第十三話 家に来た狐
大橋の上から帰宅するまでにあざみと何を話したのか、正直全く覚えていない。
「へぇー、結構大きいお家。やっぱりお世話する女房とかいるの?」
「……いないです……独り暮らし……」
なぜか鼻血が出たのはおぼろげに覚えているが、そこから先はよく分からずふらふらと歩いてきただけだ。
「ちょっと、冬四郎?」
「うっ……くらくらする……」
「おーい、いい加減に戻ってきてよー。お家の前ですよー?」
「はっ!」
あざみに身体を揺すられ、前を見ると、見慣れた自宅の門があった。
まずい。部屋の片づけは普段からしているので大丈夫だが、一昨日くらいから布団を干していなかった。
いや違う。布団なんてどうでもいい。なんて破廉恥な発想しているんだ俺は。
そうだ。まずはお茶でも出すべきだろうか。
しかし、女性を家にあげた経験などまったくないのだ。どうすればいいのか一切分からない。
「……まあいいや。お邪魔しまーす」
「あ、ちょっ……」
あれこれと悩んでいる内に、あざみが門をくぐり、中へと入っていく。
俺は色々と考えて、とりあえず門をきちんと施錠しておいた。
いや、変な意図はなくて、妖のあざみといることがもし近所にバレたら大変だからだ。
「うひゃー。中庭も広いねー。虫がいっぱい鳴いてる」
「……待ってろ、油持ってくる。足元真っ暗だ」
「うん」
あざみは暗がりで手ぬぐいの中の狐耳をぴょこつかせ、中庭に満ちる虫の音に聞き入っている。
俺は家の中から油と火内石を取ってきて、中庭の灯篭に火を入れた。
二つ、三つと灯りをつけると、夜とはいえ対面して話せる程度の明るさになった。
こうして灯篭を使うのも、本当に久々のことだ。普段夜に人を招き入れたりしないから。
「なかなか風流な灯りだね」
「ああ、父上の趣味だ。こういうの、好きな人だった」
「冬四郎の父さま?今はどこにいるの?」
「三年前に、病で亡くなったよ」
あざみが息を詰まらせるのが分かった。
何を言ってるんだろう、俺は。わざわざ今する話じゃない。
「……ごめん」
「……いや、俺こそ悪い。あざみ、縁側に座って待ってろ。茶でも入れてくる」
「うん、ありがと」
あざみは大橋から帰ってくる道中から、妙に言葉が少ない。
帰り道でもっとちょっかいかけてきたりすると思ったし、家に来たら来たでもっとあれこれ言うかと思ったが。
まさか、あいつも緊張しているのかな。まさかな。それより、この後何をすればいいんだ。
何を話せば。というか、いきなりお茶を出すのって、失礼じゃないよな?
そんなことを考えながら、俺は沸かした茶を湯呑に入れて縁側へ持っていった。
「あ……」
縁側に座る少女に、思わず息を呑む。
あざみは頭の手ぬぐいを外し、美しい金色の長髪をおろしていた。
両脚を抱え込み、狐耳を軽く揺らしながら、少し俯き加減で中庭をぼうっと見つめている。
風で軽くなびく髪が煩わしいのか、時折前髪を横にそっと払う動作が可憐で。
このままずっと、声をかけずに眺めていたいと思うほどで。
「……まーた見惚れてるし。へへへ……」
こちらに気付いたあざみが、にこにこと笑って、手招きしてきた。
灯篭に横から照らされた顔立ちは、やはりとても整っていて、それでいて邪気の欠片もない。
なんだか色々考えていたのが、どうでもいいことのように感じてしまう。
俺は吸い寄せられるようにあざみの隣に座り、湯呑を手渡した。
「おお、湯気が立ってる。ふー、ふー……んー、いい匂い」
あざみは少し真剣そうな顔で、狐耳をピンと伸ばし、湯呑の水面に息を吹きかける。
それが妙におかしく、俺は思わず笑ってしまった。
「なんだ。狐なのに、猫舌なのか?」
「こーら、そういう冗談は言わないの。猫じゃなくたって、熱いものは熱いんだもん」
あざみは軽く冷ました湯呑に口をつけ、一啜りする。
横から見ていると、細く白い喉が上下しているのが分かった。
ちょっとした動作でも金色の髪がさらさらと揺れて、灯篭の光を受けて輝く。
そんな様子を眺めながら俺も、湯気の沸き立つ茶を啜った。
