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エスケープ



 警部が何を言っているのか分からない。彼が喋っているのは同じ国の言葉だろうか。


「落ち着いてよく聞いてください。メイヴィスさん(Miss)。あなたはまだお子さんを授かった事すらない。社会保障記録の上では、あなたは母親ですらないんです」


 警官は私の焦点の合わない虹色の瞳を覗き込んだ。父親のように優しく肩に手を置く。「納得がいかないかもしれません。だが意識をしっかりと持ってください。これから署に常駐しているカウンセラーを呼んできます。ここにいれば、あなたに何も危険はありませんから」


「あっ……」警官に肩を触れられて、私の開いた唇から情けない声が漏れた。


「日常生活を送るのに、どなたか付き添いの方が必要だと主治医に言われていませんでしたか? よろしければ、我々から……あなたの……びょう……い……ん……に……」


 耳から入る男の言葉の語尾がどんどん間延びして、回転数の狂ったレコードに似てスローダウンしていく。


 気を失いそうだった。思わず警部との間の何もない空間に、曲がったままの指を伸ばした。大事な記憶が流れ出てしまう。愛しい娘の声、温もり、笑顔。そんな物が私から滲み出ていく。


 そして、ブライアン。憎々しい夫の顔。彼との思い出は沢山ある。悔しいけれどその記憶にすがりつかなければ、意識を保っていられないと思った。


「……ヴィス……メ……イ……ヴィスさん? 私がわかりますか?」


 突然、現実が元の速度に戻ってきた。私は目を覚ました。汗ののった手のひらを見つめるが、そこには何も握っていなかった。


「大丈夫ですか、顔が真っ青ですよ。気分が悪いのなら――」


「トイレ……」


「……え? 何だって?」


「考えがまとまらない。あぁ!」私は両手で頭を抱え、情けない顔で警部を見た。「いけない! またやっちゃったんだわ……これまでは家の中だったけど、今度は警察にまで来て、迷惑をかけたんだ! どうしよう……イザベルに叱られちゃう! ああ、本当に申し訳ありません! だから誰にも知らせないで」私は髪をかき乱して何度も頭を下げた。


「……もう一度伺ってもよろしいですか? この記録どおり、あなたは結婚も妊娠もした経験がない女性だと、理解していますか?」


「ええ、もちろん」


「発作的にそのような症状を誘発するのですかな? この……えーと」マテオは細かい文字を読み取りながら、耳たぶをさする「解離性障害(D・D)というのは」


「ええ……ほんと、薬でもやってたみたいで……そんな顔しないで、神かけて冗談よ。

 今はもう落ち着いたわ。だからお願い。トイレに行かせて……顔を洗いたいの。それに今日は」私はお腹の辺りを指差した。「あっちが多くて」


 警官は肩をすくめた。「それは失礼しました。どうぞごゆっくりなさってください。戻ったら調書の作成にご協力を」


 私は席を離れたが、うまく歩けず立ち止まって少し休んだ。貧血みたいに頭がふらふらしていた。


「誰か女性のスタッフを付けましょうか」背中越しに声が届く。


「平気。ありがとう。すぐ戻るわ」私は首を振って警部の申し出をやんわりと断った。壁に手を突き、亀のような遅さでトイレまでの道のりを歩いていく。


 この中断は長くなりそうだ。警部は嘆息して背もたれに深く寄りかかり、アシスタントにコーヒーのおかわりを催促した。


 警官たちのいるオフィスから最初の角に着くまで、2分は優にかかった。しかし角を曲がってから、私のスイッチが切り替わった。署の出口の回転ドアに着くまで、わずかに10秒。それまでの弱々しさが嘘のように、私は大股で歩いていた。


 ここを早く出たい。それは衝動的に沸き立って理性を越えて私を支配した。だから警部にあんな嘘をついたし、ずっと先だった月経痛を言い訳にもした。ここにいたら、私は鉄格子の内側で、大きな何かに繋ぎ止められてしまい、多分一生娘には会えない。そんな気がした。


「ちょっと!」扉の回転部に足を踏み入れようとした所で、背後から声をかけられた。汚れたガラス越しに見える外の世界が急にぼやけ、遠くなった気がした。


「はい?」懇願する。どうかお願い。この声が、キッチンで洗い物をしてる最中(さなか)に呼ばれて振り向いた時のように、自然に響いて。


「落としましたよ……貴女のですよね」


 振り向くと、若いジャージ姿の事務員が立っていた。ポケットの奥にしまっていたはずの薬の束を掌に乗せていた。


「ありがとう……」私は肺の中の最後の空気を使って、お礼を述べた。

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