ちょっとしたことで世界を滅ぼすお嬢様を、俺は今日も泣かせないために生きている
ちょっとしたことで世界を滅ぼすお嬢様を、俺は今日も泣かせないために生きている
世界が終わる時、だいたい俺はお嬢様の泣き顔を見ている。
王太子に婚約破棄を突きつけられた時もそうだった。
親友だと思っていた相手に裏切られた時もそうだった。
政敵に家を嵌められた時もそうだった。
いつだって、お嬢様は怒っていた。
世界を呑み込むほど怒っていた。
けれど、その奥で泣いていた。
だから俺は、何度死に戻っても、彼女を放っておけなかった。
「……いや、それにしたってさ」
見慣れた天井を見上げながら、俺は百回以上吐いたため息を、また吐いた。
今回は、ちゃんと褒めた。
お相手も悪くないと言った。
幸せになってほしいと、心から祝った。
その結果が、世界滅亡である。
「良縁談を祝っただけで世界滅ぶの、難易度高すぎない?」
俺は異世界転移者だ。
ただし、よくある親切なチュートリアルはなかった。
気づいたらこの世界にいて、言葉も常識もわからず、特別な力も見つからず、あっという間に詰んだ。
食うものに困り、寝る場所に困り、最後は道端に転がる生ごみと肩を並べるくらいまで落ちぶれた。
そんな俺を拾ったのが、今仕えているお嬢様。
リリアナ・ラ・バルティア。
二大公爵家の一つ、バルティア公爵家の一人娘で、夜を溶かしたような黒髪と、こちらを射抜くような真紅の瞳を持つ少女だ。
黙って立っているだけで、周囲が勝手に悪役令嬢だと判断しそうな雰囲気がある。
実際、世界を滅ぼすので間違ってはいない。
けれど、拾われた俺にとっては恩人だった。
彼女がただの暇つぶしだったと言っても、俺は屋根の下で眠れるようになった。
食事を与えられ、読み書きを覚え、使用人として生きられるようになった。
今でも、たまに思う。
あの時、彼女が俺を拾わなければ、俺は本当に道端で終わっていたのだろう。
誰にも名前を呼ばれず、誰にも覚えられず、ただ異世界に落ちてきた知らない男として消えていた。
だからかもしれない。
泣きながら世界を滅ぼす彼女を、俺はただの化け物だとは思えなかった。
あの黒い靄の奥にいるのは、誰にも見つけてもらえなかった女の子なのだと、どこかでわかってしまった。
そして、そんな彼女を止められなかった俺は、一度死んだ。
目を覚ました時、そこは見覚えのある過去だった。
滅びたはずの街があり、失ったはずの人々がいて、まだ世界は終わっていなかった。
その時、俺は気づいた。
どうやら俺には、死ぬと過去の分岐点まで戻る力があるらしい。
異世界転移者として、ようやく手に入れたチート能力。
これで人生逆転できるのでは。
そう思っていた時期が、俺にもあった。
でも現実には、その力はほぼ一つの目的にしか使えていない。
――お嬢様をラスボス化させないこと。
リリアナお嬢様は、ちょっとしたことで世界を滅ぼす。
王太子に浮気されれば、世界は滅ぶ。
親友に裏切られても、世界は滅ぶ。
家が政敵に嵌められて没落しても、やっぱり世界は滅ぶ。
それらを全部回避したと思っても、今度は隣国との戦争に巻き込まれて世界は滅んだ。
勘弁してほしい。
厄介なのは、それだけの力を持ちながら、お嬢様が普段は完璧にそれを抑えていることだ。
周囲に危険視されないように。
誰にも怯えられないように。
自分が、本当は世界を滅ぼせる存在だと悟られないように。
つまり、平時からラスボスである。
朝起きた瞬間からラスボス。
廊下を歩くだけでラスボス。
