84話 闇の竜王、スローライフをした。
その呪われた土地は人捨てに使われるような場所で、そこに捨てられた者はゆっくりと朽ちていくのだという話がまことしやかに語られていた。
森に囲まれ、水は豊富で、獲物となる動物もいる。
だけれど土がみょうに痩せていて作物は育ちにくく、なによりそこに置き去りにされた者は、なぜだか色々な生き物に悩まされるのだと言われていた。
この土地にとある姉妹が捨てられたとき、その姉妹が出会ったのは『竜王』と呼ばれる存在だった。
その竜王はあざけるように笑い、姉妹に難題を与える。
姉妹は絆と知恵でどうにか竜王の難題を解いていくけれど、最後にはついに解けなくなり、竜王にぺろりと食べられてしまう。
それは、昔話だ。
なかなか眠りたがらない子供を脅しつけるために語られるこの物語は、たいてい、最後にこう締め括られる。
「早く眠らないと、闇の中から、こわい竜王が現れて、お前を食べてしまうぞ!」
――これは、竜王というものの存在が御伽噺となった時代の、子供ぐらいしか信じない、昔話。
ある土地に連綿と語り継がれる物語。
◆
長い年月を仙界と呼ばれる土地で過ごした彼らは存在の最適化がすんでいて、いつまでも健康で、いつまでも若々しく、そして最初に定められた寿命通りに死んでいくし、その寿命はとても長い。
もちろん不慮の事故はありうるが、それは仙界から外へ出た者の話で、その完璧に管理された土地において、飢えはなく、事故もなく、みな生涯を穏やかに過ごして眠るように死んでいくのだ。
ニヒツとクラールという、仙人の双子がいた。
背中に大型の猛禽を思わせる翼を生やした双子だ。
そろいの金髪、そろいの碧眼。しかし歳を重ねた二人の顔立ちは、それぞれの個性がはっきりと出ていて、造形は似ているものの、見た者が受ける印象はまったくことなるものとなるだろう。
双子は、いろいろなものを見届けた。
社会から飛び出したリザードマンハーフがいた。
多くのヒトがひしめき合う社会というもので生きていくのに最適な性質をしたこの存在は、しかし、多くのヒトに上下から挟まれて生きるのに向いた性格をしていなかった。
彼女は田舎暮らしを始めてからずいぶん穏やかになり、けっきょく、最期まで都会には戻らず、牧場の管理を続けた。
その人生は『幸福』について考えさせられるものだった。
快適で満たされているがヒトの狭間でストレスを抱えて生きる暮らしと、なにもなく日々大変だがのびのびと生きていける暮らし。どちらが幸福なのかという命題を双子に与えてくれた。
少なくとも、牛たちと戯れ、死んでいった彼女は幸福そうであった。
争い以外のことができないダークエルフがいた。
酒と暴力を愛する者だった。それしかできないから、と開き直って、それ以外のことにはてんで意欲をそそがなかった。
その生き様は死ぬまで変わらなかった。
だからこそ、歳を重ね、老境に入り、長老とさえ呼ばれ、とうに衰えた時分においても、彼女は暴力だけは請け負った。
村人たちを困らせる獣。『巫女の遺産』が眠るという噂を聞きつけたならず者。乱れた治世の中で出た兵士くずれの山賊ども。
それら勢力に対し暴力を行使し、戦い抜いた。
とはいえ、その活躍だけをもって英傑と語り継ぐには、普段の生活にあんまりにもアラが多すぎる。
だから彼女は、英傑としてではなく、『変わったおばあさん』として人々の口の端にのぼった。
もうしばらくすればさまざまなものと混同される口伝で、彼女はきっと、『いつでも酒を飲んでいた』と語り継がれるだろう。
ニヒツとクラールにとって、特に思い入れの深い少女がいた。
英雄ではないがゆえに語るべきこともなく。
活躍らしいことなどなにもしていないがゆえに口の端にのぼるわけもなく。
特筆すべき性質というほどのものがないために『ちょっと変わった性格』という程度の評価で。
普通に生きて、普通に亡くなった少女がいた。
それは物語に仕立てられることのない人生だ。
けれど、双子にとって誰よりも色濃く思い出に残る、大事な大事な幼馴染。
今はもうここにいないけれど、いつでも心にいる、彼女。
そして――
◆
双子にとって、もうずっとずっと昔の話だ。
巫女として生きたその女性が亡くなってしばらくした、ある夕暮れ時。
約束を果たし、この瞬間にもどこぞへと飛び立つかもしれない闇の竜王に呼ばれ、言付かったことがある。
「貴様らがいつまでここにいるかはわからぬが、俺よりは長くいるものと考え、この土地にまつわる『呪い』について、話しておこう」
うまくいきすぎる呪い――
闇の竜王は、この土地にあるという呪いを、そう表現した。
「『光の』から正解を聞くことはしなかったゆえに、俺の所感になるが……この土地は土や品種の改良の結果が早く出過ぎる。のみならず、さまざまなものが集まりすぎる。さりとてそれは、我ら竜王の力とも言い切れぬ。大自然の脅威の具現たる我らさえ感じ取れぬ法則があるのだろう」
話がオカルトめいてきて、双子はなんとも言えない気持ちになった。
相手が闇の竜王でなければ、きっと、早々に聞き流すモードに入っただろう。
闇の竜王が、ヴァイスの亡くなったこのタイミングで、わざわざ伝えた所感だからこそ、そこには必ず聞く意味があると、双子は判断した。
「おそらくは、死者の力だ。ヒトは死ねば土に還る。しかしただそれだけの作用によるものが影響しているならば、『土の』が言葉を濁すことはなかろう。つまるところ、思念、魂、そういった、我ら竜王の力の外にあるものが関係している」
