その11
『ロゴス』という語には『言葉』という意味がある。
『真理』という意味もあるし、『感情』『意識』『愛』という意味も持っている。
前後の文脈で意味を変える――そんな言葉だった。
そんな『ロゴス』を人間たちに教えたのは二人の女神――それがこの国に伝わる神話だった。
だからこそこの国の王は、建国以来、女性なのだ。
そんなロゴス神王国で、唯一制度化されている教育機関が、『ロゴス神学校』である。
教育内容は以下の通り。
礼儀作法は基本として――。
この国の歴史について教えている。
国の基となった神話への考察。
この国が領土を広げるための大きな力となった『教団』との関係(『教団』を独立した自治組織と認めているのは、ロゴス神王国だけである)、その歴史について。など。
しかし機関への納付金が高額なため、このような教育を受けられるのは、富裕層に限られていた。
実質、貴族による貴族のための教育機関でしかなかった。
だからラス・メイは特異な存在だった。
メイ家はごく普通の一般家庭でしかなかったからだ。
納付金などとても払えるものではない。
では何故ラス・メイはロゴス神学校の生徒になることが出来たのか。
彼女には足長おじさんがいたのである。
他ならぬレッド・テッドだった。
どういう流れでそういう会話になったのか当の二人も忘れてしまっただろうが、人々について、この国について、教団についてのラスの考えを聞く機会がレッドにあったのだ。
その考察は、少女とは思えないほど深く鋭いものだった。
レッドは感動した。
これほどの才能を埋もれさせるわけにはいかないと考えた。
そこでレッドはデューンに相談した。
ラスを学校にやれないものかと。
デューンは、レッドが納付金を払うのなら何も問題はない、と答えた。
だからデューンもまたラスの足長おじさんといえたのだが、デューンがそのことを忘れ、直ぐにはラスを思い出せなかったことが、デューンの性格を物語っている。
そういういきさつをえて神学校の生徒になったラスは、瞬く間に主席の座に着いた。
同時にその存在は全生徒に知れ渡ることになる。
今度主席になった生徒は『市民』の出だそうだ――。
しかも大神官補の推薦を受けて入学したらしい――。
大半の生徒は反感と嫉妬を覚える。
しかし不思議とラスが孤立することはなかった。
ラスのクラスメイトは彼女に好意的だったからだ。
反感と嫉妬をもって彼女を迎えたものも、二言三言、ラスと言葉を交わすと、彼女を好意的に受け入れるようになっていた。
ラスは決してコミュニケーションに長けているわけではなかったし、どちらかといえば言葉数は少ないほうだった。
確かに容姿はそれなりに美しいが、人の目をひきつけて離さないほどの美貌ということでもない。
それでもラスには、彼女と言葉を交わしたものをひきつける何かをもっているようだった。
人徳、とでもいったものなのかもしれない。
ともあれ、ラス・メイの学校生活は概ね平穏で、波風が立つこともなかった。
そんなラス・メイは今、教団の歴史についてよどみなくすらすらと(どこか退屈そうに)述べているところだった。
「――『教団』の名がこの国の歴史に現れるのは百数十年前ほどのことでしかありません。
もちろんそれ以前から教団は存在していましたし、当然この国の指導者たちはそれを知っていたでしょう。
しかしその存在は問題視するほどのことではなかったのです。
当時、教団は国家――自治組織ではなく、ただの団体としか認められていなかったからです。
領土を拡大するための壁になどなるはずはなかった。
たとえどんな主義主張を持ち出してきたところで、力で押さえつければいいだけのことでしたから。
しかしそうもいかなくなった。
教団は確かに小さな団体でしかなかったかもしれませんが、その影響力は大きなものでした。
なまじ『国』という領土を持っていなかったために、それが形として見えなかったのです。
教団信者はあらゆるところに存在していました。
この国にも。
彼らは抵抗勢力となってロゴス拡大の妨害となりました。
その勢力が思いのほか手強かったのでしょう。
ロゴス首脳陣は方針を転換し、懐柔策に出ました。
つまり教団の存在を認め、対等の一国家として認めたのです。
そして教団には領土の一部を与え、そこで『国家』として独立するようにと、提案しました。
これは半強制的なものだったはずです。
しかし教団側にしても断る利用はない。
流浪するしかなかった教団は、このとき初めて自分たちの領土を得、国家として成立しました。
もちろん各地に広がっていた信者たちのほとんどがその土地へと移り住みました。
その土地は今『ダークパレス』と呼ばれています。
あるいは単に『パレス』と」
席につくラスの後をついだのは特別講師のデューンだった。
「そうだね。付け加えるなら教団の指導者は総主と呼ばれ、現在の総主はマイトレイヤ・ゾノッソという人物だ。さらに言うなら50年前も100年前も教団総主の名は同じで、マイトレイヤ・ゾノッソだ。だからといって同一人物が100年間も総主を務めていたはずもないだろうけれどね。つまり代々継がれている名なんだろう。襲名されているというわけだね。
その一方でマイトレイヤ・ゾノッソは不死者だと信じているものも根強く存在しているけどね。確かにそのほうがロマンだよね。世界はまだ未知なるものであるという証なんだから」