紅茶を飲む姿に至っては、なぜか最終決戦前のムービーみたいな迫力がある。
もちろん、最初にそれを知った時は思った。
やべえな、この女、と。
ただ、何度もやり直しているうちに、俺は知ってしまった。
初見では完全に悪役令嬢だ。
黙って立っているだけで人を見下しているように見えるし、口を開けばだいたい偉そうだし、機嫌を損ねると温室の空気まで冷える。
けれど、話してみると意外と乙女だった。
褒められると、露骨に機嫌が良くなる。
猫舌で、熱い紅茶を前にすると困ったように眉を寄せる。
気に入った菓子は最後まで取っておく。
お礼を言いたいのに言えなくて、憎まれ口を叩いたあと、こちらが見ていないと思った頃に小さく落ち込む。
誰かに傷つけられても、平気な顔をする。
平気ではないくせに、平気な顔だけはやたらとうまい。
恩がある。
同情もある。
人柄への好意もある。
正直なところ、顔もめちゃくちゃ好みだ。
でもたぶん、一番駄目だったのは。
そういうところを、可愛いと思ってしまったことだった。
泣きながら世界を滅ぼす彼女を、ただのラスボスとして片づけることなんてできなかった。
だから俺の最重要課題は、リリアナお嬢様にハッピーエンドを迎えてもらうことになった。
まあ、それはそれとして。
「そろそろ俺の異世界ハーレム物語も始まってくれていいと思うんだけどな……」
呟きながら、俺は枕元の手帳を開く。
分厚かったはずの手帳は、もうほとんど埋まっていた。
王太子の浮気回避。
婚約破棄阻止。
親友の裏切り阻止。
隣国との戦争回避。
別荘で静かに暮らす未婚エンド。
信頼できる貴族との結婚エンド。
全部、試した。
全部、駄目だった。
前回なんて、父親であるご当主様が苦労してもぎ取ってきた良縁談だ。
相手は中央貴族ではないが、それなりに家格も高い。
顔も悪くない。
性格も悪くない。
悪い噂もない。
これは勝った。
俺は頭の中でフィナーレの音楽を鳴らしながら、お嬢様に祝いの言葉を述べた。
その瞬間、温室の花が全部黒く枯れた。
「あ、これ駄目なやつだ」
そう思った次の瞬間、世界はきれいに滅んだ。
「……ほんと、女心はわかんねえ」
以前、それとなく本人に聞いたことがある。
『私だけを想ってくれる人となら、考えてあげてもいいわ』
言い方はもっと偉そうだった。
たぶん十倍くらい偉そうだった。
けれど、意味としてはそんな感じだ。
つまり、彼女は自分だけを見てくれる相手と幸せになりたいのだろう。
なのに、誰を連れてきても駄目。
どんな未来を用意しても駄目。
もはや無理ゲーここに極まれりである。
「⋯⋯一度、原点に返るか」
どうせ、俺以外の記憶には残らない。
いや、残らないはずだ。
俺は手帳を閉じ、身支度を整えた。
今日の曜日。
時間。
お嬢様の予定。
そこまで考えて、行き先はすぐに決まった。
「温室だな」
◆◆◆◆◆
温室には、甘い花の匂いが満ちていた。
持ってきた焼き菓子を皿に並べ、紅茶を淹れる。
茶葉の量、蒸らす時間、湯の温度、カップに注いでからお嬢様が口をつけるまでの冷め方。
全部、体が覚えている。
前の世界では紅茶なんてペットボトルで飲むものだった俺が、今では片手間でこれをこなしているのだから、人生というのはわからない。
「よし。完璧」
お嬢様は猫舌だ。
熱すぎると眉をひそめる。
冷めすぎても不満そうにする。
その中間を当てられるようになるまで、俺はいったい何回死んだのだろう。
いや、紅茶で死んだわけではない。
結果的に世界が滅んだだけだ。
それもどうかと思うが。
