第十六話 鼬の少女
中央大路で待っていた勝五に急用の言伝てを頼んだ俺は、そのまま五条西通りへと戻った。
そして、すぐさま寄ってくる客引きの群れをやり過ごし、なるべく流行ってなさそうな茶屋を見つけて素早く入る。
断じて遊女目当てではない。断じて。頼まれた用事をこなすためだ。
「御免、ちょっといいか?」
「はーい。こんな店に、昼間から珍しい。よいしょっと」
落ち着いた雰囲気を持つ妙齢の遊女が店の奥から気だるそうに顔を出し、俺をじっと見つめて、柔らかく微笑んだ。
「あら、おこしやす。若いのにやるじゃない。六波羅の藍染着て、昼間から女遊びなんて」
「ち、違う、今日は暇を貰った。仕事は昼までで終わりだ」
「あっそ。いいけど、お相手はどうする?まあ、うちは選べるほど数が居ないけど。あ、ちょうど最近入った若い娘がいてね、気が合うかもよ」
「っ……えー、その……あー、水あめくれ」
「"水あめ"?そんな名前の娘、うちにはいないけど」
「いや、そうじゃなくて。食い物だよ。食い物の水あめ。茶屋だったらあるだろ」
俺の注文に遊女が首をかしげた。
「ああ、なるほど。でも、そういう特殊なのは高いわよ。私ならやれなくはないけどね……ふふっ」
「いやっ、いや違うって!水あめ食うの!買って帰るんだって!それだけだ!」
とんでもないことを言って近づいてきた女を、なんとか制止する。
やっぱり駄目だ。遊女の考えは理解できない。
俺は身振り手振りも交えて、水あめをお椀でくれと必死に主張した。
顔が熱い。早く店を出たい。完全に失敗した。距離があっても、六条の方まで行けばよかった。
なんでこんなことやってるんだ、俺は。
「はい、水あめお椀一杯。変わった人ね。普通この通りで茶屋に入って、水あめだけ買わないわよ。冷やかしのむっつりさん」
「分かってるよ……これ代金だ。じゃあ、ありがとな」
「うふふ……次はちゃんとお相手させてよ?あんた初心そうだし、中々男前だから、安くしといてあげる」
「っっ!?ちがっ、みみ、水あめ買いに来ただけだって言ったろ!」
「はいはい、分かってますとも。武士ってほんと、見栄っ張りよねぇ」
「見栄じゃねえよ!じゃあ、そういうことだから」
「はいはい、どうぞご贔屓に」
遊女に笑われながら、俺はそそくさと店を出た。
確かに、この通りの茶屋で水あめだけ買って帰るなんて、彼女たちにとってはふざけた話だろう。
だが、近いからたまたま入っただけで、本当に他意はないのだ。
だいたい女遊びなんて、俺がするわけないだろ。あざみに知れたら、どんな反応を返されることか。
そして、落ち着く間もなく、またも何人かの客引きが寄ってくる。
俺は群がる連中をどうにかかき分けながら、赤い大鳥居へと歩いていった。
境内の端にある先ほどの大きな岩のところまで行くと、老人と少女が岩の上にちょこんと座っていた。
飯綱天神の妖を自称する、不思議な二人組だ。
「……戻りました」
「おう、帰ってきおったか。おつかいすまんな。ん?どうした、顔が赤いぞい」
「いえ……お気になさらず」
「萩乃、受け取っとくれ」
「…………」
腕を伸ばし、水あめのお椀を少女の方へ手渡す。老人が話の腰を折り、食べたいとねだった品だ。
老人は木箸で軽く水あめをかき混ぜた後、そのままお椀を傾けて水あめを呑んでいく。
年配なのに、喉に引っかかったらどうするのだろうか。
「うまい。んぐんぐ」
「そうですか……あの、さっきの話の続きですが」
「ねえ、本当にあなたが冬四郎なんですか?」
割って入るように少女――萩乃だったか――が岩から身を乗り出し、俺に問いかけてきた。
視線を返すと、気まずそうに目を逸らされる。
軽くそっぽを向いただけの様子が、とても絵になる娘だった。
肩口で切り揃えられた朽葉色の髪が、境内の涼風に小さく靡いている。
少し幼さを残しつつも、あざみに引けをとらないほど美しい。
端正な横顔に少し見惚れながら、俺は言葉を返した。
「……ああ。俺が冬四郎だ。君が俺のこと知ってるのは……」
「狐のあざみがしょっちゅう話すからですよ」
「……そうか、やっぱりあざみが」
あざみの奴、毎日一人で退屈そうにしてる風だったが、話し友達がいたのか。
しかも、俺のことを頻繁に話題にしていたようだ。女の子だから、そういうものなんだろうか。
少しむず痒い。いったいどんな風に俺のことを話したんだろうか。
「な、何にやにやしてるんですか。こっち見ないでください。あと、なんだか変な匂いしますよ」
「ああ悪い。待たせるのもと思って、すぐ前の茶屋で水あめ買ったからだ。あそこ香がきつくて」
「すぐ前のって、あの、下品な女たちがたくさんいるっていう所ですか?」
