12. ルカ
リュシイが声のしたほうへ振り返ると、ライラが馬に乗ってそこにいた。
こちらを見て、少し、口の端を上げて笑う。どことなく安心したような表情だったのは、気のせいだろうか。
「バーダンはどこよ。あんたたち、なに?」
ライラの声が震えている。
バーダンたちは捕まっているという状況は、理解しているのだろう。
「あれがライラか?」
背後から、レディオスの声が聞こえる。
その質問に、うなずいた。
すると、すっとレディオスの右手が上がる。
他の男たちが弓に手をやったのがわかった。
「ま、待ってください!」
慌てて、大声を出す。
だが、レディオスはさして動揺している風ではなかった。
「なぜだ。情でも湧いたか?」
「夢を見たんです!」
そう言うと、レディオスの右手がゆっくりと下がった。なにか思うところがあったのだろう。
親衛隊たちが、弓から手を離すのが見えた。
それにほっと息を吐く。
「リュシイ、あんた、逃げられたんだね。で、夢を見たって、なに?」
ライラが震える声音で、それでも気丈に振る舞っているのか、そう話し掛けてくる。
「その男が、夢に出てきた人? へえ? どこの坊ちゃんなんだろ」
まっすぐに、レディオスを指さしている。彼は少し首を傾げた。
「私が、夢に?」
「い、いえ、違うんです、それは違います」
慌てて首を横に振る。釈然としないながらも、彼はそれでひとまず納得はしたようだ。
ライラに向かって、声を張り上げる。
「ライラ、私、予知夢を見たわ」
「なに? 夢なんて、役に立たなそうだけど?」
口の端を上げて笑っている。
けれど、彼女の手が、震えているのがわかった。
すうっと息を吸う。そして、声を張った。
「早く、あの子のところに帰って」
「……なに、言って……」
「青い寝衣。黄緑色のカーテン。天蓋付きのベッド」
そう伝えると、ライラの身体が揺れた。
「あなたの髪より、少し薄い色の赤毛。年の頃は、五歳くらい」
「なんで……」
「早く帰って! 間に合わなくなる!」
間に合わなくなる、の言葉に、ライラは息を呑んだようだった。
すぐさま馬首を巡らせて、向こうに走り去っていく。
「あ……!」
男たちは一瞬動揺したようだったが、王の指示を待とうとしたのか、その場から動かなかった。
「どういうことだ?」
背後から、レディオスが問うてきた。
「……ライラ、息子がいるんです」
「息子?」
「病弱で、ずっと寝たきりで。ライラとバーダンで育てていたんです」
「父親は」
「いません。それで、お金に……薬代に困ってて」
「ああ」
レディオスはなにか納得したようだった。
「オルラーフは、薬学が発達した国だからな……」
「はい」
だから、甘言に乗せられた。
『ルカ』は、ライラの息子のことだった。
大事なんだ、と言ったライラのことが思い出された。あのときライラは、宝物を見つめるような、そんな幸せそうな瞳をして微笑んでいたのだ。
大事に大事に育てて、でも、満足な治療を施せなかったのだろう。
「……間に合うのか?」
「はい。私の忠告を聞いてくれましたから」
「そうか……」
ルカの、死に際に。
目を覆いたくなるような、ライラの悲しみ。
けれど、それでも、間に合わないよりは、いいのだろう。
たった一人で死なせてしまうよりかは。
◇
手綱を操る自分の腕の中に、少女がいる。
そのことが少し、信じられなかった。
これこそがまさに夢で、目覚めてしまったら消えてしまう、なんてことはないだろうかと考えてしまう。
いいや、彼女は確かにここにいる。
さきほど、この腕の中でその温もりを感じたばかりだ。
「リュシイ」
「はい」
呼び掛けると、彼女が応えてくる。
もう二度と、危険な目に遭わせたくない。
「王城に帰ろう」
「え……」
「村にいては危険だ。よくわかっただろう?」
だが彼女は、しばらく逡巡したあと、ぽつりと言った。
「私……、村に帰ります」
その返事が、信じられなかった。
どうして。
今さっき、危険な目に遭ったばかりなのに。
王城に帰ることに、なんの不満があると言うのか。
すると彼女は思いもよらない言葉を口にする。
「王城には……行きたく……ない……です」
「は? 行きたくない?」
行きたくないとはどういうことだ。
彼女の表情を見たい。だが、彼女は決してこちらを見ようとしない。
「どうしてだ?」
「……私は……、村で……生きるんです」
声が震えている。
断られる理由が、さっぱり思いつかない。
あの大地震のときも。
今回も。
確かに、確かに通じ合ったような気がしていたのに。
なのに、彼女が何を考えているのかわからない。
「いや、とても一人にはしておけない。またこんなことが起きたらどうする」
「でも……」
いくら言葉を連ねようとも、彼女は首を縦に振ろうとはしない。
妃だなんだとか言う前に、とにかく彼女の安全を確保したいのに。
「王城でないと、そなたを守り切れない。だから」
「い、いいんです、それでも」
その言葉に苛ついた。
信じた人に裏切られて、拉致されて、貞操の危機があって、殴られて。
それらを経験しても、王城に来るよりも、村にいたほうがいいと?
