10. 脱出
目を覚ますと、やはりそこは丸太小屋で、ほうっと息を吐く。
落ち着け。落ち着かなければ。
夢を、見た。予知夢だ。
身体を少し起こす。掛けられた毛布が、ずり落ちた。
淡く部屋を照らしている光源を探して目を向けると、机の上のランプが灯っている。
そのランプの明かりに映されているのは、バーダン。
机に突っ伏して、眠っている。
夢の通りだ。
ライラは今、『ルカ』に会いに行っている。
当分、帰ってこない。
だが。
あの男が、またやってくる。
そして、他国に連れて行こうとしている。オルラーフだ。
あの国の紋章が入った馬車を使って、今まで逃れてきたのだ。それに乗せられては、もう戻ってこれないかもしれない。
息を大きく吸って、ゆっくりと吐く。
逃げなければ。なんとしてでも。
足首から先を、ぱたぱたと動かす。動く。
壁に背中を預けながら立ち上がり、軽く屈伸してみる。動く。
身体はなんとか言うことをきいてくれそうだ。
だが、手を後ろ手に縛られ、足首を縛られ。このままでは、逃げられない。
一つしかない扉を見つめる。
あの扉の向こうの部屋の壁に斧が備え付けられているのが、夢の中で見えた。
それでこの手首を縛っている縄が切られれば。
きっと、どこかの森なのだ。この丸太小屋は樵が使う小屋なのだ。
森ならば足が遅くとも、どこかに隠れるところがあるかもしれない。
もちろん、すぐに捕まってしまうかもしれないが、それでも、ここで大人しくしているよりはいい。
ここで待っていても、あの男がやってくるだけだ。
バーダンが眠っているこの隙に、あの扉から出られるだろうか。
あの男もライラも、この部屋に出入りしているときに、特に鍵を掛けたり開けたりしている様子はない。
ならばあの扉には、鍵はないのだ。たぶん。
念のためもう一度、足首と手首を縛っている縄から抜けられないか、もがいてみる。
あと少し、のような気はするが、やはり抜けない。
扉の外のあの斧で、切るしかない。
扉の傍まで行って、立ち上がって、扉を開けて、部屋を出て、斧のところまではいずって行って、縄を切らなければ。
縛られたままで。
バーダンが起きる前に。
駄目だ。できる気がしない。
どこの時点でも、バーダンが起きたらそこで終わりだ。彼は少年だけれども、それでもリュシイよりは力があるだろう。
よし、と気合を入れる。
じりじりと、なるべく扉の近くに寄っていく。
バーダンは、まだ目を覚まさない。
毛布を噛んでずるずると引きずると、机の下、すぐそばに置いた。
なんとか立ち上がって、そして、ランプを後ろ手に持ち、毛布の上に落とす。
祈るような気持ちで、ランプを眺める。
消えないで。
油が漏れ出て、毛布に染み込んでいく。火が、毛布に燃え移った。
よし。
火が大きくなるのを待って、息を吸って、そしてできる限りの大声で叫んだ。
「きゃあああ! 火事よー!」
その声に、バーダンが、顔を上げて起きた。
燃え盛る火が見えたのか、慌てたようにガタガタと椅子を鳴らして立ち上がる。
「うわっ!」
「早く、火を消さないと!」
バーダンがリュシイの声に呼応したように、走って扉を開けた。
そして扉を開けっ放しにしたまま、バタバタと走り去っていく。
この小屋の外に、雨水を溜めた甕がある。そこまで行くのだろう。
跳ねながら、部屋を出る。
部屋を出たら壁に沿いながら進み、斧まで進む。
その途中でバーダンが桶を持って帰ってきたが、焦っているのか、リュシイには目もくれなかった。
早く、早く、と気が急いた。
焦りながらも、なんとか斧のところまでたどり着き、背中を向けて、手首を当てる。
慎重に、切らなければ。怪我をしては元も子もない。
ゆっくりと手首を上下に動かすと、ふっと縛られていた感触が緩まって、両手を広げる。
バラバラと、縄が落ちた。
それと同時に、しゃがみ込んで、足首の縄をほどきにかかる。
手が震える。ほどけない。
掛けられた斧を外して、足首と足首の間に歯を入れると、下に落とす。解けた。
「あ」
そのとき、バーダンの声がして、顔を上げる。
逃げ出したリュシイを見て、呆然としている。
手に持っていた桶は空だ。
「火は消えた?」
落ち着いた声でそう言うと、バーダンはつられたように、こくりとうなずいた。
理解が追いついていないように見える。
リュシイはバーダンに駆け寄って、その手首をつかむと、言った。
「逃げるの!」
「えっ、ええっ?」
バーダンの手首を、引っ張って走り出す。
そうだ、置いてはいけない。
このままリュシイを逃がしたとしたら、バーダンだってただでは済まない。
自分を拉致した人間。
でも今は、なぜライラとバーダンがこんなことをしたのか知っているから。
バーダンはなにがなんだかわかっていない様子だったが、それでもリュシイに走ってついてきた。
外に出られる!
そうして扉を開けたところで。
あの男が、扉の向こうにいた。
つんのめって立ち止まる。
遅かった。あと少しだったのに……!