生徒たちから小さな笑い声が上がった。
一回の講義で、ロマンという言葉が最低三回は出る。
そして今日はこれで五回目の『ロマン』
それがおかしかったのだろう。
ごほん、とデューンは咳払いした。
「ありがとう、ラス。とてもよくまとまっていたよ」
「どうも」
席に座ったまま、ラスは軽く会釈した。
そんなラスにデューンは微笑みを向ける。
「ホントに君は優秀だね。いっそのことここに立ってみるかい?」
言葉の意味が解せなかったのか、ラスはノーリアクション。
教団のデューンにただ目を向けている。
ガアアンガアアンガアアン。
そのとき鐘の音が鳴った。
終業の合図だ。
「今日はこれまで。お疲れ様」
デューンが生徒に好かれるのは、終業の鐘がなればきっちりと授業を終えるところにもある。
早速騒がしくなる教室内。
その騒々しさの仲でもよく通る声でデューンはラスを呼んだ。
「ラス。話があるんだけど、付き合ってくれるかい?」
ラスは頷いて席を立つ。
数人の友人がラスに声をかける。
「さっき先生が言ってたこと本気かもよ」
「だったら、引き受けなさいよ。そしたら面白そうだし」
「そうそう。ラスなら大丈夫だろうしね」
「うん」
ラスは頷いて、デューンのもとに向かう。
二人は連れ立って教室を出て行く。
デューンの後をラスは大人しくついていく。
職員室に着いたところで、二人の気配を察したかのように扉が開いて一人の職員が飛び出してきた。
目の前のデューンの姿にあわてて立ち止まる。
そして安堵の表情を浮かべた。
「ああ、よかった。デューン先生。今お呼びに行こうとしていたところなんです」
「どうしたの?」
「先生にお客さまがお見えにになっています」
「そんな予定はないけどな」
デューンは怪訝な表情を浮かべながら――
「で誰?」
「大神官第一秘書官殿です」
デューンの眉間に皺がよる。
「イグニス殿か……」
重い溜息とともに呟く。
どうやらデューンが、来訪者に対してよい感情を持っていないらしいと職員にも分かったが、出来ることは気の毒そうに言葉を続けることだけだった。
「あの、校長室でお待ちになられていますので……」
「うん、分かった」
職員に頷き返すとデューンは職員室の隣にある校長室に向かった。
扉をノックする。
返事を待たずドアを開けた。
机の天板に両手を組んだ腕を乗せ、椅子に背を預け、正面――つまりデューンを見返してくる男がまず目に入った。
ノード・イグニス。
大神官第一秘書官だった。
「ずいぶんとお待ちしましたよ。大神官補殿」
「申し訳ありません、第一秘書官殿。何せまったく予定にないことですから」
「そのくらいは構わんだろう。大神官補殿は我々と違って時間を持て余しておいでだろうから」
「そんなことはありませんよ。しかしお忙しいあなたが貴重な時間を割いて一体私に何のようです?」
「君にではないよ。だがどうしても君に話を通しておかなければならないのでね」
ならその話とやらをさっさと済ませてお帰り願いたい。
デューンは声に出さずに答えた。
もちろんイグニスにその声が聞こえるはずもなく、無言を返すデューンに気分を害したようだった。
「……とりあえずドアを閉めたまえ」
「これは失礼」
デューンはさらりと答えた。
おそらくはその態度がまたもイグニスの不興を買っただろうが、知ったことではない。
デューンはイグニスが、出会った時から嫌いであったし、イグニスにしてもそうだろう。
犬猿の仲、とはこのことだ。
そしてそれが改善されることは、おそらく、ない。
ドアを閉めようと振り返ったデューンは、そこでようやくまだ彼の後ろに立っているラスに気がついた。
「ああ、悪いんだけど、ラス。今日は都合がつかなくなってしまったんだ。話はまた明日、ということにしたいんだけど、いいかな?」
ラスは頷いた。
「じゃあ今日はもういいよ。お疲れ様」
ラスがもう一度頷き、校長室を後にしようとした時、イグニスの声が聞こえた。
「待て。ラス、といったな。そこにいるのはもしやラス・メイか」
ラスの姿はデューンの背後に隠れ、イグニスからは見えない。
「そうですが」
デューンの声はとがっている。
自分の生徒の名を気安く呼ばれたことが気に入らないのだろう。
「ならちょうどいい。手間が省けるというものだ。彼女にも話を聞いてもらおう」
「何故です」
「彼女にこそ用があるということだ。君などに、ではなくてね」
デューンはしばしイグニスの上に視線を置いた。
イグニスも鋭く見返してくるだけで、用件の内容を先に言う気はないらしい。
デューンは再びラスに声をかけた。
「聞いての通りなんだ、ラス。君にもここに居てもらわなくちゃならなくなったんだけど、平気かな?」
ラスは頷く。
デューンも頷き返し、そこでやっとドアを閉めた。
本来は校長が座るべき椅子であり執務机だが、今はそこにイグニスがもともとそこが自分の場所であるかのような横柄さで収まっている。
(デューンから見て)机の手前のスペースには、浅いU字型のソファーが、左右の壁に沿うようにして置かれている。
一方のソファーにはすでに二人の人物が身を沈めていることには、当然ながら最初から気付いていた。
一人は『ロゴス神学校』の校長。
今一人は見知らない顔だ。
一体誰なのか?