確かに少し熱い。もう少し飲みやすい熱さにしてやるべきだったな。
「……で?」
「へ?」
「私のお茶飲み姿をそんなじーっと見て……ふふっ、何か言うことないのかなぁ?」
「……っ」
俺は誤魔化すように熱い茶を流し込む。
あざみがくすくすと笑い、俺の顔を覗き込んできた。
時折、何かを促すようにこつん、こつんと軽く当たる肘。
俺は少し距離を空けようかと思って、やっぱり思い直した。
「……髪」
「髪?」
「灯篭の光に照らされた髪が、金色だったり、夕焼け色だったりにきらきらと光って、なんつーか……その……綺麗だなって」
「……へへへ。この褒め上手さん」
あざみが、俺の肩を軽くぱしっと叩いた。
虫のりーりーと鳴く声を聞きながら、俺達は二人して茶を啜った。
心地いい沈黙が、縁側に満ちる。
「ずずー……」
「……ずず」
このまま何も話さず、こうしているだけでもいいかもしれない。
俺はそんなことを思いながら、中庭を眺めるあざみの横顔をちらちらと覗き見ていた。
朧げな灯篭の灯りに照らされる美しい横顔から、目が離せない。
「よし、飽きた」
「ほぁ?」
突然勢いよく湯呑を板敷に置いたあざみに、変な声が出た。
「飽きたの。せっかく冬四郎のお家に来たのに、並んでお茶飲んでるだけじゃイヤ」
獲物を狙うような、期待するような目つきが、こちらを見つめてくる。
からかうように狐の耳がぴょこつき、俺の提案を聞くのを待っていた。
そ、そんなこと言われても。俺の頭が急回転を始める。
この一人暮らしの屋敷に、二人で時間を潰す遊びなんてないのだ。
そうだ。部屋の奥に布団がある。いやいやいや違う。まだ早すぎる。何を考えてるんだ俺は。すけべか。
とりあえず、何か言わないと。何か、場を繋ぐような。
「お……」
「お?」
「さっき、五条大橋でい、言ってたよな?」
「え?何を?」
「おさ、おさわり、していいって」
口を開けたままぴしっと固まるあざみ。
終わった。俺は最低だ。最低すぎる。
「いや、そういうんじゃなくてっ!!あの、あれだ。その耳、ぴょこぴょこしてるの見てて、可愛いなって」
「…………」
「じゃない!あの、その……茶を飲んでる時、喉が動いてたろ?なんか、色気が」
「…………」
だめだ。まともに相手の顔を見られない。
手に持った茶の水面が、波打っている。
とりあえず黙ろう。黙ってやりすごそう。
俺はまだぱくつこうとしてる自分の口を、湯呑で無理やりふさいだ。
「…………」
「……っ!」
ちら、と横目で様子を窺う。
あざみは顔を背けて、肩を震わせていた。
ああ、やっぱり。早く謝れ、俺。
「く、くく……ぷっ……」
「っ……ずず、ごくっ……!」
「……つ、つまり、私の耳と喉をおさわりしたいです、って?」
あざみの声が上ずっている。
違う、くない。けど、なんだこれ。
なぜか俺は、無意識にうなずいていた。胸がバクバクして、死にそうだった。
「……仕方ないなぁ……」
「えっ……」
「はいはい、ちょっとだけね?すー、はぁー……」
あざみが小さく息を吸って吐き、すすっとすり寄ってきた。
着物の肩口が擦れ合うほどの距離。
香か何かのいい匂いがして、何度も見惚れてきた美貌が、間近まで迫る。
シミや日焼け一つない、真っ白な肌だ。時間が止まってほしいと、本気で思った。
「ん。まずは耳からにしよっか」
「は、はい……」
「あ、強く握ったら平手打ち二千発だからね」
「は、はい……」
湯呑を縁側の板敷に置き、俺は震える手を持ち上げる。
金色の髪の上に生えた狐の耳が、待ちかねるように神妙に垂れている。
ふさふさの耳に、できるだけ優しく、優しく、触れた。
「あ、はぅ……」
「お、おお……!」
すごい。もふもふだ。本物だ。本物の狐の耳だ。やっぱり狐なんだ。本物だ。
いや、狐の耳なんて触ったことないけど。猫くらいしかないけど。
人肌より少し温かいくらいの温かさと、途方もない柔らかさ。
「んっ……」
触れたまま指を軽く動かすと、耳がぴくんっと跳ねて、あざみが小さく息を漏らした。
謎の感動の中で、妙な気分が沸き上がってくる。