皿の横には、いつもの白い花を添えておいた。
お嬢様が機嫌よくなる花だ。
花言葉は知らない。
ただ、何度も世界を滅ぼされた結果、これを置くと紅茶の時間が平和になることだけは覚えた。
「…………紅茶も花もわからなかった頃が懐かしいなぁ」
我ながら、ずいぶん偏った知識ばかり増えたものだ。
お嬢様は花が好きだ。
正確に言うと、花そのものより、そこに込められた意味を好んでいるように見える。
俺には正直、花の種類なんてほとんどわからない。
それでも、機嫌が良くなる花と、機嫌を損ねる花くらいは覚えた。
命がかかっていると、人間はわりと賢くなる。
ふと、温室の奥へ目が向いた。
いつもの白い花とは違う。
他の花の陰に隠れるように、小さな花が咲いていた。
「あれ。こんなのあったっけ?」
淡い紫に、ほんの少し銀色が混じったような花弁。
派手ではない。
けれど、不思議と目を引く。
どこかで見たことがある。
「……ああ。お嬢様が、俺につけさせるブローチと同じやつか」
お嬢様は気まぐれに、俺の胸元へ小さな花のブローチをつけさせることがある。
『貴方、放っておくと本当に何も気づかないものね』
そう言って、いつも不機嫌そうに俺を見上げる。
『その間抜け面で私の後ろに立たれると、私の品位まで疑われるわ』
『だから、せめて飾りくらいはつけておきなさい』
言い方はひどい。
でも、なぜかその時だけは、お嬢様の指先が少しもたつく。
襟元に針を通すだけなのに、妙に時間をかける。
顔を近づけるくせに、目は合わせない。
最後に形を整える時など、まるで俺ではなくブローチに文句を言っているみたいに、小さく唇を尖らせる。
たしか、最初は白い花だった。
それがいつからか、淡い紫の花になった。
銀色をひとしずく落としたような、不思議な色の花。
何度やり直しても、お嬢様は気まぐれみたいな顔で、必ず一度はそれを俺の胸元へ飾ってくる。
俺には花の意味なんてわからない。
だから、その変化に深い意味があるとは思わなかった。
ただ、ひとつだけ覚えている。
その花をつけた後のお嬢様は、いつもよりほんの少しだけ、俺への文句が減った。
「こんな端っこに追いやられてるなんて、なんか他人事じゃないな」
思わず苦笑する。
この屋敷に拾われたばかりの俺も、似たようなものだった。
どこにも根を張れず、ただ目立たない場所で枯れかけていた。
俺は花に指を伸ばし、そっと触れる。
「可哀想に。でも頑張れよ。お嬢様は我がままで、面倒くさくて、口も悪いけど」
そこで、花弁がかすかに揺れた。
「なんだかんだ、可愛い人なんだぜ?」
「……誰が面倒くさくて口も悪いのかしら?」
背筋が凍った。
いつからそこにいたのだろう。
いや、今はそこを気にしている場合ではない。
むしろ、聞かれたのが最後の一言ではなかったことを祈るべきだった。
「あ、やべ」
反射的に手を引いた。
ぽきり。
指先で、嫌な音がした。
恐る恐る手元を見る。
淡い紫の花が、茎の途中で折れていた。
「…………」
終わった。
いや、世界が終わるほどではないかもしれない。
でも、俺は終わった。
無言で折れた花を摘み上げ、ハンカチに包む。
証拠隠滅ではない。
断じて違う。
せめて綺麗なまま謝罪の場へ持っていこうという、使用人としての誠意である。
たぶん。
後で謝ろう。
できれば死ぬ前に謝ろう。
そう覚悟を決めて、俺は温室の入口へ向かった。
◆◆◆◆◆
「リヨン。私を迎えに来るなんて、いい心がけじゃない」
温室の入口で、お嬢様が俺のこの世界での名を呼んだ。