「……確かに、あまり品がいいとは言えないな。飯綱天神は毎日大勢の人が出入りするから、それ狙いなんだよ」
「知ってます。ここは私たちの飛び地なのに……人間って勝手に集まって勝手に騒ぐんですから」
「飛び地?」
「鼬の飛び地じゃよ。人間の都におけるわしらの領地のことじゃ」
老人がお椀から顔を上げ、口を開いた。
長髭に、こぼれた水あめがついている。
「……鼬の妖、なんですか?」
「そうじゃ。あざみ姫は狐、わしらは鼬。昔から隣同士仲良くやっとる」
「仲良くありませんけどね。鼬と狐は敵同士です」
あざみも確かそんなことを言っていた。
鼬はイヤな一族で、仲が悪いと。
「ん?でも、君はよくあざみと話してるんだろ?俺のことだって知ってたし」
「わ、わたしは別に……あれはあざみがちょっかいかけてくるからです。聞いてもないのに自慢してきて」
「なんじゃ萩乃、少し前までお前も喜んでいっしょに遊んどったろうに」
「それは子供のころでしょう。わたしはもう大人です。狐のあざみみたく、落ち着きなくうろつき回ったりしません」
「はぁ、意地張りめ……頭の固いところが父親に似てきおったな」
「似てません。意地張りでもないです」
「ならば、お年頃というやつか?カカカ、お前も早くつがいを捕まえんとなぁ……あいたた、髭はやめんか髭は」
萩乃がぶすっとした表情で、老人の長髭を引っ張る。
やり取りを見る限り、どこにでもいる爺さんと孫娘といった感じだ。
俺はその様子を見上げつつ、少し肩の力を抜いた。あざみと同じで、害のある妖ではないらしい。
それに話の限りでは、あざみたちとそこまで険悪という風でもなさそうだった。
「冬四郎殿、上がってこんかい」
「え?」
「岩の上じゃ。ほれ、ひんやりとして心地ええぞ」
老人がカッカと笑って大岩を杖で小突き、俺を手招いた。
少し迷ったが、年長者の誘いを断るわけにもいかない。
俺は大岩の上へとよじ登り、ご老体の対面に座った。
萩乃が少しだけ腰を上げ、じりじりと俺から距離を取る。やはり警戒されているようだ。
「この飯綱天神は元々鼬の領地なんですか?」
「土地だけな。わしらが人間の都に来るときは、ここに飛んでくるんじゃ。霊力が安定しやすい場所じゃからな」
「建物や赤い門は、後から人間が勝手に建ててありがたがってるんです。迷惑な話です」
「ここは聖域で、妖は近寄らないと都の人では言いますが…」
「聖域ゆえ近寄らぬというのは勘違いじゃの。わしら鼬の霊力が満ちておるから、半端モノは怖じて入ってこれんだけよ」
「人間の都に迷い込むような低俗な妖は、だいたい臆病です。わたしたちみたいな上位の妖の残滓が濃い場所には、近寄ろうとしません」
「へえ、なるほど…」
俺は検非違使じゃないので妖の詳しいことは分からないが、どうやらこの神社が聖域扱いされているのは鼬の力のおかげらしい。
「他の神社も、鼬の領地なんですか?近くだと七条の猫神神社がありますが。それと三条にも」
「いいや。こっちの飛び地は、この飯綱天神しか持っておらん」
「猫神って名前なら、猫の持ち物じゃないですか?わたしたち鼬とは無関係です」
「猫の妖?」
「ああ、ずっと昔おったな。今はあっちじゃ見かけんが。それは美しい白猫の一族じゃった。おなごは皆すらっとして、その割に尻がなかなか…あいたた、これ萩乃」
「下品なお話は嫌いです、お爺さま」
「ははは……」
さわさわと木々の擦れる音を聞きながら、鼬の妖二人と話を続けていく。
老人は落ち着いた眼差しで真っ直ぐに俺を見つめながら話すが、萩乃は視線を合わせようとすると慌てたように目を逸らしてばかりだった。
「ほう、あざみ姫がそんなことを……まあ、おおむねその通りじゃ。なーんも無いのぉ、あっちの世界は。カカカ」
「あざみが贅沢なだけです。人間の騒々しい都より、わたしたちの静かな世界の方がマシです」
「そうかのぉ。ここの門前ではしゃぐおなごたちのええ匂いと来たら…それに、東に足を伸ばせば美味そうな飯の匂いもしてたまらん。萩乃も一回はうろついてみんかい」
「嫌です。鼻が曲がります。死にます」
「カカカ。すまんな冬四郎殿、世間知らずな孫娘よ」
「お爺さまが変なだけです」
「苦労してるんだな」
「……別に、です」
楽しそうに話す老人と、それをたしなめる少女。
妖の世界の話は、あざみからもほんの少ししか聞いたことがない。
聞き慣れないことばかりで、二人のやりとりを眺めているだけでも楽しいものだった。
「そういうわけで、狐と仲が悪いというのは今はもう形だけの話じゃな。一応そういうことにしとかんと、お互い格式があるもんでな」
