第十五話 飯綱天神の妖
「八条周りも、異状なし。次は七条だね、冬さん」
「ああ。何事もなくて何よりだ」
同僚の勝五と話しつつ、八条の西通りの端から七条へと上る、南北の通りを歩く。
吹き抜ける風はすっかり涼しくなり、季節の移り変わりを感じてしまう。
「んー、もう秋だなぁ……」
「うん。天神祭りの時期だね。夏の大駕籠祭りから、あっという間だった」
「俺は結構長く感じたけどな」
手分けして小さな路地を一つずつ見て回り、時には見知った顔の町人に挨拶しつつ、異常がないか警邏する。
六波羅南組警邏隊の、いつもの仕事だ。
網の目のような都の南半分を半日かけてくまなく歩くのは、時には退屈で、時には厄介ごとが押し寄せてくる。
今日は、退屈な日だったようだ。くだらないことで喧嘩する連中もおらず、ただ見回って終わりの午前。
同僚の中でも際立って大人しい勝五と歩いているおかげもあるかもしれない。
「ここのところは夏梅の奴にも捕まらないし、気楽な日が続くな」
「あはは……いつも妖退治につきあってるもんね、冬さん」
「そうなんだよ。あの野郎、自分の仕事に巻き込むわ飯はおごらせるわで、俺を何だと……」
「信頼してくれてるってことでしょ?内裏直属の検非違使と仲良くできるのは、六波羅の武士として悪いことじゃないよ」
それは分かっている。
現にあのチビ助に付き合っているおかげで、検非違使の別当さまから感状でお褒めの言葉までいただいたのだ。
「……ははは、まあ良し悪しあるってところだな。勝五、一回くらい変わってくれてもいいんだぞ。両次のやつでもいいけど」
「む、無理だよひ弱な僕には。妖とやり合うなんて……それに夏梅さんも、僕や両さんより冬さんの方がいいでしょ?」
「そうか?」
「そうだよ」
勝五と二人で見回りつつ歩き、ようやく五条西通りへと入った。
飯綱天神の大鳥居が目に入ると途端に通りの雰囲気が変わり、華やかな香の匂いと客引きの喧騒が耳をくすぐってくる。
昼前のこの時間帯は、茶屋も兼ねる遊女の廓にとってはかきいれ時である。
着飾った女たちが、都の町人から上京してきた田舎者まで誰彼かまわずに声をかけ回っているのだ。
「……勝五、お前は廓側の見回りな。俺は天神側いくから」
「い、嫌だよ。六波羅の藍染着てても、声かけられるんだもん」
「俺だって嫌だよ…」
苦手な場所の警邏を、同僚と押し付け合う。
この五条西通りを見回るなら、遊女のうろつく騒がしい南側より、飯綱天神のある静かな北側を歩くべきなのだ。
少なくとも俺も勝五もそう思っていた。
「…そう言えば、冬さん。最近調子よさそうだね?」
「へ?」
「詰め所での文書仕事も、こういう警邏も、なんだか前より生き生きしてる…気がする」
急に何を言うかと思えば。
確かに最近妙にやる気が出てくるが、かといってこの通りで遊女をかわしつつ歩くのは嫌だ。
「大駕籠祭りの後はずっとぼーっとしてたのにね?」
「…なんだよ。もう弄り飽きたと思ってたのに、また水あめの相手がどうこう言い出すのか?」
「僕はもう言わないよ。冬さんにも色々あるんだろうし」
「……まあな」
「でも、やっぱり目に見えて調子いいと思うよ、最近の冬さん。仕事も早いし、何より……笑ってることが増えた」
小柄な同僚からの指摘に、頭が痒くなる。
あざみと出会ってから、確かに色々悩んだりしたが、橋の一件で少し吹っ切れたのだ。
あれからまた会えない日が続いているが、きっとまた会えるという確信が、なぜかある。
しかし、夏梅にも言われたが、俺はやはり結構態度に出る奴なんだろうか。
「なら仕方ねぇ。今日は俺が遊女側行くわ」
「え?…あ、いや、そんなつもりで言ったんじゃないよ?」
「分かってるよ。けどそんな持ち上げられたら、男見せないとだろ?」
「そっか…ふふっ。じゃあ、よろしく。多分僕の方が早いから、中央大路で待ってるね?」
「おう、じゃあな」
厄介ごとは、気分が良い時に終わらせるに限る。
俺は勝五と別れ、五条西の大きな通りを、廓の並ぶ南側に沿って歩き始めた。
「あら、六波羅の男前さん!今日は非番かしら」
「い、いや、警邏中だ」
「真っ昼間からご苦労だねぇ。どうだい?たまには店の中までじっくり見回りしてっとくれよぉ、あははは!」