と、そこまでが前置きだったらしい。
闇の竜王は闇を宿した眼窩をここでようやく真っ直ぐに双子へ向けて、
「ヒトは、想いをつないでいくだけで、竜王さえもおどろかせる成果を出す」
いつもなら、このあと、大笑しそうであった。
しかし、闇の竜王は笑わず、ただ、静かに、低い声で語るのみだ。
「……ここは、ほんの少しだけ、そういう傾向が強い土地なのであろう。……『光の』に聞けば、また全然違った答えがもたらされるかもしれんがな」
「それで」こういう時に多少せっかちに口を開くのは、双子の妹の方、ニヒツだった。「闇の竜王さまは、ニヒツたちになにを言いたいのか」
「これより我ら竜王は、世界の創生に入る。……とはいえそれは、せせこましい浮島よ。世界を名乗るには小さな実験場にしかすぎん。我ら竜王は、そこで過ごすべき人種を選び、その世界の法則をひとつだけ提案できる。……もともとのベースは、『光の』が遊んでいたゲームの世界観らしいが……」
「……それが?」
「この遊びを、竜王だけでしてしまうのは、もったいないとは思わんか?」
「……」
「ニヒツ、クラール。『光の』は俺が説き伏せよう。貴様らも、ヒトの代表として一枚噛め。貴様らも世界の法則を一つ決め、そこに住まわせる種を一つ選ぶのだ」
「……どうして、ニヒツたちにそんなことをさせるの?」
「ヒトは、俺に勝利した」
それが、闇の竜王の判断であった。
だけれど、その上で……
「……ただし、たかだか一敗だ。その少なすぎる勝敗数のまま、ヒトとのかかわりを本当に一切捨て去り、箱庭遊びに興じるというのは、心残りがありそうなのだ。だから、創生に、ヒトをかかわらせたい。そうすれば、なにかしらの勝負の機会もあろう」
「あなたは、負けたいの?」
「少し違う。俺は、納得したいのよ。竜王はたしかに強壮ではあるし、世界に満ちた元素を司ってはいるが、実際に生きてみれば、我らでさえわからぬ法則がある。最強の超越存在だなんだとうそぶく我らはしかし、ヒトに魂があると知覚しながら、その魂が肉体の死後にどこに行くかさえ知らぬ」
「……」
「ヒトは、我らの予想もつかぬものを持っており、その輪郭さえ見せておらん。これは、知りたいとは思わぬか?」
わからない。だから、やる。
なぜなら、楽しそうだから。
……この存在は、いつでも、そうだった。
これからも、そうなのだろうし、今もまた、そういうことなのだろう。
「さて、そういうわけだ。あらかじめ聞いておくか。――ニヒツ、クラール。貴様らが新しく生み出される世界に望むことは、なんだ?」
唐突すぎて、言葉に詰まる。
けれど、相談の必要はなかった。
双子は一瞬だけ視線を交わし……
穏やかな顔をした美青年……クラールが、口を開く。
「幸福を望みます。どのような困難があろうとも、最後にはきっと、すべてが幸せに終われることを。……もしも、同じ確率で不幸と幸福が起こるならば、なるべく幸福が起こることを、望みます」
「確率の恣意的収束――よかろう。この俺の名において、その願いが世界に溶け込むことを約束する。そして、貴様らはどれを住まわせんとする?」
「獣人を。……自然と生きるもよし。文明の中で生きるもよし。普通に生きて、普通に幸福になり、普通に亡くなる、彼女のような存在を望みます」
「請け負った。……やはり、貴様らにとっては、ムートがもっとも特別な存在か」
ニヒツがすかさず「もちろん」と述べた。
闇の竜王は――笑う。
「フハハハハ。……よし、では行くか」
「え、もうですか?」
クラールが目を丸くする。
闇の竜王は、後脚で立ち上がりつつ、翼をはためかせた。
皮のない翼だというのに、不自然な風が起こる。
その風に、その威容に、立ちのぼる闇に、そこらにいた村民たちがどよめき、闇の竜王のほうを見た。
「死者の想いが土地に残るならば! もはや、この土地の結末は決まっている! 幸福になることがわかりきった場所でのスローライフなど不要! スローライフとは! どうなるかもわからぬ明日を創意工夫で必死に迎えることである!」
そうかなあ、とニヒツが首をかしげる。
「クックック……ハッハッハ……ハァーハッハッハ!」
闇の竜王は翼をはためかせ、夕暮れの空に飛び立った。
すさまじい速度での飛翔。
その巨体は一瞬で黒い点のように小さくなり、そして、ついには、完全に、見えなくなる。
残された村民たちに動揺は少ない。
誰もが闇の竜王とヴァイスとの約束を知っていたし――
この村の者はみな、竜王の力にすがらずに生活をしていくことを当たり前と考えていた。
ただ、そこにいただけの竜王。
……もとより、かの竜王は生命に対し緊急の危機がない限り、ほとんどヒトに手を貸すことはなかった。
だからこの村には食べ物があったということなのだ。
普通に寝て起きて明日も生きていることを、誰も疑わなかったということ、なのだ。
日々こなすべき仕事はあるけれど、それは、未来に夢を持てるぐらいには余裕があったと、そういうこと、なのだった。
竜王が力を貸す必要もないほど、平和というものだったのだ。
ずっと。
見出した『平和』の定義はゆるがされることなく、ここにあり続けた。
この無理難題をやってのけた者を、勝者と称えずなんとする?
遠く――
暮れゆく果ての空。気の早い夜闇の中から、声が響く。
「平和な世でのスローライフ! 良きものであったぞ!」
地の底から響くような、低く重い声であった。
それは――
もう、ここにいない誰かに対して告げられた言葉のように、遠くまで、力強く、響いた。