好奇心が湧かないわけではなかったが、名を尋ねるのはやめておいた。
どうせすぐにも紹介されるであろうし、イグニスの前でそんなことをすれば、また嫌味を言われるに決まっている。
デューンは空いている方のソファーに腰を下ろす。
ラスを促がして、自分の隣に座らせた。
こつこつこつこつこつ、と机を指で叩いていたイグニスだったが、ラスが座ったところで指の動きを止めた。
手を組む。
「話を始める前に紹介しておこう。彼はトラーニ・トラン。『教団』からの特使だ」
イグニスの言葉を受けて、校長の隣に座っている男性が頭を下げた。
まだ若い。
青年、といっていい。
デューンとそんなに歳は変わらないだろう。
「トラーニ・トランと申します。はじめまして」
そしてトランは不躾なほどまっすぐにデューンを見る。
「お目にかかれて光栄です。デューン・シス・オーラン様。御高名は存じ上げております」
そしてラスを見る。
「それにラス・メイ様。あなたのお噂も聞いておりますよ」
笑みを浮かべる。
声音と同様、ゆったりとした落ち着きのある笑顔だった。
「では本題に移らせてもらいますよ、トラン殿」
「ええ」
イグニスは手を組みなおす。
「単刀直入に言おう。ラス・メイ、『教団』に行きたまえ」
「イグニス様イグニス様」
トラーニ・トランが苦笑している。
「それではあまりにもわからない。せめて順を追って説明しないと。良ければ私がお話しますが」
「む、そうだな。では頼む。トラン殿」
イグニスの声が強張っている。
人に笑われることには慣れていないノード・イグニスだ。
「では私からご説明申し上げます。
あなたに教団に来ていただきたい、というのは我が教団総主の願いなのです。
ラス・メイ様にぜひ教団に来ていただきたいと、総主は望んでいるのです。
あなたのお噂を聞いて以来、総主はずっと考えていたようなのです。
ああ、噂というのは、ロゴス神学校に実に優秀な生徒がいるというものです。もちろんあなたのことですよ、ラス様。特に教団への考察が深く鋭いものと聞いております。
一度あなたとお会いし、その意見を直接聞いてみたいものだ、と総主は言っておりました。
あなたとお会いする――そのあとのことも、総主は考えているようです。
ロゴス神王国と教団のより深い絆のための橋渡し役となって欲しい、とも申しておりました。
それにこれをきっかけに、留学制度を作ってもよいのではないかとも申しておりました。
ロゴス神王国との関係を新しい段階に押し上げるときだと、総主は考えているようです。
どうでしょう。ラス・メイ様。お引き受けくださいませんか。
我が教団に来てはいただけないでしょうか」
悪い話ではないな、とデューンは思った。
ラスの意見は別かもしれないが。
デューンはラスの様子を窺う。
ラスはいつもと変わらない静かな表情だった。
それでも、その表情には困惑が浮かんでいるようにも見えた。
しばらくの無言のあと、ラスはぽつりと呟いた。
「時間をください」
イグニスは目を丸くする。
「時間? 何のためだ、ラス・メイ。まさか考える時間をくれといっているわけではあるまいね。その必要はないだろう。考える必要など。幸運が目の前にやってきたんだぞ。君は頷きさえすればいいんだ。『はい』と言いさえすれば」
ラスは繰り返した。
「時間をください」
イグニスがまたラスを責めようとするのを、デューンは制した。
「イグニス殿。確かにこれは大変名誉な話かもしれません。ですがあまりにも突然の話でもあります。すぐには彼女も決めかねるでしょう。どうか私からもお願いします。ラスに考える時間を与えてはくれませんか。彼女も気持ちを整理する時間が必要でしょうし、それにご家族にも相談しなければならないことでしょう」
言い終えると、デューンはイグニスのまっすぐに見た。
反論されたためだろう、イグニスは仏頂面だ。
それでも確かに即答を迫るというのは、性急に過ぎたという思いはあるのだろう。
仏頂面のまま、頷いた。
「わかった」
それを聞いてデューンは笑顔を浮かべる。
イグニスに頭を下げた。
「ありがとうございます。イグニス殿」
ふん。イグニスは忌々しげに鼻を鳴らす。
トランはこの二人のやり取りに何を思うのか、内心を覗かせない笑顔でデューンとイグニス、そしてラスを見つめている。
ずっと無言でいた校長は、やはりデューンを呼んで正解だったと、自身の判断の正しさに、胸を撫で下ろしていた。
デューンがいなければおそらく、ラスは、彼女の意見などお構いなしで、半ば拉致されるように『教団』へ向かうことになっただろうから。