第二話 六波羅南組
祭りの夜が明け、正午を過ぎた頃。
南北を走る都の大路には、まだ大勢の人がうろついていた。
居残る露店に群がり、これが欲しい、買うからもっと安くしろと盛んに声を上げている。
欠伸を噛み殺しながら警邏していても、祭りの余韻が残っているのが分かった。
(楽しそうで何よりだ)
人のざわめきを眺めるのは、嫌いではなかった。
厄介ごとさえ起きなければ、都の警邏はいたって気楽で面白いものだ。
そう、厄介ごとさえ――
「あざみ、ね……」
どこにでもありそうな名前が、つい口から漏れる。
俺は立ち止まり、手に持つ木の葉を眺めた。
昨日あの妖の――狐の少女が残していったものだ。
水も吸えない葉っぱ一枚など、長く保つものではない。
だがこの葉っぱは、昨日よりも力強い生命を漲らせているように見えた。
『私はあざみって言うの。じゃあね、冬四郎』
まだ目蓋の裏に、あの笑顔が焼きついている。
眺めている内に無性に気恥ずかしくなり、俺は巾着袋に木の葉を戻して懐にしまった。
馬鹿なことをやっていると、自分でも思った。
都の五条から九条までを見回り、治安を守る六波羅南組。
五条の東端にあるその南組の詰め所に戻ると、朝方にいた同僚達も姿を消していた。
いつもならば、俺と同じ藍染の着物を纏った職員が、常時数人は待機している。
祭りが終わった翌日だから、詰め所待機組は皆して早引けしたのだろう。
ほかの警邏の連中も、まだ帰ってきていないようだ。
詰め所の座敷には、俺を除いて職員が一人しか残っていなかった。
「お疲れ様です、権座さん。冬四郎、いま戻りました」
「うん……?おう、冬か。お帰りさん」
机に突っ伏していた初老の巨漢が頭を上げ、眠そうな顔で俺に応答する。
六波羅南組の警邏隊長、権座さんである。
生え散らかした無精髭と人並み外れた体格のせいで、熊が座り込んでいるようにさえ見える。
しかしそれでも、巨体には濃い藍染の着物がよく映え、大力の荒武者という風格がある。
都を警邏し、罪人を追捕する六波羅には、ぴったりの人だ。
「どうだった、祭りの後は」
「普通です。揉め事もなくて、ただ散歩して終わりましたよ」
「そうじゃねぇ」
「えっ?」
「あのどんぶりに残った水あめよぉ、結局全部食ったのか?」
権座さんが意地の悪い笑みを毛むくじゃらの顔面に浮かべ、にたにたと問いかけてくる。
「まあ、一応……」
「まったく、真面目な顔して遊ぶ時は遊ぶじゃねぇか。んん?」
「……すんません」
「まあ、儂も馳走になったから許すけどな。祭りなんだから少しくれぇいいもんよ」
「ははは……」
銭を出して買ってやった水あめを、あの狐は結局数口だけ食べて丸々残していった。
その直後に喧嘩の仲裁へ呼ばれた時、俺はどんぶりを持っていってしまったのだ。
権座さんだけでなく同僚たちにも笑われ、喧嘩が片づいた後で全員に振る舞う羽目になった。
残った分は、持ち帰って夜食にした。
「あーあ、儂も屋台で何か買ってりゃよかった……公家どもめ、急に呼びつけやがって……」
「宴の護衛なら、美味い物食えたでしょう」
「んなわけあるか。あいつら、俺らには膳の一つも構えやしねぇ。わざわざ管轄外の三条まで行ったんだぞ?ふざけてるぜ」
「ご愁傷さまです」
「おう、お前さんの水あめが無かったら飢え死にしてたとこだ……ところで冬よぉ、この文書の始末つけたら、儂も帰るからな」
「ええ。今日は俺が居残ります。夜回り組が出勤して来たら帰りますけどね」
「悪いな。ふあぁぁ…まだ結構屋台残ってんだろ……帰りにガキどもに土産でも買って……」
眠そうな巨体が大きな欠伸を一つこぼし、机の上の文書の束に向き直る。
傍目にひどく不釣り合いな有様だが、この人は南組の警邏隊長。
読み書きの量は、下っ端の俺よりむしろ多いくらいだ。
俺も自分の定位置に行き、太刀を外して自分の机に突っ伏した。
祭りで忙しく働きまわった後だ。正直、書類仕事もやる気になれやしない。
「祭りの直後は、暇ですね」
「いいことだぜ。どうせ、明日には祭り関連の訴状やら何やらがどさっと回ってくる」
「……そうですね」
「そりゃ、たまには水あめも食いたくなるわなぁ?」
「……すいません、ほんと」
「で?誰と食ってたんだよ?あの水あめのどんぶりは。一人じゃあるめぇ?女だろ?んん?」
「あ、あれ、あれは……えー……そう、同行してた検非違使のバカと」
「いつもつるんでるあのチビ助と食ったんなら、お前さんがどんぶり抱えてるわけねぇだろ?食い意地すげえ奴だろうに」