そういえば昔飼ってた猫も、耳を触ってやったらごろごろ喜んでたっけ。
もしかしてあざみも、耳を触られると気持ちいいのだろうか。
「んや、ちょっ、はぅ、んぁっ……」
くにくにと捏ね回し、なでなでと擦ってやると、あざみが悩ましく身体をくねらせた。
少し悪戯な気分になって、狐耳をつまんだ指をさらに動かしていく。
初めて出会った時からこっち、ずっとからかわれっぱなしだったのだ。
こんな時くらい主導権を握ったって、という気になってしまう。
「く、ふぅ……んんっ、ふぁっ……!」
あざみが俯いたまま息を吐き、俺の胸へと額を預けてくる。
耳を弄る度に、震える華奢な身体。小さくあがる吐息の音。胸板に伝わってくる体温。
やばい、頭がのぼせてきた。
これは、これは、もはや男と女の――
「ちょっと……も、もうだめっ!」
「うぉっ!?」
急に身を起こしたあざみに、はたかれた。
「さ、さわり過ぎだってば、まったく……!」
「す、すまん、つい夢中になって……」
「……冬四郎のすけべ」
あざみが目を合わさずにそっぽを向き、ぼそっと呟いた。
当然の反応である。我ながら、調子に乗り過ぎた自覚があった。
触り心地がよすぎて、抑えが利かなかった。
「あのね、狐の耳は弱いの。繊細なの。分かる?」
「分かる。分かった。俺が悪かった。本当に。もうしない」
「ほんと?」
「ああ、この通りだ。ついもふもふで柔らかくて……」
「……ほんとに反省してます?すけべ武士さん」
「あ、いや……本当にすまんかった」
俺はとにかく頭を下げて、何度も詫びた。
誠意が通じたのか、あざみが機嫌を直して向き直ってくる。
「あはは……じゃあ罰として、喉のおさわりはおあずけね?」
「えっ」
「当然ですー。やらしい触り方ばっかしてさ。やっぱり君も男なんだねぇ……」
「す、すまん……本当にすまん」
「平手打ちしないだけ、ありがたく思ってよね?」
あざみがまたいつものように笑ってくれた。
よかった。本当によかった。思わず安堵のため息が漏れ出る。
しかし、すごいひと時を過ごしてしまった。
俺はカラカラになった喉に、少し冷めた茶を流し込んだ。あざみも同じように湯呑を傾ける。
「…………」
「…………」
再び虫の音だけが響く沈黙が、俺達の間に満ちた。
何と声をかけようかと迷っている内に、またあざみが先に口を開いた。
「……ねぇ、冬四郎」
「ん?」
「冬四郎は、ずっとこの屋敷に住んでいるの?」
あざみがまた、俺の方を向いた。
吸い込まれそうな眼差しを見つめ返しながら、俺は答えた。
「……ああ。生まれてから、ずっとここだ。父上と二人で住んでいた」
「父さまと二人だけで?」
「俺が物心つく前にはもっと人がいて、母上もいたらしいけどな」
「…………」
「どうして俺と父上の二人だけになったのかは、聞かなかった」
「どうして?」
どうして、か。どうしてだろう。
父上がいつも、淋しそうにこの庭を眺めていたからか。
「俺にも分からん。聞くべきじゃないと思ったのかもしれないし、聞くのが怖かったのかもしれない。結局、父上はそのまま逝ってしまった」
「そっか……父さまが死んだ後はどうしたの?」
「父上の残した伝手で、六波羅で仕事をするようになった」
「六波羅、ね。そういえば、都の見回りがお仕事なんだっけ?」
「ああ。あとは公家の護衛をしたり、悪いことした奴を捕まえたり。たまには文書を捌く仕事もするな」
「へぇー、楽しい?」
「毎日やることは似たようなもんだ。正直、退屈に感じることもある。けど、毎日がまったく同じ毎日にはならない。そういう意味では楽しいな」
「そっかそっか」
あざみは、俺の話を聞きながら湯呑を軽く揺する。
波打つ水面を見て、何事かを考えているようだった。
「じゃあ……お仕事始めてからはずっと一人?」
「いや。父上が亡くなった後は……猫を拾って飼ってたな。短い間だけど、一緒に寝たり飯食ったり、家族みたいだった」
「あー……だよね。猫の匂いするもん、冬四郎」