「違います。鼬と狐は不倶戴天です。狐で尊敬できるのは牡丹さまだけです」
「今はもうその牡丹の宮とあざみ姫しかここらにはおらんじゃろ、狐は。両方と親しいのなら、どこの狐と仲が悪いんじゃ?」
「あざみは意地悪侵略狐なので、嫌いです」
「はあ…すぐこれよ。冬四郎殿、わしの苦労が分かるか。息子も嫁も孫も、皆この意地っ張りじゃ」
「ははは、そうなんですか……」
俺は曖昧に笑いながら、相槌を打った。
萩乃は先ほどから、俺の顔に目を向けては逸らしてを繰り返している。
俺はなんとなく、話を振ってみた。
「なあ、えーと……萩乃」
「……呼び捨てですか」
「あ、すまん、萩乃さん」
「……べ、別にいいですけど、呼び捨てでも。なんですか…………冬四郎」
「俺の名前は、あざみが話したんだよな?」
「そうですよ。聞いてないのに。他にも色々と聞かされました」
「ご老体も、あざみとはよく話されるんですか?鼬の長で、格式がおありなんでしょう?」
「!!」
「カカカ……ええところに気付いたのぉ」
「へ?」
老人が長髭をしごき、肩を揺らして笑う。
そして、長い杖を突き立てて跳ね上がり、大岩から軽々飛び降りた。
「さて、水あめも食ったし、わしはそろそろ帰るとするか」
「そ、そうですねっ。人間と長々お話してると、人間の匂いがつきます。わたしも……」
「じゃあな、萩乃。お目当ての冬四郎殿と仲ようやれ」
「はい!?わわわ、わたしは別に……」
「どろん」
「あっちょっと!お爺さま!待ってくだ……あっ!」
唖然と見守っている内に老人は掻き消え、大岩の上には俺と萩乃だけが残された。
二人きりだった。境内の喧騒はいつの間にか静まり、見渡す限りでは鳥居の内側に人影は見えない。
「……えっと」
「ではこれで。わたしも帰りますので。もう会うこともないでしょうけど」
「あ、ああ……」
萩乃は細長い木の葉を取り出し、何かを念じ始める。
あざみが使ってるのと同じ、術用の木の葉だろうか。
「…………あれ?あれっ?えい、えい!か、帰れない……どうして!?」
「…………」
「っ!……っ…っ!!」
「…………」
「……!」
気まずい沈黙が流れる。
そのまま何も言えずじっとしていると、きゅるるるっと腹の虫が鳴いた。
俺の腹ではなかった。
萩乃の形の良い頬が、朱色に染まる。
「なあ……」
「い、嫌です」
「いや、まだ何も言ってないぞ」
「あざみに聞いてます。南の通りに市場があって、珍しい物とか美味しい物がいっぱいあるんでしょう。行きませんから」
「………」
「あと、あとお爺さまが東の通りにお食事ができるところがたくさんあるとかないとか。に、人間って、そんなのばっかりですね」
「………」
「ぼぼ、ぼこぼこにされたくないですし、行きませんから」
真っ赤な顔で目を回しながら、萩乃が矢継ぎ早に言い募る。
女性がここまで慌てふためいているのを見るのは、初めてかもしれない。
あざみとはまた違った少女の新鮮な反応に、俺はつい笑みをこぼしてしまった。
「わ、笑わないでくれますか。これは……そう、お爺さまのせいです。朝から探し回ってたんです。そうですそうです」
「朝から?大変だな」
「っ……ふん」
「萩乃は人間の都、初めてなのか?」
「そんなこと……この境内には、何度も来ています」
「外は?」
「…………」
「その、良かったら案内するぞ。あっちの話を色々聞かせてくれたお礼だ。今日はもう暇を貰ったし、人避けの術をかけてくれれば……」
「馴れ馴れしいですよ、人間のくせに……それにわたし、人避けはあざみほど上手じゃないんです。もし他の誰かに気づかれたら」
「そうか……せっかくこっち来たのにな。なら、何か買ってくる。鶏肉と握り飯でいいか?」
「と、鶏肉……!じゃなくて、だから……その!わたしはあざみほど甘くありません!おなかも減ってませんし、人間の都なんかに興味は……」
くきゅるるるっーー。
「…………」
「…………」
「ま、まあ、目立たない場所でお食事するだけなら、許してあげなくも……です」
「よし、行くか」
鼬の萩乃は不思議と、俺でも気負わずにいられる女の子だ。
大岩から二人して降りながら、何となくそう思った。
年下に見えるからだろうか。それとも、あざみという大きな共通点があるからだろうか。
「……何ですか。人避けの術をかけてるので、あっち向いててください。……冬四郎」
とにかく、今は飯だ。
ちょうど昼飯と夕飯の間の時間だから、どこもそれほど混んではいないだろう。
どこに連れて行ってあげれば、喜ぶだろうか。
術をかけ終わったのか、鼬の少女が遠慮がちに近寄ってきて、大きなため息をついた。
頬には、まだ少し赤みが残っていた。




