79話 巫女をやめる日
都会の季節のうつろいは故郷よりもずっとぼんやりしているように感じられた。
その代わりに流れが早くって、暑さや寒さを実感したころにはもう変わっている。
ヴァイスは巫女として信者たちにすっかり認知されていて、もはやその職分を彼女がつとめていることに強く反対する者はいなくなっていた。
神殿も組織である以上、人の代謝がある。
古くからいた人にとっては『新参者』だったヴァイスも、新しく入った信者にとっては『すでに巫女だった人』になる。
さらに五年も経つとヴァイスという巫女になにかを感じて神殿の門を叩く者も増えた。
それはもちろん水の竜王をはじめとした神殿のお偉方が、いかにも巫女らしく、神々しく、清々しく、触れ難いものとしてヴァイスの一挙手一投足を演出したというのが大きいだろう。
けれどヴァイス自身に、この手の『人の期待するもの』になりきる才能があったのも大きい。
……水の竜王はその才覚についてまったく予想していなかったようで、おどろいたようなことを言ったけれど、そのおどろきはいつの間にか忘れ去られて、最近では――
「わたくしが見抜いた通り、あなたには巫女の才覚がありましたね」
と、最初からわかっていた感じに、かの存在の中で改変されたようだった。
ともあれヴァイスは巫女としての立場を安定させ、数々の巫女業務はルーチン化していった。
初代巫女――つまり二代目以降も指名予定――であるヴァイスは、今までなかった巫女業務のマニュアルを生み出し、そのかたわら、農業について膨大な資料をまとめた。
まとめた資料はダークエルフに頼んで集落にとどけさせ、これが故郷の発展におおいに役立った。
そしてヴァイスの巫女就任から十五年も経ったころ、水の竜王が思いついたように述べた。
「そろそろ代替わりをしましょう」
あなたも歳をとってきたようですからね――と続いたことで、ようやくヴァイスは、自分の身に流れた年月を思い出した。
水の竜王は『自分の代弁者は若い美少女がいい』とゆずる気はないようだったし、さすがにそろそろ骨をうずめるべき場所に帰りたい思いもあったので、ヴァイスはこの申し出を受け入れることにした。
「実際、マニュアルの作成は予定以上の功績ですよ。褒められることが好きで、他者を褒めると損をしたような気分になるわたくしですが、こればかりは、手放しで賞賛せざるを得ません。わたくしがこのマニュアルをまとめたことにしましょう」
別にいいけど……
ヴァイスはさすがに水の竜王の人格にも慣れていたが、いくら慣れてもこの『まあいいんだけれど、なにかこう、モヤっとする』物言いはなんとかならないのだろうかとは思った。
「ともあれ、あなたのまとめたもののお陰で、わたくしも現場を離れることができます」
「現場……神殿をお見捨てになるんですか?」
「いいですよ、その言い回し。非常にゾクゾクします。懇願の気配、哀願の気配……『あなた様がいなくなられては、やっていけません』というわたくしへの依存を感じます。ちょう気持ちいい」
ヴァイスの水の竜王に対する態度は長い付き合いの中で最適化されていて、それはこういう何気ない言葉の端々に現れる。
水の竜王がその都度『今のはいいですよ』と述べるお陰で最適化は楽だった。
「しかし、いつまでも神殿のお世話をするわけにはいかないのです。なぜならば……ちょっと飽きてきたので」
「……」
「冗談です。しかし水は流れるもの。ひとところに留まる水は腐りゆくのみ。神殿に権力腐敗の気配を感じて巫女などというものを据えてはみましたが、その巫女が毎回こうもわたくしとズブズブでは、今度は巫女が腐敗します。権力には対立する権力をぶつけていきますが、まあ、直接的に差配するのは、あなたで最後でしょう」
その後の計画はすでに頭の中にあるようだったが、ヴァイスには関係ないと思ったのか、水の竜王はそれについて語らなかった。
それか、まだ思いついてない。
「とりあえず十五歳ぐらいの美少女をこれからも選出するだけはしていきましょう。後ろ盾としてはつきませんが……ああ、ヴァイスさん、なにかありませんか?」
「は? な、なにがですか?」
「あなたが常に身につけているものなど」
「物品ですか……ええと、神官服、神官の帽子、神官の杖……」
「そんなものではなく、もっと個人的なもの。できれば一点ものを」
しかし、ヴァイスは物にあまりこだわりがない方であった。
その暮らしぶりは清貧であり、その活動は精力的だ。
そういった無欲で勤勉な様子が信者にウケた面もある(もちろん水の竜王の宣伝戦略でその暮らしぶりが広く伝えられたのだが)。
長く使っているペンはあるが、これも特に一点ものというわけではない。
物持ちはいいので多くの物があったが、それらはすべて水の竜王の要求に適うものではないと、ヴァイスは察した。
どうにか要求に応じようと悩みに悩んで、
「あっ! 一点ものと言えば、名前でしょうか」
「……………………今、検討します。しました」
検討したとは思えない爆速検討だった。
水の竜王はため息をつき、
「わかりました。では、竜骨兵人形にしましょう。『闇の』から受け取っていたとわたくしは聞いていますが」
「ああ〜……実家です」
「…………まあ、いいでしょう。それをください。わたくしが選んだ巫女に渡します。その人形の所持をもって、正式なわたくしの巫女とすると伝えておきましょう」
相変わらず『別にいいけど、もやっとする』物言いだった。
それはヴァイスが『あげる』と言っていないのに、水の竜王の中ではすでに『もらう』ことになっているあたりの、相手の意思をかんがみないところからくる『もやっ』だろう。
まあ、慣れているので、この話題を振られた時点で、なにかしら要求されるとは思っていた。
だから、渡してもいいものを挙げたというのはある。
……自分が持っているよりも、水の竜王が持っていた方がいいだろう。
なにせ若かりし日に受け取ったあれは子供のおもちゃのつもりで作られたもののようで、自分はもう、とっくに――というか闇の竜王と出会ったその時から、すでに、子供ではないのだから。
だけれど、手放すとして、ヴァイスは条件を出した。
「差し上げますが、その代わり、五体セットで管理してくださいね」
「ええ……なぜ……」
「ばらばらにされたら、かわいそうですから」
「…………ふむ。まあ、いいでしょう。では、巫女はこれより、竜骨兵人形を受け継ぐことと……わたくしの巫女なのに、なぜ闇の竜王の似姿の人形を受け継ぐという話になっているのでしょう?」
急に正気に戻った水の竜王により、この話はもうちょっと紛糾した。
その後、巫女は『ヴァイス』という名を受け継ぐこととなり、竜骨兵人形をどうするかはうやむやになった。




