その12
『時間をください』
そうは言ったが、実のところラスにそれは必要なかった。
その言葉を口にしたとき、ラスの中で答えはすでに出ていたからだ。
トラーニ・トラン――教団から来たというその男を紹介されたとき、ラスはイグニスの言う用件とは何であるのかということを悟り、だからその瞬間に答えは出ていた。
考える時間は必要なかった。
ラスが欲しかったのは実行するまでの時間だ。
別れも告げず、去らなければならない――決意するための時間だった。
クリス・バードは今、本日最後の仕事に取り掛かっている。
食器の後片付け。
それは旅に出る前からクリスの仕事であったから、手馴れたものであったが、その多さは以前とは比べ物にならない。
何せ数十人分である。
しかしクリスにはうんざりした様子はない。
むしろ、洗い甲斐を感じているような表情だ。
「少年少年」
声に振り返り、そこにナタリーの姿を認めたとき、クリスは珍しく不機嫌な顔をした。
「ナタリーさん」
その声は少々とがっている。
本当なら、食器洗いのこの仕事はナタリーと分担してやるはずだった。
しかしナタリーが中々現れないので、結局クリスが一人でやることになったのである。
「何ですか?」
クリスが気分を害している原因が自分だとは、ナタリーはまるで気付いていないようだった。
もしくは気にしていない。
「ちょっとちょっと」
クリスを手招きする。
「何なんです?」
ナタリーの、彼女らしからぬまどろっこしいやり方に興味を覚え、濡れ手をエプロンで拭きながら、彼女の側まで寄る。
中腰になり、クリスの目をまっすぐに見つめながら、何の前置きもなくナタリーは――
「ラスの様子、見てきてくれない?」
「ラスがどうかしたんですか?」
「うん」
頷いてナタリーは答える。
「暗いの」
「え?」
「暗いんだよ。学校から帰ってきてからずっと」
「そうかなあ。いつもと同じに見えるけど」
ラスとは昨日知り合ったばかりのシルフィが、ふよふよと宙に浮いたまま言う。
「全然違う!」
シルフィだけでなく、クリスまで驚いてしまう強い調子で、ナタリーは妖精の言葉を否定した。
「いつもはね。暗いって言うんじゃなくて、ただ静かなだけなの。だけど今日はね、違うの。暗いの。きっと学校でいじめられたに違いないわ。ラス以外はみんな貴族だし、それでいてラスの成績は飛びぬけているし、みんなひがんでるのね、きっと。ラスもつらい思いをしてるんでしょうね。でも弱音を吐くような子じゃないし、私たちに相談するようなこともしない。心配をかけまいとしているんでしょうけど……。
クリス、そこで君の出番となるわけ。それとなくラスの悩みを聞きだして欲しいの。私には絶対話してくれないだろうし、でも君になら、ラスも話す気になるかもしれないから」
「そうなんですか?」
クリスの間の向けた返事に
「そうなんですよ」
とナタリーは返した。どこまで本気でラスの心配をしているか、わからない態度だ。しかし「どう?」とクリスの返事を促がすナタリーの目は真面目だった。
「いいですよ」
もちろんクリスに、断る理由はなかった。
ナタリーはにやりと笑う。
「よし。そうと決まれば行った行った」
クリスの背中を押し、厨房の中から追い出す。当然のようにクリスの後についていく妖精を、ナタリーは呼び止める。
「ちょっと待った、シルフィ」
「何?」
振り向いたシルフィの体を、ナタリーは両手のひらですっぽり包み込むようにして捕らえてしまう。
「何のまねよ、これは」
当然ながらシルフィの声には怒気が含まれている。ナタリーを睨みつける。ナタリーは平然としたもので――
「あんたはここにいるの」
「何でよ」
「そりゃあ決まってるでしょ。クリスがやり残した仕事を最後までやってもうためよ」
確かに洗いかけの食器、まだ洗っていない食器がある。しかしそれはシルフィの知ったことではない。
「ナタリーがやればいいでしょ。だいたいクリスはナタリーの頼みを聞いて行っちゃたわけだし、当然ナタリーがやるべきよ」
「それがだめなのよねえ」
