その2
少年は目の前で妖精が目に見えないほど高速に羽を動かしているのを見ても驚かない。
それどころか「ねえ、私にも。私にもちょうだい」そうせがむ妖精に向かって持っていた果実を「ん」と言ってさしだす。
妖精はうれしそうにその赤い果実によっていき、少年のかじった後の白い果肉に、その小さな歯を立てる。
口いっぱいに頬張る。
咀嚼しながら「おいしい」とても幸せそうな声を出す。
荷車を押しながら、少年は肩にとまっている妖精に声をかけた。
「ねえ、シルフィ。せっかく羽があるんだからさ。飛べば」
「やあよ。疲れるもん。それに今はお腹いっぱいだし。食後すぐの運動は体に良くないんだよ」
「運動じゃないだろ。飛ぶ、なんてさ。シルフィにとったら僕たちが歩くのと同じようなものだろ」
「そうよ。だけどクリスにだって歩くのも面倒なときってあるでしょ」
少年――クリスが歩を進めるたび、もちろん彼の体は揺れる。
上下する。
その方に止まっている妖精――シルフィにすれば、嵐の海を行く小船に乗っているような状態だろう。
しかしシルフィは器用にバランスをとりながら、クリスのかたに腰を下ろしている。
クリスは思う。
ただ飛ぶよりもそのほうがよっぽど面倒じゃないのかな。
「全く。ああ言えばこう言うんだから」
「悪かったわね。性分よ。素直じゃないの」
開き直る妖精に少年はため息をついた。
夕暮れ前に家に帰り着くと、クリスは荷車を納屋にしまい、今日の収穫が詰まっている二つの篭を家の中へと運ぶ。
シルフィはというと、すでにクリスの肩から離れ、しかしやはり飛ぶのは面倒なのか、適当なところに腰を落ち着けて羽を休めている。
夕食の準備に、クリスは取り掛かる。
今日採ったばかりの野菜をぶつ切りにし、水を張った鍋に放り込み、ぐつぐつと煮る。
ころあいを見て、木の実や野草(ハーブの一種)から作った調味料、塩(とても貴重品なのだ)を入れる。
味見をし、満足そうに頷く。
椀にそれをとり食卓へと運んでいく。
小麦をといて引き伸ばし焼いたかたパンと一緒に。
食卓におかれた食事は二人分ある。
「おじいちゃん、出来たよお」
クリスは奥の部屋に声をかけた。
机の上でなにやら書き物をしていた様子の祖父であったが、孫の声を受けると「今いく」そう答え立ち上がった。
祖父が食卓に着いたのを確かめると、クリスは手を合わせ
「いただきます」
「いただきます」
祖父もシルフィも(シルフィは椅子に腰掛ける、と言うわけにも行かないので、食卓にじかに座っていた。行儀が悪いが仕方がない)同じように手を合わせた。
「ご馳走様でした」
と、最初に手を合わせたのはシルフィだった。
確かに彼女が食べた量は、クリスたちに比べ圧倒的に少ない。
しかしそれに比例して、彼女の体は小さいのだ。
比率的な面で言うと、クリスたちの食事の量とシルフィのそれは、そう変わらない。
つまりはシルフィは早食いなのだ。
噛んでいたパンを飲み込んで、クリスは困った顔をシルフィに向ける。
「いつも言ってるだろ、シルフィ。そんな食べ方じゃお腹壊すって。もっとよく噛まないと」
「大丈夫よ。見た目と違って私、頑丈に出来てるんだから」
いつもと同じ返事にクリスはため息をつく。
そんな孫を見て祖父は笑うのだ。
「ははは。お前たちは本当に仲がいいな。毎日毎日同じ問答の繰り返しだ」
「だってシルフィが僕の言うこと聞かないから」
「だってクリスが私の言うこと聞かないから」
二人の声が重なる。
クリスとシルフィは思わず困ったように互いを見やる。
祖父は笑った。
食事を終えて腹がこなれるまでの小休止を取っていると、祖父が話しかけてきた。
「クリス。人生とは例えるならなんだと思う」
突然で突拍子もない問いにクリスは呆れながら
「……いきなりだね。おじいちゃん」
「旅、だとは思わんか」
祖父は孫の呆れように構わず続ける。
「旅の道中で人はいろんなものを見て、たくさんの人に出会い、さまざまな経験をする。
人生も然り。
人は生きていく中で、いろんなものを見、たくさんの人に出会い、さまざまな経験をする。
そうでない人生などはありえない」
力説する祖父に、クリスはまたもや呆れながら
「それはそうだけど、いきなりなんなの。おじいちゃん」
「うむ、つまりだな」
またもや唐突に、祖父は言った。
「クリスよ。旅に出ろ」
「……なんなの。いきなり」
クリスは同じ言葉を繰り返していた。
祖父は悪びれずにこたえる。
「確かにお前にとっては突然の話だろう。しかしそうではないのだ。
これは村のしきたりなのだよ」
祖父を見返すクリスの顔。
理解していないのは明らかだった。
「13歳になれば、皆この村を出、旅立たなくてはならないのだ。
一年間は、誰にも頼らず一人で暮らす。
つまりは修行なのだ。
わしも、お前の母さんも、村の者は皆そうしてきた」
「母さんも……」
「うむ、そうだ。しかし戻って来たのは五年後だった。
生まれたばかりのお前を連れてな。
そしてお前を置いて、また旅立ってしまった……。
すまんな、クリス。わしはそれを止めることが出来なかった。
しかしお前はこうして立派に育ってくれた。感謝しているよ」
「やめてよ。感謝だなんて……。
