18. 口づけ
言った。言ってしまった。
彼はなにも返さずに、こちらをじっと見つめている。
その瞳がなにを言っているのか知るのが怖くて、目を逸らしてしまう。
「ごめんなさい……」
思わずそう言ってしまって、俯く。
「なぜ謝る?」
「あの、ご迷惑……かと……」
顔を上げられなくて、耳だけでレディオスの声を聞く。
「どうして」
「私は、こんな力を持っているし……」
「我々は、その夢に救われたが?」
「それに、だって、身の程知らずで……」
「身の程知らず?」
「だって……。陛下は王さまで、……本来なら、お傍になんて……」
そう言うと、レディオスは、ああ、と声を上げた。
「そう……か。なるほど。それで自分とは思わなかったのか……」
そうつぶやく。その言葉の意味がわからなくて、首を動かして視線を彼のほうに向ける。
彼の顔を見る。
微笑んでいた。
なぜだか急に気恥ずかしくなって、また目を逸らして俯いた。
「いつも、俯くのだな」
そう言われて、ぎゅっと目を閉じる。
どうしたんだろう。
彼の声が、柔らかな響きを持っていて、耳から体中に染み渡るような感覚がした。
見られているのが、恥ずかしい。
「ラ、ライラにも……そう言われました……」
「そうか。私も、顔を上げて欲しいのだが」
そう言われても、顔を上げられない。硬直してしまって動けない。
身体中が熱くなってくるみたいだ。
膝の上の手を、ぎゅっと握った。
「顔を、見せてくれないか」
なんだろう。空気が違う。
心臓の音が、聞こえてくるようだ。
「あ、あの……えっと……」
「どうした?」
彼の声に、からかうような響きが混ざる。
どうしたらいいのかわからない。
今のこの状況が、なにを指し示しているのかもわからない。
「わ、私なんかの、顔なんて……」
「私なんか、とは言うな」
言われて、はっとして顔を上げる。
レディオスはこちらをじっと見つめて、そして口を開いた。
「私なんか、というのは、そなたを愛しいと思う、私に対する侮辱でもある」
その言葉に、しばし動きを止める。
「……え?」
今、彼は、なんと言ったか。
愛しい?
なにが?
そなたを、と言った。
私?
「ええ……?」
ぽかんと口を開けたまま、何度も目を瞬かせながら、彼を凝視してしまう。
リュシイの顔を見ていた、レディオスが口の端を上げた。
「そんなに驚かれるとは思わなかった」
言われて、慌てて両手で口元を隠した。
かなり間抜けな顔をしていたと思う。
「いえ……あの……え? ええ?」
「だから迎えに行ったのだが。城に行きたくないと言われたときは、ひどく落ち込んだ」
「あ……そ、そう……ですか……。すみません……」
頭の中が混乱している。
この展開は、まったく予想していなかった。
「ちょ、ちょっと」
「うん?」
「頭の中の整理を……」
「どうぞ」
苦笑しながら、彼は手のひらをこちらに指し示した。
迎えに来た?
攫われたリュシイを?
ただ、確かに、助けに来てくれるとは思っていなかった。しかも、レディオス自ら。
それは、少なからず知ってしまった人間のことを放っておけない人だからなのだ、と思っていた。
来てくれたのは、そういう、愛しいという感情からだったとは。
あのとき、彼はなんと言ったか。自分はなにを聞いたか。
懸命に記憶を探る。
「だ、だって、あのとき、そんなこと、一言も」
王城に帰ろう、とか。一人にはしておけない、とか。守り切れない、とか。
単に保護しようとしているようにしか思えなかった。
いや。
リュシイが、私なんか私なんか、と思うような人間でなければ、それで察したのだろうか。
「……言ってないか?」
「た、たぶん」
レディオスは、しばらく斜め上を見上げて、そのときの状況を思い出そうとしているようだった。
「そう言われると、言っていないかもしれない」
こちらに向き直ってそう言うと、レディオスは身を乗り出してきて、両腕を広げてリュシイを包んで抱き締めてきた。
地震のとき、拉致されたとき、助けてくれた。そのときと同じように、温かくて、力強くて。自然と、その胸に身体を委ねてしまう。
「ならば、今、言おう」
耳元に、彼の吐息がかかる。
それは何て甘美な誘惑だろう。
「もう、私から離れないでくれ。ずっと傍にいて欲しい。生涯、変わらず」
これは、本当に現実なのだろうか。
幻覚かなにかなのではないだろうか。
でも彼の胸の温もりがそこにあって、力強い腕が少女を包んでいる。