「そんなにするか?二年くらい前に、ふらっとどっか行っちまったんだけどな」
「まだその辺にいるんじゃない?」
「だといいな。あいつとは、また一緒に暮らしたい」
「ふーん。大切にしてたんだ、その猫」
「ああ。食いしん坊で落ち着きのない白猫で、あー名前は……」
飼ってた猫の名前?なんだっけ、なぜか思い出せない。
というか、変な方向に話が転がっているような。
俺の身の上話なんて、聞いて面白いのか。
あざみの興味津々の顔を眺めていると、妙に気恥ずかしくなってきた。
「あ、あざみはどうなんだよ」
「ん?私?」
「お前の話も、聞かせてくれよ。お母上がいるってことくらいしか聞いてないぞ」
「んー、どうしましょうかねー……」
はぐらかされる流れだ。そう直感した時、あざみが俺の肩にもたれかかってきた。
「ちょっ、何やってんだ……!」
「そんなに聞きたい?」
「そ、そりゃ、まあ……」
「どうして?」
どうしてって。自分は根掘り葉掘り聞いてきたくせに。
けど、どうしてかと言われたら、どうしてだろうか。
「……お前のこと、もっと知りたいから、かな」
「…………」
「む、無理にとは言わねぇから」
「わかったわかった。あーあ、私も罪な女……」
細い人差し指が伸びてきて、俺の頬を何度かつついた。
やり返そうかと一瞬思ったが、俺はそのままあざみの言葉を待った。
「私もね、母さまと二人で暮らしてるんだ」
「……お父上は?」
「さあ?母さま全然話してくれないんだもん。いつもこれと同じような首飾りばっか、眺めてる」
あざみは俺の肩に頭を預けたまま、中庭を眺めつつ腕にはめた腕飾りを弄っている。
俺が市場で買って贈った腕飾りだ。
確か同じような玉がついたものを、あざみの母上も持っているんだったか。
「……ね、どう思う?」
「どうって、それだけ大切にしてるなら、お父上の物じゃないのか」
「うーん……そっか。そうだよね。けど……じゃあ……」
あざみの耳が金髪の上に力無く垂れ落ちた。
「あざみ?」
「…………」
黙りこくったあざみが、身じろぎ一つせず、ぼーっと庭を見つめている。
十秒、二十秒と、虫の鳴き声だけが聞こえる時間が続いた。
俺はそれが妙にいたたまれず、思わず手を狐耳に伸ばした。
「んにゃっ。何してるんですかね、冬四郎さん。おさわりの時間はもう終わりましたけど」
「い、いや、なんとなく手が伸びて……悪い」
「はぁ……ま、いいや。……ありがと」
俺達はまた少しの間、黙り込んだ。
狐の耳は撫でるとやはりとても感触がよく、血の通った温かさがある。
中庭に満ちる虫の音は、一向に鳴りやまない。
あんなに鳴き続けて、疲れないのだろうか。
りーりーと規則的で騒がしい音に聞き入っていると、少しだけ今の時間が現実でないような気がしてきた。
まるで、俺とあざみだけがこの都から切り離されたような、不思議な気分になっていく。
「……じゃあ家は?どんな家に住んでるんだ?」
「ん?ここより全然広いよ。中庭もこの倍くらいあるかな」
「……お前、俺の家見た時『広いねー』って言ってただろ」
「案外、って言葉が抜けてましたねぇ。てっきり男らしく掘っ立て小屋に詫び住まいかと」
「なんだと」
「あはは……冗談冗談」
あざみが笑い、俺に狐耳を触らせたまま軽く頭を揺らした。
それだけでいい匂いが俺達を包む。
「何もない場所なんだ。家の周りは森と川と野原以外なーんもなくて、たまに弱っちい妖が迷い込んでくるだけ。あっ、あと隣の領地にイヤな鼬の一族が住んでる」
「鼬?」
「そ。あ、詳しく聞かないでね。仲悪いってことになってるから」
広いお屋敷と領地、か。妖にも、公家みたいな身分があるのだろうか。
「普段は何してるんだ?」
「別に?何も。母さまが大量に持ってる人間の書物を読んだり、ぼーっと景色を眺めたり、今みたいに虫の音を聞いたり」
「退屈そうだ」
「うん。とっても退屈。だから、あの日思いきって、人間の世界にやってきたの」
「あの日?」
「そ。あの日、人間と、人間のお祭りを初めて見て、それで……君に出会った」
大駕籠祭りの夜のことだ。
