば、転がっていかない。ぬいたまち針をくっつけておけばいいという手軽さで、お針子達にうけた。手首にピンクッションをつけるのとさほどかわりないように思えるかもしれないが、ピンクッションに針を刺すのと、磁石部分に針をくっつけるのとでは、手間が違う。
細かいが、まだこちらの世界に存在していなかった、段数マーカーと目数リングも作成し、売りさばいた。金属製だけでなく、マザーオブパールなどで高級なものもつくり、密かに手芸を愛している上流階級に飛ぶように売れた。
「喜んでくれて、よかったですね」
まだ敬語のぬけない夫が、前庭を歩きながらいう。ピースは頷いて、五センチ角の布の縁を、また別の布と縫い付ける作業を続ける。自分はもう商人の妻で、散歩をしながら少々裁縫をするくらい、はずかしいことではない。
「お姉さま達が、無理にお嫁に行かなくて、よかったわ」
ツール商会はピースの発案で儲けたし、キットは約束を果たしてくれた。金貨千枚は無事に、父が不道徳な賭けをした相手に渡り、約束は果たされた。金を払ったのだから、ニードルは自由、という訳だ。
おそろしいできごとだったが、娘まで失いそうになって、ようやくと父も賭け事を辞めてくれた。この半年、盛り場へ行っては居ないらしい。これからまた、悪い癖が出てくる可能性はあるが、娘のことを思い出せば踏みとどまることができるだろう。
縫い合わせた布を、ポケットへ戻す。針は動物の骨でできた、頑丈な容器にいれた。内部には綿と布が張ってあって、針は傷付かない。前世ではクッキー缶を芯にして針箱をつくり、針が外に飛び出さない工夫をしていた。
キットがちらりと、ピースの手許を見た。
「それもそろそろ、量産できそうですよ」
「ありがたいわ。お針を安全に持ち運べるのは、手芸好きには嬉しいことですもの」
針の容器も、ポケットへ戻す。もうそろそろ、姉達が呼びに来るだろう。お茶を楽しんで、夕食もこちらで戴く。
からころと、前の通りから、馬車の音がした。沢山のお土産を積んできたツール商会の馬車は、一旦帰らせていた。夜、また、布や糸を積んで、戻ってくることになっている。いれかわりでピース達がのり、戻る予定だった。「あら、もうお迎え?」
「いや、あの音はうちの馬車じゃないですよ」
キットが首を伸ばすようにして、通りを見た。宣伝の為に、手芸なんてしないのにはめている指環で髪を切らないようにしながら、帽子の位置を整える。彼のはめているヤーンカッターは、彼自身がつくったものだ。試作品だというが、その段階でももう売れるような、完璧な出来だった。ツール商会の技術の高さを物語っている。
夫は小さく、いう。「ありゃあ……貴族の馬車ですね」
馬車が前庭へのりこんできて、車止めで停まった。ふたりは少しはなれたところで、馬車から二十五・六歳の男性が出てくるのを見ている。
ピースは息をのむ。それが、カーヴィング・ナイフだったからだ。父と賭けをして、ニードルをもらうといっていた、カーヴィングだ。
カーヴィングは邸にはいっていった。
まさか、お金を渡したのにまだ納得せず、ニードルお姉さまをつれていくつもりなのでは。
ピースが泣きそうになりながら、息を切らして玄関広間へ行くと、そこにはカーヴィング、それからクラフトが居た。カーヴィングがひざまずいて、クラフトの手をとっている。クラフトは涙ぐんでいるが、嬉しそうだ。
「カーヴィング……」
「すまない、クラフト。最初からこうして、素直に結婚を申し込むのだった。断られるとしても、君の気持ちをはっきりききたい」
「なにをいっているの、カーヴィング? あなたこそ、ほかに好きな相手が」
「なんだって?」
「あら、あなたの弟のブッチャーがそういっていたわ」
「弟が? あいつは……」
カーヴィングは額に手を遣って、小さく笑った。「あいつは僕に、君と結婚を約束していると……だから君は彼に操を立てて、まだ結婚しないのだとばかり……」
クラフトがあおくなって、頭を振る。
玄関広間に奇妙な沈黙が充ちた。
カーヴィングはもともと、クラフトとの結婚を望んでいた。病で死んだ、彼の弟もそうだった。
弟はクラフトに、カーヴィングには別に女性が居るといい、クラフトはそれを信じて、家を通じてのカーヴィングの結婚申し込みを泣いて断った。
父はそれを覚えていたから、カーヴィングとの賭けでも、クラフトではなくてニードルを賭けた。最後に残っていた理性がそうさせたのだ。
「結局わたしがこの家に残ることになるのね」
ニードルは丁寧な針仕事をしながら、楽しげだ。談話室のテーブルには紅茶やお菓子が置かれ、ニードルは刺繍枠にはめた絹地に、青い糸で刺繍をしている。クラフトの結婚に、今から備えているのだ。
クラフトとカーヴィングは、父に婚約を報告しに行った。誤解が解けたので、すぐにでも婚約は成るだろう。
ニードルの向かいで、布を接ぎ合わせながら、ピースは苦笑いした。「そうなるみたい。お姉さま、お父さまのことはわたくしも心配だから、度々顔を見せるわ。これからは、時間に余裕もできるし」
「ええ、そうなってもらいたいわ。お父さまの悪い虫がまた騒ぎ出したら、大事ですもの。頼れる殿方がわたしにも居たらいいのだけれどね」
ニードルは冗談めかしていい、ヤーンカッターで糸を切る。「お姉さまなら引く手数多よ。我が家を継いでくれるひとが、きっとお婿さんになってくれるわ」ピースは微笑み、傍らに立つ夫を見上げた。
ピースはきょとんとする。キットが不満げに、口を尖らせていたからだ。
「キット? どうなさったの?」
「いいえ。俺はカーヴィング卿のように格好がつかない結婚だったんでね」
なにを不満に思っているのか、と更に質問を重ねようとしたところで、キットはその場にひざまずいた。ピースはそれに、目を瞠る。
キットは苦笑いして、自分の手からヤーンカッターを外した。
「ピース、このままだと本当に格好がつきません。こんなもので申し訳ないけれど、もう一度、今度は俺から求婚させてもらえませんか? あなたと本当の意味で、夫婦になりたいんです、俺は」
ニードルが、まあ、と、口を半分開けた。
ピースはまた、きょとんとしたが、すぐに笑い出した。キットがおそろしそうに眉を寄せる。
「ピース?」
「なにをいいだすのかしら、このひとは」ピースは笑いながら、針置きに針をくっつける。「こんなもの、ですって? あなたがわたしを信じてつくってくれた、素敵な指環じゃない。それも、これはあなたが最初につくったもの。これをもらえるのなら、断ったりしないわ。断るものですか! さあ、結婚のし直しでも、なんでも、いたしましょう。あなたの満足するようにね。でも、あのお針箱もきちんとつくってくれなくちゃ、いやよ」
彼の手をとる。夫は安心したように、ふっと溜め息を吐く。「それなら心配要らない。俺はあなたのほしいものなら、なんでもつくってみせますよ」
見詰めあうふたりに、ニードルはそっと席を立ち、侍女達に手振りをして、静かに談話室を出て行った。こころなし嬉しげなあしどりで。
クラフトはナイフ家へ輿入れし、女主人になった。貴族でありながら手芸を趣味としているが、夫のカーヴィングはそれをよしとしている。
ニードルはトリスタンという貴公子を婿にし、毎日ふたりで手芸にいそしんでいるという。