本当の名前はリョウなのだが、異世界翻訳のバグなのか、なぜかうまく伝わらなかった。
以来、俺はリヨンである。
目の前に立つリリアナお嬢様は、今日も完璧だった。
黒い髪は絹のように背へ流れ、白い肌は温室の光を受けて淡く透けている。
真紅の瞳は、こちらを値踏みするように細められていた。
ついさっき俺の独り言を聞いていたはずなのに、その顔には何食わぬ高慢な笑みが浮かんでいる。
扇子を持つ指先が妙に機嫌よく柄を撫でているのは、俺への嫌がらせを思いついたからではないと信じたい。
誤解を自分から連れてくるような容姿。
黙って立っているだけで、周囲が勝手に悪役だと判断しそうな雰囲気。
実際、ラスボスなので間違ってはいない。
「お待ちしておりました」
俺は何事もなかったように頭を下げ、用意していた席へ案内した。
ついでに、ポケットの中のハンカチを全力で意識の外へ追いやる。
中身については、まだ死刑判決が下っていないだけで、無罪になったわけではない。
椅子を引くと、お嬢様は当然のようにそこへ腰を下ろした。
「忠犬ぶりは、ちゃんと評価してくださいね。具体的にはご褒美とかで」
「そうね。考えてあげてもいいわ」
お嬢様は席に着き、紅茶に口をつけた。
ほんの少しだけ、口角が上がる。
勝った。
温度は完璧だ。
「相変わらず、淹れる紅茶だけは悪くないわね」
「ありがとうございます。死ぬほど練習しましたので」
「……そう」
お嬢様は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
いつもの高慢な笑みとは違う、何かを飲み込むような沈黙だった。
けれど次に顔を上げた時には、もう普段のお嬢様に戻っていた。
「この白い花を添えたのも良いわ。『限りない献身』。今の貴方には、なかなか似合っているのではなくて?」
「ありがとうございます」
意味は知らなかった。
いつも機嫌が良くなる花だから選んだだけである。
余計なことは言わない。
俺も成長したのだ。
しばらく当たり障りのない会話を続ける。
今日の天気。
ご当主様の予定。
新しく入った菓子の話。
王都で流行っている詩集の話。
どれも、安全圏。
爆発物なし。
たぶん。
そして俺は、本題に入ることにした。
「そういえば、メイドのクリスが言っていたのですが」
口にした瞬間、空気が冷えた。
お嬢様の足元から、黒い靄が、ちろりと蛇の舌のように伸びる。
早い。
まだ本題に入ってすらいない。
「……メイドの、クリスから?」
お嬢様が微笑む。
目が笑っていない。
「仲がよさそうで、何よりねぇ」
まずい。
クリスは地雷だったらしい。
以前、王太子周辺の情報を探るため関係者に近づいた時、裏切りと判断されて粛清されかけた記憶が蘇る。
俺は即座に舵を切った。
「仲良くはありませんよ。むしろ、付き合いが悪い上に地味な男だと陰で言われているくらいです」
自分で言っていて少し泣きそうになった。
だが事実である。
俺は世界滅亡回避に人生を捧げているので、職場恋愛イベントなど発生する余地がない。
「本当かしら」
「俺が女性と二人で楽しそうに話しているところ、見たことあります?」
「……」
「それこそ、俺の相手をしてくださるのは、心優しいお嬢様くらいです」
靄が少し引っ込んだ。
効いている。
「そう。そうよね」
お嬢様は満足げに扇子を開いた。
「貴方みたいな鈍感で、どうしようもなくて、放っておけばどこかで野垂れ死にそうな男を相手にする女なんて、聖母のように優しい私くらいのものよ」
言いすぎでは?