思い切り、頬を横殴りされる。
身体が壁に打ち付けられた。一瞬、意識が飛びそうになる。
「この、役立たずめ!」
男はバーダンにそう怒鳴りつけていた。
「ご、ごめんなさい……」
「馬車を前に着けている。御者台に乗れ」
「う、うん……」
バーダンはちらちらとこちらを窺いながらも、外に出て行った。
男は倒れたリュシイのほうに振り返ると、腰に手を当てて吐き棄てる。
「もっと痛い目に遭わないとわからないのかな。手間を掛けさせないでもらいたいね」
荒々しい足取りで近寄ってきたかと思うと、手首をつかまれて立たされる。
そのまま引っ張られたところで。
「うわあっ」
バーダンの声が、外からした。
それと同時に、なにかが倒れたような音もする。
リュシイはなにが起きているのかわからずに、ただ、外を見つめた。
だが扉の外には、月明かりに照らされた馬車しか見えない。
「痛い、痛いよう……」
泣き声だ。
いったい、なにが起こっているのか。
「畜生!」
だが男は理解したようで、リュシイの背後に回り込むと、首に腕を回して、後ろから彼女を押すようにゆっくりと歩き始めた。
扉の外に出る。
バーダンは馬車の陰で倒れ込んでいた。
その背中、肩口に、長い棒が突き刺さっている。矢だ。
「痛いよ……」
バーダンは、倒れたまま動くことができずに、ぼろぼろと泣いている。
その矢が放たれたと思う方向に、目をやる。
馬車道の上に、馬影が三つ、見えた。
馬上の人間のうちの二人が、こちらに向かって弓に矢をつがえている。
その中。
弓を持たず、こちらを見ている人。
知っている。その人を、知っている。
ずっとずっと、会いたかった人。会えなかった人。
その姿をみとめたとたん、目に涙が浮かんできた。
あの人が、まさか、来てくれるだなんて。
「お久しぶりですね、殿下。ああ、今は陛下でしたか」
背後の男が、少し声を張り上げて言った。
それに、レディオスが吐き棄てるように答える。
「話しかけるな、おぞましい。リュシイを放して、大人しく捕まるがいい」
「俺が、大人しく捕まるとでも?」
「逃げられると思うのか?」
「逃げるしかありませんからね」
そう言うと男は、背後でなにやらごそごそと動きだした。
すると、頬に、冷たい感触。
刃物が、突き付けられている。息を呑む。
馬上のレディオスが眉をひそめたのが、わかった。
じりじりと小屋から離れて、馬車に向かって引っ張るように歩かされる。
弓を構えられている方向には、常にリュシイの身体を向けるようにして。
「乗れ」
御者台の前まで連れてこられたが、足が動かなかった。いや、動かしたくなかった。
これに乗ったら、もう二度と彼に会えない気がした。屈辱の日々が始まるような気がした。
それなら、このままここで刺された方がいいのではないか、そう思った。
「早く乗れ!」
そう背後で叫ばれるが、それでも足を動かしたくなかった。
首だけを動かして、レディオスを見る。
彼はなにかを待っているかのように、こちらを静かに見つめていた。
もしこの刃物が刺さって、それで絶命しようとも、彼の邪魔にならなければいい、と思う。
こうして助けに来てくれた、そのことがどれほどの幸せか。
お慕いしています、と、もし助かったら伝えたい。
そんなことを考えた。
「乗れ!」
男の苛ついた声が聞こえた。
足を一歩引いて、背中から男にぶつかるように体重を乗せる。下手に動いて斬られたら、という恐怖心はもうなかった。
一瞬、頬が一筋、熱くなる。おそらく刃で切ったのだろう。
「このっ……」
しかしその行動をまったく考えていなかったのか、男の身体がよろめいた。
と同時に。
たたたっ、と音がしたかと思うと、急に男がリュシイに向かって倒れ込んできた。
「えっ」
男が持っていた刃物が、目の前の地面に落ちた。
慌てて、身体を横にずらす。
「ぐっ……」
男が呻いて、地面に倒れ込んだ。
そこから逃げ出して男を見ると、背中に矢が三本、突き刺さっている。
わけがわからずにそれを眺めていると、さらに三本、また矢が飛んできて男の背中に立った。
呆然として立ちすくむ。
矢が飛んできた方向を見ても、森がさざめていているだけだ。
なにが起こったのか。
けれどただ、自分が助かったことだけはわかった。
「リュシイ!」
呼び掛けられて、振り向く。
レディオスが馬から降りて、こちらに駆けてきていた。
そして両腕を広げると、その中にリュシイを包み込んできた。
「……良かった、無事で」
「陛下……あの」
「本当に、良かった」
彼が大きく息を吐いたのがわかった。
その腕の温かさをしばし感じていると、急に涙がぼろぼろと流れてきた。
彼の背中に腕を回して、ぎゅっとしがみつく。
「こわ……怖かった……です」
「ああ」
「ずっと……怖くて」
「ああ」
彼が頭を、幼子にするように撫でてきた。
いつかも、彼はリュシイが泣いていたときに、そうして頭を撫でてくれた。
なんなのかよくわからない感情が、胸の奥から次から次へと湧いてきて、リュシイは、わあわあと声を上げて、彼の胸の中で、泣いた。
その間、彼はずっと、頭を撫でてくれていた。