権座さんがにんまりと笑いながら、文書を何枚か寄越してきた。
都の近況を東国へ報告する、何でもない調査書であった。始末を手伝えということだ。
俺達は世間話をしながら一刻ほどかけて、仕事を片付けていった。
「……うし、よーやく終わったぁ!まったく、無意味な書類書かせやがって」
「お疲れ様でした、権座さん」
「それでよ、冬四郎さんの水あめ逢瀬のお相手だけどよ」
「ま、またその話蒸し返すんですか……」
「堅物気取ってるお前さんがねぇ。どこのべっぴんだ?」
「そんなんじゃないですから」
「十月後には嫡子誕生ってか?」
「し、知らないですって」
「可愛いぞぉ、自分の子はよ。こう、抱きしめるとくすぐったがってな」
「髭が当たってるからじゃないですか」
「アホんだら。新丸もおとも、そんなヤワじゃねぇ。それに家内もああ見えて……」
よかった、なんとなく話題が逸れた。
ありがたいが、権座さんのいつもの惚気が始まる。始まると長い。
俺はそう悟り、無理やり話題を変えた。
「それにしても、今日一日はこのまま、暇して終わりそうですね」
「ん?まあ、いいこったな。祭りの翌日に気ぃ張りたくねぇよ」
「ええ。暇で銭が貰えるなら、俺はそれで。いつもの六波羅仕事ってやつです」
「けど、よぉ?」
権座さんが案外整った歯並びを見せ、にっかりと笑う。
「こういう暇だとか楽だとか言ってる時ってのはよぉ、だいたい何かが……」
「御免くださーーーい!!冬さーーん!!」
ああ、来た。やっぱり。
権座さんが変なことを言うからだ。
詰め所に高く響く大声に、毛むくじゃらがくっくと唸るように笑う。
俺はため息を一つ吐き、重い腰を上げた。
引き戸を小さく開け、隙間から詰め所の入り口を睨みつける。
裾の短い白藍の着物を身に着け、梓弓を肩にかけたチビ助が、俺を呼んでいた。
「検非違使でーす!御免くださーーーい!!冬さんいますかー!」
「うるせぇ、冬四郎はいない。帰れ」
「あ、いるじゃないですか!よかったー!」
外に出た俺の顔を見つけた途端、花が咲いたように中性的な容貌が綻ぶ。
小さな身体が慌ただしく駆けてきて、ぶつかりそうな距離になって急に立ち止まった。
跳ね散らした髪に、澄んだ瞳と、少し泥がついた頬。
薄い唇が、何言かをひねり出そうとしてぱくついていた。
間近に寄られると少しだけいい匂いがして、この落ち着きのない仕草がどうにも憎めなくなる。
「えっとえっと……あっ、そうだ。冬さん、昨日の祭りはお疲れ様でした!」
「ああ、検非違使もな。ところで夏梅。また厄介ごとじゃないだろうな」
「いや~、ウチを何だと思ってるんですか!」
「うるさい奴」
「あはははっ!やだなぁ、もう」
夏梅。
ぺちゃくちゃと騒々しい、検非違使の下っ端だ。
そして、厄介ごとをいつも運んでくる奴。
「それがですね……実はまた手をお借りしたくて……ダメです?」
「おう、チビ助。妖退治か?いいぞいいぞ、連れてけ連れてけ」
俺が口を開く前に、ぬっと出てきた権座さんが代わりに返事をした。
ありがとうございますっ、と夏梅が勢いよく頭を下げる。
待ってくれ、勝手に話が進んでいるぞ。
「権座さん、俺は詰め所の居残りが……」
「構わねぇよ、儂が残るから。おめぇはそっち片づけたらそのままあがれ」
「ですけど、権座さんだって疲れてるでしょ?」
「なんだ冬、その疲れてる儂に、検非違使の手伝いへ行けってのか?」
「それは……いえ……」
嫌な流れだ。
昨日の今日で、正直どっと疲れているのに。
今日くらいは、面倒な仕事は控えたかった。
「居残りの方が楽でいい。それに、検非違使の使い走りは和田の冬四郎殿って決まっとるだろ」
「いつ決まったんですか……」
「毎度のことだろ?終わったらきちんと検非違使の庁舎に寄ってこいよ。今回も六波羅南組がお手伝いしましたってな」
「……分かってますよ。はぁ……」
「こういう積み重ねが南組のためになるんだ。上手くやってきゃあ、その内別当さまからのお声がけなんてのも……がははははっ!」
「冬さーん、早くこっちこっち!」
視線を戻すと、既に夏梅は詰め所の門を出ようとしていた。
さっさと行ってこい、と俺の背中を権座さんの分厚い手が叩いた。
ため息を大きく吐き、俺は夏梅を追って歩き出した。
六波羅の仕事ではない、都に沸いた妖の退治。
要は、検非違使の手伝いをさせられるのだ。
俺にとっては、いつものことだった。
次回、「第三話 妖退治」