でも靄は消えたので、俺は黙って受け入れた。
世界平和のためなら、俺の心くらい安いものだ。
「いつもありがとうございます。それで、お嬢様」
「なにかしら」
「お嬢様がご結婚されるなら、どのような方を望まれるのですか?」
よし。
自然だ。
今度こそ自然に聞けた。
お嬢様は、扇子の向こうで目を細める。
「ふうん」
何かを期待するような声だった。
「つまり貴方は、私の好みの殿方が気になるのね?」
「はい。私のこれからの人生にも関わりますので」
「っ……!」
お嬢様の肩が、小さく跳ねた。
あれ。
なぜか機嫌が急上昇している。
「とても良い心がけだわ。ええ、とても。そこまで言うなら、仕方ないから教えてあげる」
「ありがとうございます」
お嬢様は、少しだけ身を乗り出した。
扇子で顔を隠しているが、耳が赤い。
「まず、私だけを見なさい。他の女を見ては駄目」
「はい」
「次に、私だけと話しなさい。他の女と楽しそうに話しては駄目」
「はい」
「それから、私のことをずっと考えるの。他のことなんか考えていては駄目」
「はい」
重い。
要求がかなり重い。
だが、よく考えると、俺はだいたい今もそんな生活をしている。
見ているのはお嬢様のラスボス化フラグ。
話しているのもお嬢様中心。
考えていることもお嬢様のハッピーエンド。
なんだ。
もう条件を満たしているじゃないか。
使用人で、拾われた身で、異世界から落ちてきた身元不明の男で、お嬢様の結婚相手としてはスタートラインどころか、出場資格すらないという点を除けば。
「最後に」
お嬢様は扇子の陰から、ちらりとこちらを見る。
「告白は、やはり男性からするべきね。ロマンチックな伝え方なら、なおいいわ」
「なるほど。覚えておきます」
「……それだけ?」
「え? はい」
「これを聞いて、私に何か言いたいことはないの?」
ある。
めちゃくちゃある。
たとえば、条件に合う男性がこの世に存在するのかとか。
お嬢様と結婚する相手は精神力が強くないと厳しいのではとか。
ロマンチックな告白とは具体的にどの程度の演出を求めているのかとか。
ただ、それを言えば死ぬ気がした。
「今のところは、特に」
「…………そう」
低い声だった。
温室の空気が、ぴしりと鳴った気がした。
次の瞬間、黒い靄が床から噴き上がる。
「あっ」
まずい。
これは見覚えがある。
かなり終盤のやつだ。
ラスボス化ゲージが臨界に近い。
「私は、ずいぶんと気の長い女になったと思っていたのだけれど」
お嬢様がゆっくり立ち上がる。
背後に集まった靄が、翼のような形を作り始めていた。
「どうやら、まだ足りなかったようね」
あ、これは駄目だ。
今回も失敗。
また見慣れた天井からやり直し。
そう思った時、ポケットの中で何かが指に触れた。
折れてしまった花だ。
そうだ。
謝っておかないと。
どうせ戻るとしても、怒らせたまま終わるのは後味が悪い。
「最後に一つだけ、よろしいですか?」
「……何かしら」
「どうしても、お嬢様に伝えておきたいことがありまして」
お嬢様の背後で、黒い翼が広がる。
空間が軋む。
温室の硝子に、ひびが入る。
時間はほとんどない。
俺はハンカチを取り出し、そっと開いた。
折れてしまった、小さな紫の花。
「これを」
お嬢様の目が、大きく見開かれた。
「温室の奥で見つけた時に、つい」
言いながら、頭を下げる。
「すみません。ずっと伝えようと思っていたんですが、言い出せなくて」
静かだった。
世界が滅ぶ直前とは思えないほど、静かだった。
なかなか終わりが来ない。
不思議に思って顔を上げると、黒い靄は跡形もなく消えていた。
お嬢様は、震える指先で花を見つめている。
「……それが、貴方の伝えたいこと?」
「はい」
「ずっと?」
「はい。ずっと、気になっていました」
「そう」