でも、そうか。そんなしきたりがあったんだ。全然知らなかった」
「うむ。ちなみにわしが今日、突然、こんなことを言い出したのも、しきたりのうちだ。
直前までは内緒なのだよ」
本当かなあ。
と、思わないでもなかった。
祖父はうっかり忘れていただけではないのだろうか。
祖父が意外とうっかりものだということを、クリスはよく知っている。
でも、大丈夫だろうか。
クリスはこの村を出たことがない。
それなのに、一年間も一人で暮らさなくてはならないなんて。
でも、村の人たちはみんなそうやって大人になったんだ。
すごいな……。
「不安なのか?」
黙りこんだクリスに、祖父は声をかける。
「それはそうだよ」
素直に答える孫に、祖父は安心させるように、笑顔を向けた。
「心配しなくてもいい。シルフィも一緒だから」
「ちょっと。何で私!?」
我関せず、と大の字になってテーブルの上で寝そべっていたシルフィだが、その言葉を聞くと、ばね仕掛けが働いたように跳ね起きた。
祖父はその小さな姿に頭を下げる。
「頼むよ、シルフィ。お前が一緒ならわしも安心できる。
それにクリスがいなくなったらお前もさびしいだろう?」
どうやら図星であったのか、黙り込み、それから考える様子を見せて、わざとらしいため息をついた。
「はあ。仕方ないわね。
グラハムにそこまで言われたら、断れるわけないじゃない」
はあ。
もう一度、わざとらしくため息をつく。少年を見上げ
「そういうわけだから、クリス。私も一緒に行ってあげる。
これで安心でしょ。感謝しなさいよ」
シルフィの声は弾んでいる。
彼女の中で、二人はもう旅を始めているようだった。
「うん。ありがとう」
クリスの声も弾んでいる。
不安が消えたわけではないが、シルフィと一緒に旅が出来ると思うと、楽しみにもなってくる。
クリスは微笑む。
グラハムも微笑む。
シルフィはにんまりと笑った。
翌日は村のみんなへのあいさつ回りで終わった。
次の日は、それを受けてのクリスの送別会の準備に費やされた。
そして明くる日はもちろん送別会。
当然のように、朝から晩までお祭り騒ぎ。
そういうわけで、クリスの旅立ちは次の朝ということになった。
村人総出の見送りを受けながら、クリスとシルフィは今、旅立とうとしている。
彼らの、別れを惜しむ声、激励の声に、それぞれに答えていく。
そして――
「おじいちゃん……」
グラハムを残すのみとなった。
他の皆は、ただ静かにグラハムとクリスを見守っている。
グラハムは、とても優しい微笑を浮かべて、孫を見つめている。
中々くちを開こうとしない。
クリスは祖父の言葉を待つ。
グラハムは唐突に喋りだした。
「本当のところを言うとな、クリス。わしは昨日の夜、いろいろと考えたんだ。
あれを言おう、これを言おう、とな。
しかし実際そのときになると――」
グラハムは照れたように笑う。
「言葉が出てこんもんだな。いや、まいったよ」
緩んだ頬を引き締めると、今一度、孫の顔をじっと見つめ、言った。
「クリス。わしはただお前の旅の無事を祈っておるよ。
この村に戻ってくるのを、待っておるよ」
「おじいちゃん……」
クリスも、グラハムと同じように、別れの言葉をあれこれと考えていた。
しかし結局、何も言えなかった。
「……うん」
クリスはただ頷く。
「それじゃあ、行って来ます」
「うむ。行って来い」
グラハムは短く答える。
クリスは村人のみんなに改めて視線を移すと
「それじゃあ、みんな。行って来ます」
「行ってらっしゃい」
村人たちの声が合わさる。
クリスは小さく笑い、最後にもう一度
「行って来ます」
そういって、彼らに背を向ける。
シルフィは、クリスの肩に腰掛けたまま身をひねって、村人たちに手を振る。
「じゃあねえ、みんな。元気でえ」
彼らの姿が見えなくるまで、手を振り続けた。
そしてもう視界に人の姿がなくなると、再び前を向いて
「じゃあ、行こう、クリス。
街道に出るには山ひとつ超えなきゃならないんだから。
のんびりしてらんないよ」
「……うん」
クリスは頷き、そして振り返った。
「どうしたの?」
いぶかしむシルフィには答えず、クリスは青い空の下に広がる山々――森の緑を見つめた。
村はその緑の中に隠れている。
村人たちも、祖父の姿も、もう見えない。
クリスは泣いていた。
うつむいて、声を立てず、ただ静かに。
クリスの肩で器用にバランスをとりながら、シルフィは呆れたように言った。
「何。泣いてんの?」
「だって、だってさ……」
クリスの声は涙で揺れている。
シルフィにもクリスの気持ちは分かる。
親しい人たちと別れるのはつらいものだ。
シルフィにだってそれぐらい分かる。
彼女自身、そうなのだから。
「……分かるけど。
泣いてたって仕方ないでしょ。
ほら、行こう」
クリスはすぐには答えない。
声を立てずに泣き続けている。
シルフィはそれが気に食わなかったようだ。
むっとした表情を作ると、クリスの肩から飛び立った。
「じゃあ私、先に行くから。
クリスは好きなだけ、そこでそうしてなさい」
その声にクリスは涙をぬぐう。
「待ってよ。今行くから」
あわてて、妖精の後を追った。