「私……」
私なんかが、と言いかけて、止めた。
それは侮辱だ、と彼が言った。
卑屈にならなくても、いい。
「私は、ずっと、陛下のお傍にありたいです」
そう言って、自分の腕を彼の背中に回して力を込めた。
すると、彼もまた、力を込めてくる。
涙が流れ出てきた。
さきほどまでの涙とは、違う種類の涙だ。
こんな幸せが、本当に自分の身に訪れているのか、信じ難かった。
すると、彼が肩越しに、はーっと大きく息を吐いたのが分かった。
「本当に、良かった」
「え?」
「傍にいるのがつらい、などと言われたときには、本格的に嫌われたのかと思って、生きた心地がしなかった」
あ、と気が付く。そういう風に取られたのか。
自分のことで精一杯で、そこに考えが至らなかった。
「す、すみません」
「いや、いい。誤解だったのなら」
そうして彼は、リュシイの肩を持って、身体を離す。
「これで、問題は解決しただろう?」
「解決……?」
「私が妃を迎えるのを、見たくないと」
問題は解決。
そうなのだろうか。
けれど、彼が迎えるのは、王妃だ。
さすがに、自分がその場所にいられるとは思えない。
自分はなんの教養も財産も持たない、一国民だ。
それは許されないのではないのだろうか。
レディオスだって、そこまでは考えていないのではないだろうか。
考え込んでしまったリュシイに向かって、レディオスは微笑んだ。
「要は、私が別に妃を娶らなければ済む話ではないか」
彼は、そうきっぱりと言った。
「そうしたら、そんな夢は見ない」
「陛下、あの」
そんなことが可能なのか。
だがリュシイの戸惑いを他所に、彼は続けた。
「それにこれから、妃のことに限らず、どんなに悪い夢を見たとしても、きっとそれに一番対処できるのは、この私だ」
その言葉に、身体が震える。
本当に?
これから悪い夢を見ることがあっても、助けてくれる?
もう、一人で泣かなくてもいいの?
「その地位に相応しいかはともかく、私はこの国の最高位にある。私以上にそなたの夢の助けになる人間はいないと思うが?」
そう言って、彼は自分自身の胸に手を当てた。
少し、誇らしげだった。
ああ。
それだけでいい。それ以上、なにも要らない。
愛しいと思われて、生涯傍に置いてくれて、さらには悪夢から救ってくれようとしている。
それだけで充分ではないか。
これ以上、なにを望むことがある。
彼のために、すべてを捧げよう。
彼がこの先、妃を娶ったとしても、自分はその人のためにも動くことができる。
そう確信できた。
頬をまた、涙が伝った。
悪夢から救われる日が来るとは思っていなかった。
この人は、どれだけのものを与えてくれたのか。
「ありがとうございます……。本当に、嬉しく思います……」
そう言って笑う。
上手く微笑むことができただろうか。
この気持ちを、この喜びを、伝えることができただろうか。
レディオスは少しの間、リュシイのほうを見つめていたかと思うと、ふいに顔を近付けてきて言った。
「今、口づけても、いいだろうか?」
「え」
「もし嫌なら、大丈夫だから言ってくれ」
「あ、あの」
「嫌か?」
だからリュシイは、ぶんぶんと首を横に振った。
すると、彼はリュシイの頭を抱えるように持つと、そっと唇を重ねてきた。
甘やかな、感触。
足元からなにかぞくぞくするような感覚が上がってくる。
唇が離れたとき、吐息が漏れた。
すると再度、唇が重ねられる。
一度目よりも、もっと、深く。
なにもかもがどうでもよくなるような、気分だった。
どうしてだろう。
今まで、男たちの視線が怖かった。触れられるのが怖かった。
なのに。
この人に、見つめられると嬉しく思う。触れて欲しいと思う。
もっと、もっと、と欲深くなる。
この人だけは、特別なのだ。
「……ちょっと、待っていてくれ」
唇が離れたとき、レディオスはそう言うと、立ち上がって扉の方に歩いていった。
そしてまた、扉の前で身を翻すと、こちらに向かって歩いてくる。
「あの……?」
「すまない」
そう短く言うと、また唇を重ねてきた。
気が付いたときには、ソファに寝るように倒されていて、その上に彼が覆いかぶさってきた。
何度か目を瞬かせた。
彼の濃緑の瞳が、こちらを覗き込んでいる。
「私は、もう十分、待ったと思う」
そう言って、口づけてくる。
その唇が、首筋を、胸元を、這う。
リュシイは、ぎゅっと目を閉じた。