お嬢様は、ゆっくりと息を吸った。
「ずっと、想っていたのね」
「……ん?」
何かがずれた。
致命的な何かが、今、音を立ててずれた気がする。
「お嬢様、念のため確認しますが」
「いいの」
彼女は俺の言葉を遮った。
その瞳には、さっきまでの怒りも、冷たさもない。
ただ、泣きそうなくらい嬉しそうな光があった。
「もう、いいの。言葉にするのが苦手な貴方らしいわ」
「いや、あの」
「この花の意味を知っていて、私に渡したのでしょう?」
「意味?」
お嬢様は花を両手で包み込む。
まるで、世界で一番大切なものみたいに。
「『言葉にできないほどの愛情』」
俺は固まった。
そんな意味だったのか。
いや、待て。
俺は謝罪のつもりで渡した。
きっかけだけを見れば、完全に事故だった。
だが、お嬢様は頬を赤く染め、目元を潤ませている。
訂正するべきか。
でも訂正したらどうなる。
今度こそ世界が滅ぶのでは。
俺が全力で迷っていると、お嬢様が一歩近づいてきた。
「私、ずっと待っていたのよ」
「⋯⋯何をですか」
「貴方が、私を選ぶことを」
お嬢様は、俺の胸元に額を寄せた。
じんわりと服が湿る。
泣いている。
そのことに気づいた瞬間、俺の中で必死に並べていた言い訳が、一つずつ崩れていった。
これは勘違いだとか。
花言葉なんて知らなかったとか。
そんなものは、彼女の涙の前では、驚くほど頼りなかった。
「何度も、何度も、貴方は私を助けようとしてくれたわ」
そして、次に続いた言葉で、俺の思考は完全に止まった。
「……覚えているんですか」
「ええ」
お嬢様は小さく笑う。
「最初は、ただの石ころだと思っていたの。拾ったのも、本当に暇つぶし。でも、貴方は変だった。私がどれだけ我がままを言っても、どれだけ面倒な女でも、どれだけ世界を滅ぼしても、次には必ず戻ってきた」
「戻りたくて戻ったわけでは」
「知っているわ」
お嬢様は俺を見上げた。
「でも、戻った後も、貴方は逃げなかった」
返す言葉がなかった。
逃げる選択肢は、確かに何度もあった。
この屋敷から離れることもできた。
お嬢様を見捨てることもできた。
けれど、俺はそうしなかった。
恩があるから。
同情があるから。
好意があるから。
そう言い続けてきた。
でも、それだけで、何度も世界の終わりを見るだろうか。
「見当違いなことばかりして、何度も腹が立ったけれど」
「すみません」
「でも、嬉しかったの」
お嬢様の腕が、俺の背に回る。
「誰も私を見てくれなかった。王太子も、友人も、家の者たちでさえ、私の力や立場ばかり見ていた。でも貴方だけは、私が泣いていることをいつも気にかけてくれた」
胸の奥が、妙に静かになった。
俺はずっと、お嬢様を幸せにしたいのだと思っていた。
王太子で駄目なら別の貴族。
結婚で駄目なら未婚。
社交界が駄目なら静かな場所へ。
彼女のために、いくつもの未来を探した。
そのどれを選んでも、胸のどこかが、いつも小さく軋んでいた。
その軋みの正体を、俺はずっと見ないふりをしてきた。
「お嬢様」
「なにかしら」
「俺、ものすごく鈍感でしたね」
「ええ」
即答だった。
「一度人生をやり直した方がいいくらいには鈍感だったわ」
「そこまで言います?」
「言うわ。何度でも言うわ」
お嬢様は泣きながら笑った。
その顔は、世界を滅ぼすラスボスには見えなかった。
ただ、ずっと待たされて、ようやく欲しかったものを受け取った女の子に見えた。
俺は息を吐く。
異世界ハーレム物語。
正直、ちょっと憧れていた。
だが思い返してみれば、この世界に来てから俺の頭の中は、ほとんどずっとお嬢様で埋まっていた。
彼女の機嫌。
彼女の未来。
彼女の涙。
彼女が笑う方法。
他の女の子を見る暇なんて、最初からなかった。
「リリアナ様」
「……ええ」
「俺は、あなたに幸せになってほしいと思っていました」
