15. 荷馬車の上で
今日もやっぱり空気が悪いわね、とアリシアは心の中でため息をついた。
王室の中は、一時期のギスギスした雰囲気ではなくなったが。
ところが今度は、どんよりと暗くなっていた。
いったい、なにが起きているんだか。
レディオスは机に向かって、しばらく動きを止めたかと思うと、ため息をつく。
そして落ち込んだのか、頭の後ろに両手をやって、頭を抱えるように俯く。
この動きを、何度見たことか。
……本当に、いったい、なにが起きているのか。
王にお茶をお出しする係は、いつもならば争いになるのだが、ここのところは普通に順番が回ってくる。
侍女たちの、余計な手出しをして巻き込まれてはならない、という防御本能というものかもしれない。
「失礼いたします」
楚々としてお茶を机上に置くと、レディオスは顔を上げた。
そして、じっとこちらを見つめてくる。
「……アリシア、少し訊きたいことが」
「なんでございましょう」
にっこりと微笑んで、答える。
だが、レディオスはいったん開きかけた口を、また閉じた。
「いや……なんでもない」
「はあ」
それ以上はなにも言おうとしない。
アリシアは少しだけ待ってみて、一礼して下がる。
お茶を運んだトレイを片付けると、壁際で控える。
机に向かっているレディオスは、その後は普通に書類をめくったり、本を読んだり、なにか書いたりしている。
特に変わった様子はない。
いったいなにが言いたかったのかは知らないが。
だが、今のでなんとなくはわかった。
一介の侍女にしか過ぎないアリシアに、訊きたいこと。とすると。
たぶん、リュシイに関することだ。
彼女が王城にいる間、一番一緒にいたのは、他ならぬアリシアだ。
だから彼女について、なにか訊きたかったのだ。それがなんなのかまではわからないけれど。
たとえば、リュシイがレディオスのことをどう思っていたのか、とかかもしれない。
そんなことを考えていると、自然と頬が緩んでしまう。
ここのところのギスギスとか、どんよりとか、そういう王室の雰囲気も、もしかしたら彼女絡みなのではないだろうか。
だとしたら、リュシイが王城にやってくるのかもしれない。
そう思うと、少し気分が浮き立った。
◇
揺れる荷馬車の荷台で、リュシイとライラは、黙って座り込んでいた。
ライラのほうは、手枷に加えて足枷もされていて、身じろぎ一つするのも苦労しているようだ。
天幕の中であれだけ言い争ったから、普通に話しかけるのもためらわれて、リュシイは膝を抱えて黙って座っている。
だがライラは、特になにを気にする風でもなく、突如、口を開いた。
「ところでさ、なんで王城? いや、私は王城に連行されるわけだけど。リュシイは坊ちゃんの屋敷に行けばいいんじゃないの」
そう言って首を傾げる。
無視するのも変な感じだったので、素直に答えた。
「えと……王城にいるので」
するとライラは本当に驚いたようで、目を見開く。
「あの坊ちゃん、王城に勤めてるの? へえ、本当に位が高い貴族なんだ」
「まあ……」
なんと答えればいいのかわからなくて、そう曖昧に返事をする。
「そうか、大地震のとき王城に行ってたんだもんね。そこで知り合ったの?」
「そう……ですね」
「へえ」
そこでまた話が途切れてしまう。
なにか話しかけるべきなのかしら、と考えていると、ライラがぽつりと言った。
「ありがとうね」
「え?」
「間に合った。あの子の死に際に」
「……そうですか」
知っている。夢で見たのだ。ライラの悲しみようは、見ていてつらくなるほどだった。
泣き叫んで。ルカの身体に取りすがって。いろんなものに当たり散らして。
最後には、呆然と座り込んでいた。
あの状態から、よくここまで気力を取り戻したものだ。
「ルカのこと弔ってたら、ちょっと時間が掛かっちゃって。バーダン捕まってるから、もっと早く捕まりに行きたかったんだけど」
そしてライラはこちらをじっと見つめて、そして口を開いた。
「びっくりしちゃった。あんたの予知夢、本物なんだね」
なんと返していいのかわからなくて、ただ曖昧に微笑んだ。
ライラも微笑み返してきた。
「オルラーフってさ、薬とか有名じゃない? 一回使ってみたら、ルカの発作が和らいだんだよ。……でも高くてさ」
「はい」
「あんたを連れてきたら、薬とか全部面倒見てやるって言われてさ」
