第五話 少女再び
「大正解。また会ったね、冬四郎」
嬉しそうに少女が笑い、目隠しをやめた。
振り返ると、あの夜見た優しい笑顔がそこにあった。
「元気にしてた?六波羅の武士さん」
あざみだ。
妖で、狐の。
「お?なんか前よりおしゃれな着物だね。どっか行くの?行くなら私も連れてってよ」
まぎれもない。見間違えるはずもない。
あの夜と同じ浅紫色の着物姿で、頭には手ぬぐいが巻かれている。
しかしながらよく見ると、中でぴょこぴょこと狐の耳が揺れるのが分かった。
祭りの灯りではしっかりと見られなかった美貌が、日の光の下で俺に笑いかけている。
繊細な指先が笑顔の真横で狐の形を作り、ふりふりと見せびらかして。
「こーら、いつまでも見惚れてるんじゃないの!」
「うわっ」
頬をつねられた。
微かな鈍い痛み。夢じゃない。現実だ。
あざみは少しだけ頬を膨らまして、形の良い眉をひそめている。
手ぬぐいから僅かにこぼれた前髪は、確かに金色だった。
「あ、また見惚れてる。もう……そんなに私が気に入ったの?」
「っ……う、うるせぇっ」
「ふふふ、愛いやつよのぉー」
「いいから離せって……!周りの目が……!」
頬をつねったまま捏ねてくる柔らかい指を振り払えず、俺は目線だけを周囲に走らせた。
こんなに美しい少女が、通りのど真ん中にいるのは確実に目を引くはずだ。
「あ、れ…?」
「ようやく気づいたの?夏祭りの時と同じ、人避けの術だよ」
あざみの言う通り、通りで佇んで騒ぐ俺達に、通行人は誰も目をくれない。
それどころか、誰も彼もが無意識に俺達を避けて歩いているようだった。
まるで都の日常から俺達だけが切り離されたような、不思議な心地がした。
「結構すごいでしょ?君にはどうしてか気づかれたけど」
「……分かったから、ちょっと物陰に来い」
「へぇー?初心だと思ってたのに、いきなりそういうことするんだ……」
「そっ……!?し、しねぇよ!何もしない!ほら、いいからっ」
「はいはい」
質の良い着物の袖を軽くつまみ、あざみを七条の大通りから外れた小さな路地へと連れていく。
人避けの術とやらがあっても、俺が気づいたように万が一ということがあるのだ。
こいつが頭に手ぬぐいを巻いて狐耳を隠しているのも、そのためだろう。
路地に入って少し進んで立ち止まる。周辺に人の気配はない。
俺は視線を地面に落とし、気づかれないように深呼吸して、問いかけた。
「……何でここにいる」
「君こそ、何で目を逸らしてるの?」
「お、俺はいいんだよ。それより何でだ。祭りは終わったぞ」
「前も言ったでしょう?」
「……現れたいから現れた。妖なんてそんなもの」
「正解。って、もしかして私の言ったこと全部覚えてるの?うわー……」
俺は地面を睨んだまま、黙りこくった。
あざみはそんな俺の前で、くすくすと楽しげに笑っている。
頬と目の周りが、異常に熱い。
汗を拭おうと着物の懐に手を入れ、持っていた巾着袋に気付いた。
「……あ、あざみ」
「んー?」
「これ、返す」
「へ?返すって……何これ?」
「祭りの夜の忘れ物だよ。開けてみろ」
あざみは小さな巾着袋の紐を緩め、中を覗き込んだ。
そのまま数秒固まり。
「ぷっ、く……くふふ……!」
「わ、笑うんじゃねえ!お前が落として帰ったんだろ!」
「いやいや、これ術用のただの葉っぱだし。霊力を通しやすくはあるけど、ただの葉っぱ。そ、それを大事そうに、袋に入れるって……あははは!」
「…………!」
俺の巾着袋を胸元に握りしめ、あざみは綺麗な声で笑った。
細い肩が揺れる度に、手ぬぐいの中で狐耳もふるふる震えるのが分かる。
ただ快活に笑っていても、やはり見惚れるほどに美しい。
「ふー、笑いつかれた。こんなに笑ったの久しぶり。冬四郎は面白いね」
「……勝手に言ってろ。俺の用件は終わりだ」
「あら、そう?じゃあこれで。さよなら、武士さん」
「えっ、おい待て……」
あざみは俺の制止を聞かず、背中を向けてすたすたと路地の奥へ去っていく。
そして巾着から出した木の葉をひらひら揺らせば、周囲にぼわんと煙が立ち込めた。
行ってしまう。せっかくまた会えたのに。あざみが行ってしまう。
「待て!待てって!あざみ!!」
急な別れに俺は思わず煙の中へ走り、片手を伸ばした。
「はい、待ちまーす。なーに?冬四郎」
煙の中で待ち構えていた、満面の笑み。
伸ばしたままの俺の掌に、小さな掌が重ねられた。
「…………」
「へぇ、冬四郎って手おっきいね。それにごつごつ。武士だから?」
「…………」
「ふふふっ…それで?わざわざ呼び止めて、まだ何か用なの?」
からかわれっぱなしで、もう言葉もない。
俺の指に絡んでくる細指が、ほんのりと暖かい。
引き剥がそうと手を引くと、あざみはそのまま間近へ寄ってきた。
美貌から目を逸らして俯いても、着物の胸元を押し上げる膨らみが目に入ってしまう。
つい見つめていると襟が少しだけくつろげられ、真っ白な柔肌が――
「えへへ、優しくしてね?」
いかん。もう駄目だ。
これ以上こいつの調子に合わせていると、気が変になりそうだった。
「……お前、暇なのか」
「うん。いつも暇してるの」
「じゃあ……」
「じゃあ?」
俺は唾をごくりと呑み込んだ。
妖であっても、狐であっても、あざみは女だ。
言葉を絞り出すのに、とてつもない勇気が必要だった。
「い、市場でも行くか」
「はい?」
あざみが固まった。
なぜか気まずい沈黙。
「……ぷぷっ、く、く……ふふふっ……」
「っ!!……!!」
「いいよ?その代わり、いっぱいおごってね」
「わ、分かった!」
「あー、やっぱりまた出てきてよかった。君ってホント面白いよねぇ……」
「ちょっ、こら……!だからお前っ、俺の腕に……!」
「んー?なになに?何のこと?」
夏祭りの時のように、あざみが俺の腕に抱きついてくる。
気のせいか以前よりも、抱き着く力が強い。
着物の中で柔らかく潰れている、気がした。
それに何か香でも焚いているのだろうか、ふんわりと包み込むような良い匂い。
「…このむっつりすけべ。口元にやけてる」
「そ、そんなことより……えー……そう、人避けの術だ。これ、ちゃんと効いてるんだろうな」
「はいはい大丈夫ですよ。ほらほら、市場とやらへ連れてってよ」
「……ああ」
「あ、遠回りしてもいいからね」
「……しない。真っ直ぐ行くからな」
妖の少女のからかいをやり過ごしつつ、俺はよたよたと路地を市場の方角へと歩き始めた。
やっぱり遠回りしようかと、何度も考えながら。
次回、「第六話 あざみとの時間」