「え、えっ…いや御免こうむる。勘弁してくれ」
「いいじゃんいいじゃん。藍染着て遊ぶ武士なんて結構いるよ~?この前だってさぁ…」
「俺は遊ばないから…ていうか、袖っ、袖引っぱるなってば!歩きづらいから!仕事中だから!」
数歩歩く度にきゃーきゃーと甲高く媚びた声がかかってくる。やっぱり苦手な場所だ。
だが、廓の密集するこの通りは女や銭がらみで揉め事が起きやすい場所でもある。
都の治安を守る六波羅として、一応見回らないわけにもいかないのだ。
それに、前のようにあざみがふざけて遊女の真似しつつ、声をかけてくる可能性だって――
「……狐の匂いじゃ」
遊女の群れをかわし、とある茶屋の前を通りすぎようとした時。
しわがれた老人の声に、思わず足が止まった。
見ると、赤い布が敷かれた長椅子に、小さな老人が茶も飲まずにただ腰かけている。
脚の短い長椅子でもつま先が地面から離れているほどに、極めて小柄な老人だった。
しかし、脇に置いてある杖は異様に大きく、俺の太刀よりも長い。
そして、長く垂れさがった髭。老いたしわくちゃ顔に不釣合いなほどに色艶が良く、白髪の一本も混じらない、美しい朽葉色だ。
「………」
「ん?何じゃね?武士殿、わしのような老いぼれに何か用かの」
こちらを見上げる老人の小さな瞳が、見たこともない色に輝いている。
銀色か。瑠璃色か。軽く身じろぎするだけで色合いの変わる瞳は、何とも言い表せない。
思わずじっと見つめ返していると、店先にいた店員に一杯どうだと声をかけられた。
視界の端には、こちらへ近寄ってくる遊女の集団が見える。
まずい。警邏に戻らないと、通りの北側を行く勝五より帰りが大幅に遅れてしまう。
「いえ……失礼しました」
「カカカ、まあ待て」
「うぉっ!?」
足へ引っかけられた杖先に、思わず転びそうになる。
振り返れば、老人が杖を繰りながら長い髭をしごいていた。
「な、何ですか。ご老体。藍染着で分かる通り、俺は六波羅の武士で今は警邏中…」
「飯綱天神に、妖がおってな」
「…な!?」
「どうじゃ。ひとつ見に来てくれんかの」
思わぬ急な頼み事に、頭がこんがらがる。
「……妖?天神さまの境内に、ですか?」
五条西通りの飯綱天神は、この都で最大の神社だ。
神社は聖域。赤い大鳥居の内側に、妖などいるはずもない。
あざみだって言っていた。近寄りたくない、と。
何より、祭りの日以外にもひっきりなしに人が出入りするほどに盛況な場所だ。
昼間に妖が出れば、もっと騒がれて野次馬の群れでも出来ているはずである。
だが、少し前に猫神さまで、出るはずもない妖が出た。だから、もしかしたら――
いや、だけど、この怪しい老人はなぜ、妖のことを俺に。
「ねぇねぇ、六波羅さん。店先で一人ぼさっとして、どうしたの?」
「疲れてるんじゃないの?よかったらうちで休んでいけば?」
「やだ、やめときなさいよこの子のシケた店なんて。色男さん、こっちにしなよぉ」
色々考えていると、遊女が複数人で群がってくる。
客引きの粘り強さは、六波羅の藍染を着ていてもお構いなしだ。
やはりここで長々と問答するのは、無理だった。
「わ、分かりました。案内してもらえますか?」
「おう、ついてこい」
次の瞬間、小柄な老体が大きく宙を舞い、遊女たちの頭を飛び越して着地した。
そしてなにを思ったのか、居並ぶ遊女の尻をさわさわと撫で回す。
「ふむ、触り心地良し」
だが、遊女たちはそんな老人の蛮行に一瞬振り返るも、すぐに俺へと向き直ってきた。
この老人、あんな不埒なことをしたのに、まるで気にされていない。
嫌な予感がした。こういう妙な現象を、俺は既に知っているのだ。
腰の太刀に手がかかりそうになるも、ここは往来、何とかこらえた。
「どうした?ついてこんか」
「……はい」
俺は意外なほどに歩みが早い老人を追いかけ、飯綱天神の大鳥居をくぐっていった。
五条の飯綱天神。
真っ赤な大鳥居で知られる、都で最大の神社。
その境内は、七条の猫神神社のような寂れた場所とは違い、静けさとかけ離れた場所だ。
軽く見渡すだけでも、庭石に腰かけて碁を打つ老人たち、境内を掃き清める巫女たち、石畳を跳んで遊ぶ子どもたちと老若男女多くの人々が見える。
