82話 闇の竜王、平和を理解する。
最初の二年ぐらいは、故郷の生活になじめなかったと思う。
ヴァイスは農業について様々な知識をまとめ、それを故郷に送った。
そして農業は、農村の生活と切り離せないものだ。
結果として、色々な農村の『習慣』までもが故郷には流入していた。
様々な儀式。
節目に『祭り』をやる意味。
また、ヴァイスの視点にはやはり『神官』特有のものがどうしても混じっており、その視点で書かれた『農村の生活』にもまた、そこらに神事が息づいていた。
そしてヴァイスはある日、気付くのだ。
この集落、『祭り』をやりすぎ――
もちろん『飲んで騒ぐだけのめでたい日』というのが年に何回もあるわけではなかったけれど、厳かだったり、あるいは村人同士の力関係を決めたりといったような儀式が、結構な頻度でちょいちょい挟まる。
その目まぐるしさに息を乱され、ぜえはあしているうちに一年はすぎていった。
次の一年はちょっとだけコツを掴んだ生活リズムの微調整という感じですぎていき、三年目に入るころにはようやく順応することができた。
生活様式というのか、風習というのか、そういうものに順応してくると、村の変化に目を向けられるようになっていく。
まず、闇の竜王の祭壇が年々アップグレードしていくのに気付いた。
というよりも、そこはもはや祭壇ではなく、ゆくゆくは『神殿』になりそうな基礎工事がおこなわれていた。
水の竜王が神として崇められていることを思えば、同格の闇の竜王もまた神のごとく崇められても不思議ではないが……
問題は闇の竜王がそのようなことを望む性格ではない、ということだった。
「クックック……ハッハッハ……ハァーハッハッハ!」
昼日中……
明るい場所で見れば見るほど、それは神殿以外のなにものにも見えなかった。
とうに闇の竜王の笑い声に慣れているのであろう人々が全然無反応でそれぞれの仕事に精を出す中、ヴァイスは闇の竜王の寝所の前にあった。
石でできた底部にはいくつもの太い柱が建てられ、その中央で、かの存在は大笑していた。
その骨のみの体は巨大。しかし、過去に窮屈そうにおさまっていた石の寝所はもはや面影もなく、今やかの存在がねぐらとするのは、翼を広げても飛び出さず、首を伸ばしても天井に頭をぶつけない、田舎集落には不釣り合いすぎる立派な神殿……の基礎であった。
「ヴァイスよ……この俺が神のごとく崇められるのをよしとせぬと、そう申したか……! よくもまあ、この俺についてわかっているようだなあ……!」
ここで闇の竜王慣れしていないと『わかっているようだなあ(愚かにもそう思い込んでいるだけだ)』という()内を想像するのだが……
闇の竜王の発言は、たいてい言葉の通りであると、ヴァイスはよく知っている。
だからヴァイスはうなずいた。
「そ、そうですよね……闇の竜王さんが神殿におさまろうっていうのは、よくよく考えると違和感が……」
「フハハハハ! だが、愚かよ!」
「え、まさか……闇の竜王さんの言葉に裏が……?」
「愚か! 愚か! この俺の言葉に裏などない! であればこそ、わからんか? この神殿が、なんのためにあるか……」
「…………神殿は、神様を祀るためにありますが」
「そうだ! それで、ヴァイスよ。なぜ、この神殿が神殿であると、未だ完成せぬこれを見てわかった?」
「それは……」
見慣れていたから。
……闇の竜王が坐すその石の建造物は――特に柱などが、ヴァイスのつとめ上げた神殿のものと同じ様式だからだ。
「これはな、水の竜王を神と崇める連中のための神殿よ。この俺は――他にいていい場所がわからんので、ここにいるだけなのだ!」
「ええ……そんな、闇の竜王さんでしたら、どこにでもいていい……というか、闇の竜王さんの寝床があった場所に水の竜王さんの神殿を建てなければいいのに」
「ここが村の中心にあたる部分だったゆえにな。……見るがいい! 村にはヒトが増え、畑は広がった! 家々が建ち並び、様々な職業の者が暮らすようになった! その結果、村の拡張が行われたのだ! 俺の寝所を中心とするかたちでな!」
「なるほど……」
「クククク……! この俺は目標としてちょうどいい大きさよ……! 村を拡張していくにあたり、この俺との距離を測りつつ森を拓いていったところ、この俺が中心となるは自明!」
「なるほど……いえ、でも、わざわざ神殿を建てることはなかったんじゃあ」
「本気か?」
闇の竜王の声が、あまりにも愕然としていた。
ヴァイスは自分が気づいてしかるべきことを見落としているのだとわかり、考えて――
「…………私が死んだあとに、備えていますか?」
ようやく。思い至った。
闇の竜王は半ば守り神のように、そこにいる。
だが、それは、ヴァイスとの約束があるからだ。
ヴァイスが死んだあと、かの竜王と交わした約束は完遂され、かの竜王はどこへ行くか、自身でさえ保証できない。
そして、守り神――神というのは、意外なほどに大事だ。
祈るという行為は他者を救わないけれど、祈った当人を救うことはままある。
すがるべき人知の及ばぬ大きなものが、そばにいるのだという安心感は、不安な夜に安眠を与えてくれることもある。
そして、災害など、人の力が及ばぬことは、必ず起こる。
けれど人は、力及ばぬ危機に際した時に、無駄だとわかっても、命を落とすかもしれなくとも、なにか、行動を起こしたがる。
……そんな時に『神に祈る』という安全な行為が選択肢の中にあれば、どれほどの人命が結果的に救われるだろう。
ヴァイスは、祈りと信仰のシステムをそのように理解していた。
そして、