それも、知っている。
彼女は悩んで悩んで、でも、見知らぬ人間より、目の前の息子を選んだ。
それだけだ。
「私、なにしてたんだろう」
そうつぶやいて、ライラは空を眺めた。
「あの子の傍に、ずっとついていてやればよかった。あの子、寂しがってた。私のやったことは、無駄だった。あんたも傷つけて。バーダンも連れていかれて」
ライラは俯いて、大きくため息をつく。
「なんにも残らなかった」
そしてこちらに振り返ると、言った。
少し目尻が濡れていたかもしれない。
「ごめんね、馬鹿馬鹿言っちゃって。馬鹿は私だったわ」
その言葉に首を横に振った。
「私が馬鹿なのは、間違いないですから」
「まあね」
そして、二人して笑った。
すると突然、御者台に座る兵士が話し掛けてきた。
「ライラ」
「なに?」
「お前は、弟のことを、よく馬鹿だって言っていたけれど」
「うん、だって馬鹿なんだもん」
「違うと思う」
「え?」
兵士は前を向いたまま、続ける。
「セオ村で、子どもたちに文字とか教えたりしていて思ったんだけれど」
そうして、小さく息を吐いた。
「教育が、足りていないんだ」
「え?」
「言葉を知らないから、表現をする術がわからなくて、すぐに癇癪を起こしてしまう。知恵がないから、乗り越える術がわからなくて、暴力に走ってしまう。知識がないから、誰かに頼ってしまって、騙されてしまう」
ライラは、目を瞬かせて、その言葉を黙って聞いていた。
「まあ僕も、偉そうなことを言えた立場ではないんだけれど」
そう言って苦笑する。
「ただ、あんまり馬鹿だ馬鹿だって、言ってやらないでくれよ」
ライラは、その言葉に目を伏せる。
「うん……」
そうして、ライラは素直にうなずいた。
「うん、そうだね。そうするよ」
「それなら、良かった」
風が吹く。ライラの赤毛を揺らす。
世の中はままならないことでいっぱいだけれど、でも、風は気持ちいい。
ふと、思いついて、言う。
「ライラは、なんにも残らなかった、って言いましたけど」
「うん?」
「ハダルがいるじゃないですか」
待っていても、いい? とライラに言った彼。
騙されたと知っても、それでも、ライラを待つ、彼。
「あのときは、ああ言ったけど。でもやっぱり、駄目だよ」
ライラは首を振る。
「どうして」
「私、王城に行ったらどうなるかわからないし。仮に助命されたとしても何年かかるかわかりゃしない。二度と帰れないかもしれない。そんなの、待ってもらったら悪いもん。だから、他の人を見つけても恨まないって言ったの」
安易に、大丈夫、とは言えなかった。
どういう裁きが下るのか、リュシイにはわからなかったから。
「村で、あんたに馬鹿だ馬鹿だって言ったのはさ、私のわがままなんだ」
「え?」
「せめてあんたくらい、なにか結果が残ったらいいなって、思っただけ」
そう言って、口の端を上げた。
「悪いことして、なんにも残らなかったけど。でもその中でなにか残ったら、少しだけ救われるから。だから、わがままだけど、そうなって欲しいなって」
「でも……怒らせちゃったんです」
「ああ、断ったから?」
「はい……厚意を無下にしてしまって……」
そんな風に話していると、少し、決心が鈍ってきた。
怖い。
気持ちを伝えたら、迷惑なのではないだろうか。
困らせたりしないだろうか。
その前に、王城に行っても、会ってもらえるかもわからない。
王城には行きたくないと断っておいて、その舌の根も乾かないうちに自分から来るだなんて、なんて図々しい女かと思われるかもしれない。
「ほらあ、また、ぐずぐず考えてる」
「え、ええ、……そうですね」
「駄目だったら駄目でいいじゃないの。すっきりして、次に行けば」
「はあ……」
「ねっ、区切りをつけるのは大事だよ?」
「ライラって……」
「ん?」
「やっぱり、お姉さんみたい」
そう言うと、ライラは眉根を寄せた。
「やだよ、私は弟だけで手いっぱいだもん」
ライラがそう言うのが、なんだか可笑しくなって、笑った。
そして、じりじりとライラの傍に寄ると、肩に頭を乗せる。
ライラは一つ諦めたように息を吐くと、言った。
「ごめんね、怖い思いさせて」
「私は、大丈夫です」
「うん、元気でね」
「ライラも」
その後は、二人ともなにも言わずに、ただ、身を寄せ合った。
王城が、近付いてくる。
それは、二人のお別れを意味していた。