整備が行き届いた境内は、五条以南に住む人々にとっては、適度に落ち着く暇つぶし場所でもあるのだ。
境内を囲むように立ち並ぶ高い木々のおかげで空気も良く、廓通りとはまた違った雅なお香の匂いが漂っているのも趣深い。
つまり、どう見ても、今まさに妖が出ているといった雰囲気ではなかった。
「……ご老体。妖はいそうにありませんが……」
「わしゃ、あの隅っこの大岩が好きでの」
「はい?」
「座り心地がええんじゃ。茶屋の長椅子もまあ悪くはないがな」
俺の質問を無視して、老人が境内の隅へと向かう。
しかたなく後に続くと、目当ての大きな岩に飛び乗るように座った老人は、ほうと一息ついた。
目線の高さが自然と俺と同じくらいになり、老人の不思議な色の瞳が正面からよく見えるようになる。
「ふむ…」
不思議な老人は朽葉色の長髭をしごき、対面する俺をじーっと見つめ始めた。
時折、むにゃむにゃと口を動かしては、地面の砂利と落ち葉を杖の先で弄んでいる。
「ふむふむ…」
「………」
そのまま、少し時間が経った。
老人は目を瞑っては唸り、唸っては目を開ける動作を繰り返している。
一体何につきあわされているんだろう、俺は。一応警邏の最中なんだが。
相手が何も言わないなら、俺から喋るべきなんだろうか。
「あの…」
「っ!ほう、これでも見えるのか…面白い」
「な、何がですか?」
「お主こそ、聞きたいことがあるのではないかの?」
「いやだから、この飯綱天神で妖を見たという話の続きを、お願いしてもいいですか?」
「………」
「もし本当なら、検非違使も呼んで境内にいる人たちを避難させないと」
「………」
老人は何も言わない。
長い杖の先で、境内の砂利をかき混ぜているだけだ。
「……もしかして、からかっているんですか?」
「………」
やはり何も言わない。
何も言わない相手を、それ以上どうこうすることはできない。
色々気にかかることはあったが、今は仕事中だ。
俺は丁重に一礼してその場を立ち去ろうとした。
「……聞きたいことは、そんなことか?」
「…え?」
「茶屋で気付いたろうに。人避けの術のことは、聞かんでいいのか?」
「!?」
今、何て言った?人除けの術?どうしてあざみの術のことを?
「ご老体、あなたは…!?」
「ま、わしらは狐の一族ほど、上手くはないがの。近づき過ぎたり触れたりすれば、一瞬気づかれてしまう。どっちかというと、化ける方が得意でな」
老人が、低い声でくっくっと笑う。
その時だった。後ろから砂利を踏みしめ、近寄ってくる足音。
「はぁ、はぁ、やっぱりここでした……お、お爺さま何をやってるんですか。また勝手にこっちに来て。お母さまが探してますよ」
振り返ってみれば、山吹色の着物を着た美しい少女が立っていた。
肩口で切りそろえられた髪は老人と同じ朽葉色だ。
少し走ってきたのか息が上がっていて、形の良い頬がほんのりと赤い。
背丈や顔立ちに残る幼さから俺よりも一つ二つ年下だろうか、しかしながら袖を口元に寄せて息を整えるしぐさには、妙な色気があった。
少女は軽く深呼吸して、俺を遠回りに避けながら、岩に座る老人に近寄っていく。
「……何ですかこの人間。こんな所にぼーっと突っ立って。邪魔です」
「おお、萩乃。ちょうどええところに来たの」
「お爺さま、まさかまた人間の店でお遊びですか?だめですよ。人間の匂いが移るんですから」
「お前も少し話に混じっていけ」
「え?話?えっ?」
そこでようやく、小柄な少女は俺の顔へと目を向けた。
目と目が合う。老人と同じ色合いの瞳だった。
だがより鮮やかで、木々から差し込む陽光を受けて、美しく煌めいている。
数拍見つめ合った後、小さく息を呑む少女。
萩乃と呼ばれたその少女は俺から距離を取り、少し怯えたような表情を見せた。
「え、え?も、もしかしてこの人間、わたしが見えて…!でも、わたしきちんと人避けの術を…まさか、あざみの言ってた…!?」
「そうじゃ、萩乃。ほんにこういう人間もおるんじゃなぁ。あざみ姫が気に入るわけよのぉ」
状況に、まったく頭が追いつかない。一体、何が起きているんだ。
「カカカ……鼬の飛び地へようこそ、冬四郎殿。わしらが、飯綱天神の妖じゃ」
老人は朗らかに笑い、杖の先でこつんと、砂利を叩いた。