「……ああ、それに、神殿があるのとないのとじゃ、全然違いますものね。神殿があるなら、神官が派遣される。すると、馬車がここまで来るし、定期的に来るなら、道ができる。道ができればそれが販路になる可能性もある――」
――世界と、つながる。
近隣の村と交流するだけではない。
もっと広い世界と、ここが、つながっていく。
神殿というのは、そのために必要なランドマークなのだった。
闇の竜王は――
「クックック……ハッハッハ……ハァーハッハッハ! ヴァイスよ! 見てくれの変わらぬ貴様よ! 中身は成長しているようだな!」
竜王からすれば体の大きさが変わっていないヴァイスは『見てくれが変わらぬ存在』なのかもしれないが……
そろそろマジでいい年齢のヴァイスとしては、やっぱりもう十五年前とは全然違う。体力とか、肌とか、髪とか……
遠目に見ると小さくて童顔だけれど、そこにはしっかり年月が刻まれているのが、近場で見ればわかるだろう。
「どうしたヴァイスよ。そのひきつった笑いは」
「……いえ。というか……そこには私が気付くべきでした。ごめんなさい」
「フハハハハハハ! ……すぐに謝るな、ヴァイスよ。どうにも最近気付いたのだが、ヒトは、俺が思うよりもずっとずっと脆弱らしい。それは肉体だけではなく、思考力、観察力もよ。同時に行うことのできるタスクの数には限度があり、その限度はあまりにも少ない」
「……そうですね」
「俺は傍観的立ち位置をとり、竜王としての権能を奮わぬようにしてきたが……まあ、村民としての立場もあるゆえにな。気付いたことを述べるぐらいは、してもよかろうと、そうしたわけだ」
「……」
「思えばおかしな思い込みであった。俺自身もまた世界の一部とするならば、俺の周辺環境のために力を尽くして悪い道理はなし。……とはいえ、その理屈と、竜王の力という現実とのあいだには、埋め難い齟齬がある。フハハハハ! 理想と現実の狭間で悩む! これもまたスローライフよ!」
「悩むことが、スローライフですか」
「そうだ! 行動派の俺が、じっとひとところに留まって、遅々として進まぬ貴様らの日常をみながら、思索にふける……この時間をスローライフと言わずなんと言う! ククククク……! まことに退屈! まことにじれったい! けれど、無為とは言わぬ。面白い芽吹きにも出会えたゆえにな」
ふと。
ヴァイスの脳裏に、懐かしい記憶がよぎった。
闇の竜王と出会う以前の、自分。
野菜クズの浮いたお湯を、スープと言い張って食べていた。
なんとなく『明日、死ぬかも』という予感を毎日抱きながら生きていた。
そんな子供が神殿の巫女にまでなったのだから、それは、さすがに、芽吹きだと――芽が出たのだと。なにかを成したのだと。そういう評価を受け止めなければならないだろう。
自分で自分を認めるというのは、気恥ずかしく、どこか申し訳ないけれど。
自分を認めてくれている相手の意見を認めないというのは、もっと申し訳なく思う。
『だから』
……ではなく。
申し訳なく思いつつ、そう思ってしまうことは止められなくって、その反射的感想はずっとつきまとうものなのだろうけれど――
『それでも』、自分を認めるのだ。
申し訳ないから認めるのではなくって、申し訳なさをねじふせて、自分の成長を実感しながら、その先にある、昨日の自分ではつかめなかった未来をつかむ、そういうことを、楽しんで生きていくのだ。
すると、人生は楽しくなっていく。
なにもできない自分を信じるという、とてつもなく難しいことをどうにかやっていくうちに、だんだんと、可能性が広がっていくのを――芽が出てくるのを、感じるのだ。
「また新しい芽が出ますね。……ぽかぽかして、穏やかで、平和な日々が続けば、どんどんいろんな芽が出ていくのでしょうね」
村には気づけば何組かの夫婦がいて、そこには子供だっている。
ムートもきっと、そう遠くないうちに、子供ができるのだろう。
闇の竜王は、笑う。
「フハハハハハ! 平和! なるほど、これが平和か! 竜王の身で耕せる畑などあるものかと思っていたが――なるほど、この畑の畝には、俺の爪も一枚噛んでいるのだな」
闇の竜王が翼を広げる。
すると、皮のないそれの動きに連動して、不自然な風が起こった。
「ヒトよ、闇の中で安堵して眠れ」
真昼間の村落に、闇の竜王の野太い声が響き渡る。
「平和とは、夜の闇に怯えず、明日来るかわからぬ不安に悩まされず、空腹ではなく、そして、闇の先にある未来を描けるということである! フハハハハ! 今、俺はようやく『平和』を理解した!」
「よかった……ん、ですかね?」
「クククク……すべては闇よ。結論を出すにはまだ早かろう。さて、あとはスローライフを送るのみ。通常、それはいつまでも続く日々を指すのであろうが……幸いにも、俺のスローライフには期限が設けられている」
――ヴァイスが死ぬまで。
「ゆえに、貴様に命じよう。俺の理解した『平和』の定義を曇らせ、歪ませるなよ。すべてが終わったあとに、俺につまらんと思わせるなよ。闇はいつでもそこにあり、貴様を見ているぞ」
「……可能な限り、がんばります」
「フハハハハハ! そこは『任せてください』とか『約束します』と言え! だが、貴様らしい中途半端な返答、実によし。――英雄にあらざる者よ。貴様はそのように誠実であれ」
「それなら、お約束します」
誠実という言葉の意味は、醜くなった今のヴァイスにとって、かつて、この集落を出る時に思っていたものと変わってしまった。
だから、醜い自分が汚い世界で身につけたものもふくめて、誠実に、ヴァイスは応じた。
その誠実さは――
最期まで、守り通された。




