大業三年
倭国より遣わされた小野妹子は都の長安から東に行った洛陽近郊の村に宿を取っていた。
なぜ、都に拠点を置けなかったかといえば、本国より来た使者が皇帝を怒らせてしまったからである。
妹子自身は事件の後に入国した身であったし、事件も知らなかった。隋も倭国と関係は大事にしなければならないので叱責だけですんだが、それでも今は皇帝から離れるべきである。そう判断して急いでここまで移って来たのだった。洛陽自体も交通の要所であり、長安と同じくらい街は栄えていたが、皇帝から距離をとるのであれば、人と接しやすい街より田舎の寂れた宿に移った方が皇帝もあらぬ疑いをかけにくいだろうと考えた。
移ってすぐに皇帝から書状が届き、この宿に監視付きで過ごしても良いと許された。
「全く、いつまでこんな所にいる事になるやら」
荷物の片付けを手伝ってくれていた同僚の大国の愚痴を聞きながら妹子は次々と書簡を荷籠から取り出しては種類を分けていく。慌てて来たものだからどれもこれも混ざっていて時間が掛かりそうだと思った。
「いっそのこと、全部燃やしてしまえば楽なのだがな」
「まーたそんな事をおっしゃって、前回の滞在の際にやらかした人の言葉とは思えませんな」
「む、言葉に出ていたか?黒麻呂」
部屋の入口に若く身なりの整った僧が腕を組んで立っていた。
「はい。貴方は少しは反省する事を覚えて下さい。洗物もそのままで散らかして、やっておきましたから次はご自分でなさって下さいね」
「あぁ、いやすまぬ…」
「村の子に銀を握らせてやらせるのも駄目ですから。そんな事に銀を使っていたらあっという間になくなってしまう」
吐き捨てるように黒麻呂は部屋から去って行った。申し訳なさそうに妹子は頭を掻くが、シラミが霧のようにボサボサの髪から舞った。降り積もった服も何日も取り替えてない。
「水浴びでもしてきたらどうだ?村の長老が西の外れの溜池の洗い場を使ってもいいとか言っていたぞ」
見かねた大国は自らの袈裟の中から拭い物を取り出して妹子に投げた。
「いやぁ…ほらまだ片付けるものが沢山あるから」
「いいから行ってこい。貴様は私や黒麻呂のような僧ではなく一国の大使なのだから、どんな時でも身の周りはしっかりしろ。いつ皇帝から使いが来るのかわからんのだから」
部屋から追い出された妹子は仕方ないと溜池の洗い場に向かった。
洗い場は村を囲む畑のさらに先の森の入口近くにあった。小さいが丸く囲み、川から引いた新鮮な水を溜めているので、鯉などを育てていた。妹子は裸になると、木桶で水を掬うと頭から被った。身体を拭いて、換えの手綱を巻くと木桶にまた水で満たしてじゃぶじゃぶと手際悪く衣服を洗っていた。
「おじさん、その服をここで干していくの?」
気が付くと、妹子の横に幼い子供が不思議そうに見ていた。歳は六から八つといった所だろうか。茶色の髪を頭の左に団子のようにまとめていた。
「ん?あーいや、考えていなかった。そうだな、そこの枝に干してある程度乾くのを待ってから着ていくよ」
「おじさん、最近都から来た"えらいひと"でしょ」
「そうだ。都でな、ちょっとあったんだ」
「ふーん」
子供はつまらなそうに洗濯をする妹子の横で座っていた」
「おぬしはなんだ?この村の者か?」
「ううん。近くの寺に預けられてるの」
「ほう、孤児か?」
「お父さんもお母さんも兄弟たちもみんな元気だよ。この村に住んでるし。あたしは自分から寺に行くってお願いして預けられたんだ」
「それは徳な事だな」
「ちがうよ、あたしは女だから、大きなってどこかに嫁がされるのが嫌だったから僧になったんだ」
「お父さん、さぞ困っていただろう。普通、女は僧にはなれん」
「そうなんだよね、だからいつまで経ってもお手伝い扱いのままなんだ。経典一つ教えてくれない。ほんと、困った」
「そうか、お前は良い親の元に生まれたんだな」
「全然だと思うけど?」
少女が頬を膨らせているのを横目で笑いながら、妹子はぎこちなく洗って絞った着物を池の側の木の枝に掛けた。今日は日差しが強いので早く乾くだろう。
「おぬし、私の所で手伝いをせぬか?」
「なんで?」
「いや、丁度私の部屋を片付けてくれる者を雇おうと思っていてな。いまは同僚の僧が片付けてくれているのだが、そろそろ限界そうだから変わって欲しいのだ」
「すごく嫌なんだけど」
「ならば、おぬしに経典を教えてくれるように同僚に頼もう。経典の勉強は僧への第一歩だぞ」
少女は少し悩む様子を見せた。
「その半裸の姿で言われると答えに困るんだけど」
「寺や家族にはわたしから話を通しておこう。だから頼む」
「そういう問題じゃないんだけど…まぁ、飽きてたし。いいよ、よろしくおじさん」
「おじさんではない、わたしの名は小野妹子という。倭国から来た者だ。そなたは?」
「あたしは陳家の褘だよ」
「陳褘か、陳家ってここら辺の名士ではなかったか?」
「みんなは"げん"って呼んでる」
「げん?何故だ?」
「寺の人が"字"を付けてくれたの。"玄奘"って、だから"げん"」
「そうか、ではわたしもおぬしをげんと呼ぼうか」
「よろしくおじさん」
「おじさんと呼ぶのはよせ」
二人の会話をマサノリは金の姿のまま、池の側の木の上からドロシーと共に座って観ていた。
「あのげんって子があんたなのか?」
「そうだよ。察しがいいね、そしてちょっと恥ずかしいかな」
「…これが、一体なんだっていうんだ」
「まぁまぁ焦らない、さて、君は修行に戻ろうか」
ドロシーが金の額を指で付くと身体から力が抜けて、マサノリはそのまま池に落ちていった。
残されたドロシーは幼い自分とおじさんを懐かしむようにしばらく見つめて、それから自分から池に飛び込んだ。