「何でよ」
ニヤニヤ笑い出したナタリーをシルフィはさらに睨みつける。
「それじゃあクリスとラスが二人っきりになれないでしょ」
「……どういう意味よ」
妖精の声に凄みが増す。やはりナタリーは平然としたもので
「私、クリスみたいな弟が欲しいんだよね」
一見、何の脈絡もないことを言った。しかしシルフィはその真意をすばやく見抜いた。
「ラスにクリスをたぶらかせる気!?」
「どっちかと言うとクリスにチャンスをあげようとしてるんだけど」
「だめだめだめだめだめ! そんなの絶対だめ!」
シルフィはナタリーの手の平の中で暴れに暴れる。しかしナタリーは妖精を解放しない。
「女のやきもちはみっともないよ」
「だめったらだめ!」
会話になっていない言葉を交わしながら、ナタリーはにやにや笑って、シルフィは叫ぶ。
***
店を出ると、ラスはすぐそこに居た。
庭――というほど立派ではないが、道路に面した敷地にはベンチが三つあり、そのひとつにラスは腰掛けていた。
クリスにはラスの背中しか見えないので、彼女が何を見ているかはわからない。それでもクリスはラスが視線を向けているだろう、道路を挟んだ向かいを見やる。
特に変わったものは映らない。
家々とその間にある路地の暗がり、窓窓から漏れる明かりの色だけ。
クリスは再びラスの背中に視線を戻す。
とても寂しそうに見える。
誰かを待っているように見える。
「ラス」
クリスの口からその名がこぼれ出る。
ラスは振り返ると、クリスを見上げた。すでにクリスがそこに居たことには気付いていたのか、驚いた様子は見えない。
「何?」
「え、えと……」
ラスに見つめられ、すぐには言葉を返すことが出来なかったが、何とか言葉を見つける。
「い、いい夜だね」
ラスはクリスを見上げたまま、少年を見つめている。クリスは気恥ずかしさに堪えられなくなって視線をそらすと、空を見上げた。ラスもまた夜空を見上げた。夜のすべてを照らす光を放って、白い満月が浮かんでいる。夜の太陽のように。
「そうね」
ラスの声は静かだ。この美しい夜に何を感じているのか、何かを感じているのかは、その静けさからは、わからない。
ふいにラスは立ち上がった。道に出るとどこかへ向かう様子を見せ、思い出したように振り返り、クリスを見た。
「来ないの?」
「い、行く」
ラスの意図はわからないままにクリスは頷き、ラスのもとに駆け寄る。二人は連れ立って歩き出した。
ただ静かに歩を進めるだけの二人だったが、ぽつりとクリスの声。
「ねえ、ラス。何か悩み事でもあるの?」
「ないけど。何故?」
「ナタリーさんがそうじゃないかって。心配してたよ。僕も――」
気がつけばラスがじっと見ていた。クリスは真っ赤になりながらも言い切る。
「――心配だな」
「悩みなんてないわ」
「そ、そう」
クリスの顔はまだ赤い。胸はどきどきしている。
「だってわっかているもの。私は何をするべきなのか」
「う、うん」
クリスは頷く。ラスの言葉は理解していない。
再び静寂がおりる。今度はラスがその静寂を破った。
「ねえ、クリス。一緒に来てくれない?」
「ど、どこへ?」
「だめ?」
問いには答えず、ラスはクリスをまっすぐに見つめた。
そんなふうにされて、クリスに断れるはずがない。
「う、うん、行く。一緒に行くよ」
「ありがとう」
ラスの微笑みは小さなものだったが、クリスの胸はそれだけでホンワリと暖かくなるのだ。
「じゃあ、戻りましょう」
「うん」
ぼんやりと頷いたあと、クリスははっと我に返り
「でもさっき、どこかに行こうって」
「ええ、でもまだ早いわ。月がもっと西に傾いてからでないと」
月は中天にある。人々が寝静まる時間はもう少し先。
「そうなの?」
ラスの言わんとしている事はよくわからないままに、クリスはとりあえず頷いた。
「じゃあ、戻りましょう」
同じ言葉を繰り返したあと、呟きが続く。
「本当は嫌だけど」
(つらいだけだから)
最後の呟きの意味がわからないクリスだから、ラスが心に呟いた声が、聞けるはずもなかった。