リュシイのために兵士は斬られた。親衛隊も動かした。自分自身も彼女のために動いたつもりだ。
それらをすべて、否定されたような気分だった。
「わかった」
大きく、これ見よがしにため息をついた。
「勝手にしろ」
そう言うと、腕の中の彼女は、びくっと揺れた。
言い過ぎた、とは思ったが、だが自分の言葉を引っ込める気にはならなかった。
「セオ村に行くぞ」
親衛隊にそう声を掛けると、彼らは何も言わずにうなずいた。
◇
セオ村には、夕方に辿り着いた。
天幕の中にいた兵士たちが、何ごとかと、転がるように飛び出てくる。
まず自分が馬から降りて、それから腕を伸ばして抱きかかえるようにして、リュシイを馬から降ろす。
彼女は目を伏せ、唇をきゅっと結んだままだ。
表情は、読めない。
「リュシイ殿! 無事でしたか!」
兵士たちがリュシイに駆け寄り、そしてこちらを見た。
「へ、陛下っ?」
どうやら今、気付いたらしい。
三人の兵士たちが、直立不動の姿勢を取る。
「ああ、いい。楽にしてくれ」
「はっ」
とはいっても、彼らは姿勢を崩さない。
ふと、一人の胸元に包帯が覗いているのが見えた。
「そなたが斬られたのか。もう大丈夫か」
「はっ。傷は浅かったですし、エンリルで治療を受けました」
「そうか、それならいいが。無理はするな」
「ありがたきお言葉ですっ」
このままここにいても、彼らに気を使わせるだけのような気がした。
ちらりとリュシイのほうを見ると、彼女は相変わらず俯いてそこに立っているだけだ。
「今回の件は、三名が仕組んだことだ。そのうちの二人はこちらで捕らえた。あと一人、ライラだけは取り逃がしている。もしこちらで確保したら、王城に護送を」
「かしこまりました」
「では、我々は王城に帰る。あとは頼んだ」
「はっ」
それだけ指示すると馬に乗る。
兵士たちが、右手を左胸に当て深く腰を折る最敬礼で、こちらを見送ろうとしている。
リュシイは、深く頭を下げている。そして、やはり顔を上げようとしない。
仕方ない。もう、できることは何もない。
「帰るぞ」
親衛隊に声を掛けると、彼らはレディオスを守るように取り囲み、馬を進めた。
もう、本当に、これで最後なのだろうか。
彼女はこの村で、一生を過ごすのだろうか。
そしてまた、悲しい夢を見て、泣いたりするのだろうか。
そのとき、彼女の隣にいるのは誰なのだろう。
セオ村が、次第に遠くなっていく。
彼女との距離が開いていく。
「陛下。差し出がましいようですが」
ふと、親衛隊の一人に話し掛けられる。
「なんだ」
「よろしいのですか?」
「よくはないが、本人が行きたくないというものを無理強いするなら、それはブレフトとなんら変わりないだろう」
「目的がまったく違います」
利用しようとする者と、守ろうとする者。
もちろんブレフトとは違う。
だが、彼女にとっては、変わりないのではないか。
親衛隊の男は一つため息をついて、そして言った。
「一つ、嫌なことを申し上げます」
「嫌なこと?」
「ジャンティさまには、なんと言うおつもりですか?」
ぐっと詰まった。
「ああー……」
思わず、馬の首に突っ伏す。
馬が、うるさそうに首を振った。