あれが、俺達の初めての出会いで、あざみが初めて人間の世界に来た日だったんだ。
「……ん」
俺は狐の耳を、指で軽く捏ねた。
あざみが小さく声をあげ、俺にもたれたまま、また金色の髪を揺らす。
美しい髪だ。都の人間は、こんな輝くような美しさを持っていない。
あざみが俺の肩へ頭を小さく擦る度に、灯篭の光に照らされた髪がさらさらと流れる。
胸の高鳴りは、いつの間にかやんでいた。
代わりに、穏やかな気持ちだけが、俺の中にあった。
時間が止まってしまえばいいのにと、思った。
そうすれば、ずっとこの髪を、あざみを見つめていられる。
時間が、止まってしまえば。
「……冬四郎」
「あざみ……」
何となく、俺達は互いの名を呼んだ。
本当に、何となくだった。
妖の少女が俺の肩から、身を起こす。
そして、青い瞳が俺を見つめ、目蓋がゆっくりと、閉じて―――
「……はいっ!今日はここまで!」
「えっ」
急に叫んだあざみが、そのまま中庭に飛び出していく。
うるさく鳴いていた虫が近づいてきた気配に驚いたのか、一瞬で静まり返った。
「そろそろ帰らないと。また母さまにこってり絞られちゃうし」
「そ、そうか」
「あはは、思ったより長居しすぎちゃった。んー、冬四郎のくれたお茶が美味しかったからだね」
「はは、そりゃどうも……」
両腕を夜空に突き上げ、大きく身体を伸ばすあざみ。
どうやらもう、帰る時間みたいだ。俺は残念に感じながらも、心のどこかで少しほっとしていた。
これ以上一緒にいたら、きっと俺は――
「次何やるか、考えといてね?」
「へ?あー、そうだな……五条大橋超えて、北の方まで行ってみるか?」
「ほうほう、面白いの?それ」
「……微妙かもな。公家の屋敷しかない」
「じゃあ却下。もっと面白いことでお願いしますよ、武士さん?」
「分かったよ。今から悩んどくからな」
「うむ。それでよし」
俺は縁側に座ったまま、中庭のあざみと話した。
お互いに言葉が、なかなか尽きない。
今なら、なんだって言える。そんな気がして、俺は口を動かした。
「なあ、帰る前に変なこと聞いていいか?」
「なーに?」
「お前って狐の耳はあるけど、尻尾はないのか?」
「…………」
な、何言ってんだ俺。帰り際に聞くことかよ。
「ほほう、そこに気付くとはね」
「え?」
「仕方ないなぁ。うむむ……」
「うおおっ」
念じるあざみの後ろに、瞬く間に大きな尻尾が生えた。それも二本。もふもふだ。
灯篭の灯りを受けた毛並みが輝き、見ているだけでも柔らかさを感じさせてくれる。
「動きづらいから、こっちじゃ消してるの。尻尾消すと、霊力足りなくて耳が消せないんだけど。これで満足?」
「あ、ああ……すごく綺麗だ……」
「……も、もう、ほんとに……なんだから」
「ん?」
「何でもありませんーだ。はいはい、今日はこれで本当にお開きお開き」
夜空に向き直ったあざみの指が、狐の形を作る。
「おやすみ、冬四郎」
「……おやすみ、あざみ」
「あ、私の術の葉っぱ拾うの禁止ね」
「は!?な、何でだよ」
思わぬ発言に、胸がざわめく。
なんでそんなことを禁止されないとならないんだ。
「あー、やっぱり拾う気だったんでしょ。むっつりさん」
「た、ただの葉っぱなんだろ。いいだろ、別に……そうだ、そういやこの前お前の葉っぱのおかげで……」
「病気が治った?お銭がたんまり?なら仕方ないですねぇ。葉っぱでも何でも拾いなさいな」
「……ありがとさん」
俺達は、そこでやり取りをやめた。
「えへへ。じゃあまたね、冬四郎」
「……ん。またな、あざみ」
俺はまばたきより少しだけ長く、目蓋を閉じた。
目を開いた時にはもう、あざみの姿は消えていた。
初めて会った時も、二回目会った時も、同じだった。
あざみはいつだって、すっと現れては、すっと帰っていく。
妖だから、そんなものなんだろう。
「……またな」
俺は中庭に降りてあざみの残した葉っぱを拾い上げ、ふと夜空を見上げた。
「月が、綺麗だな」
それは綺麗な、満月の夜だった。
次回、「閑話 狐と鼬」