「知っているわ」
「でも、たぶん、それだけじゃありませんでした」
お嬢様の指が、少し震える。
「あなたが誰かのものになる未来を考えるたびに、これで正解だと思おうとしていました。でも、何度やり直しても納得できなかったのは、俺の方だったのかもしれません」
「……続けなさい」
「俺は、あなたを見ていました。ずっと。あなたのことばかり考えていました。これからも、たぶんそうします」
お嬢様の瞳から、また涙がこぼれた。
「だから」
俺は、彼女の手ごと花をそっと包む。
「言葉にできないくらい、あなたが大事です」
次の瞬間、抱きつかれた。
勢いがすごかった。
ラスボスの突進だった。
「合格よ」
「ありがとうございます」
「でも、遅すぎるわ」
「すみません」
「本当に、ずっと待っていたのよ」
「はい」
「責任、取ってくれるのでしょうね」
お嬢様が、俺の服をきゅっと掴む。
逃げようと思えば、たぶん逃げられない。
魔力的にも、身分的にも、感情的にも。
けれど、不思議と怖くはなかった。
「責任の範囲を聞いても?」
「未来永劫、私だけを見ること」
「重いですね」
「私だけと話すこと」
「仕事に支障が出ます」
「私のことだけを考えること」
「それだったら、簡単です」
お嬢様が、わずかに目を見開いた。
「俺はもう、ずっと前からそうしていますから」
そう答えると、お嬢様は満足そうに笑った。
「なら問題ないわね」
問題はある。
たぶん山ほどある。
身分差。
ご当主様への説明。
王家への対応。
社交界の噂。
それから、この世界を片手間で滅ぼせるお嬢様の情緒。
だが、これまでの無理ゲーに比べれば、まだ攻略可能に思えた。
少なくとも、正解がわからないまま世界を滅ぼされるよりはずっといい。
「リヨン」
「はい」
「もう、私を誰かに渡そうとしないで」
小さな声だった。
命令ではなく、願いに聞こえた。
だから俺は、今度こそ迷わず頷いた。
「はい。二度と」
お嬢様は満足そうに目を細める。
その瞬間。
温室の花が、一斉に咲いた。
黒く枯れるのではなく。
硝子が割れるのでもなく。
空が裂けるのでもなく。
ただ、光を浴びた花々が、静かに開いていく。
俺はその光景を見て、ようやく理解した。
世界は滅ばなかった。
たぶん、これが正解だったのだ。
「……長かった」
「本当にね」
「お嬢様も覚えていたなら、もう少しヒントをくれてもよかったのでは?」
「十分あげたわ。何度も私だけを見ろと言ったでしょう⋯⋯ブローチも、つけてあげたし」
「難易度が高すぎます」
「貴方が鈍すぎるのよ」
反論できない。
お嬢様は俺を見上げ、悪戯っぽく笑った。
「でも、安心なさい。これからは私が、貴方にわかるまで何度でも教えてあげる」
「それ、優しさですか?」
「愛よ」
即答だった。
怖い。
でも、少し嬉しい。
そんなことを思ってしまった時点で、俺もだいぶ手遅れなのだろう。
どうやら俺の異世界ハーレム物語は、絶対に始まらない。
その代わり。
俺は世界で一番面倒くさくて、世界で一番綺麗で、放っておくと本当に世界を滅ぼすお嬢様に、未来永劫仕えることになった。
まあ、いいか。
どうせ、もう逃げるつもりもない。
世界が終わる時、俺はいつも彼女の泣き顔を見ていた。
けれど今、目の前にいる彼女は笑っている。
それだけで、この長すぎるやり直しが、ようやく終わったのだとわかった。
彼女は今日もラスボスだ。
ただしこれからは、世界のラスボスではなく――俺だけのラスボスである。
本編の後日譚
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前日譚※甘くないので注意
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