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77話 都会暮らしの中で

 しばらくは、心細さとの戦いがあった。


 日々はおどろくほど多忙で、したいことができないというのが日常茶飯事だった。

 水の竜王から与えられた立場は予想していたよりもずっとずっとヴァイスから自由時間を奪ったし、想像もしていなかったさまざまな問題が発生し、経験したことのなかった種々のストレスも発生した。


 唐突にどこかよく知らない場所から連れてこられた小娘が、水の竜王の名代として託宣を降す――などということをすんなり受け入れる者はいなかった。


 しかもヴァイスが亜人であり幼い――実際は幼くもないのだが、そう見える――少女であることも災いした。


 直接的な暴力からは常にそばにいる水の竜王が守ってくれた。

 けれど間接的、あるいは精神的な暴力について、そのすべての解決を水の竜王に一任するわけにもいかず、ヴァイスは『これ』に……いわゆる『人間関係』に悩まされ、学びたかった農業についてのことも手につかない日々が長く続いた。


 ……もしも。


 もしも、流されるままにこの立場にあったならば、きっと、ほんの数日で嫌気が差して逃げ出していただろう。

 あるいは、水の竜王やヒトの社会なんかを責めて、けれどそれを表におおっぴらにすることもできず、不満を溜め込みながら、『ここで逃げたら送り出してくれたみんなに申し訳がない』だなんて思って、耐えただろうか。


 けれど、自分の意思で旅立ったのだ。


 やめてもいいと言ってもらって、なおかつ自分は、すべて受け入れて集落の外に出ると決めたのだ。


 ……選択肢がなかっただけなのを、必死にそう思い込もうとしているだけかもしれないけれど。それでも、自分で選んだという記憶が、誇りが、ヴァイスを支えていた。


 だからヴァイスは耐えるのではなくて、解決のためにどうすればいいかを考えることができた。


 考えれば考えるほど相手の言い分に理があって、たしかに自分も、よくわからない、どこから来たのかわからない、なんの人種かもわからない、幼い女の子がいきなり頭上にポンと出現したら、びっくりするだろうなあ、と思うばかりだった。


 だから、『びっくり』に配慮することにした。


 誰かの望むままの自分になるのは、どうやら天性の才覚があったらしい。

 ヴァイスは接する人が望む『巫女』のありようを上手に察して、それを演じることができた。

 演じるというのはその演技を見せる相手が身近な存在であるほど難しい。

 同じ屋根の下で暮らしていた妹の『理想』になりきってきたヴァイスにとって、出会ったばかりの神殿関係者の『理想』っぽい人格を演じるのは、さほど難しくなかった。


 自分の生き様を曲げずに、その表層に『巫女』という皮をかぶるというのはなかなか新鮮な感覚で、いかにも巫女らしいことを言いながらどこかに常に冷静な自分が存在するのに、自分で笑いそうになってしまう。


 どうにも自分は、仮面をかぶるのがうまいらしい。

 嘘をつくのも、さほど心が痛まないようだ。


 また一つ、醜い自分になって、嬉しかった。


 醜く濁れば濁るほど、『誰かの理想』ではなく『現実に生きている自分』が確固たるものとして形成されていっているような実感があった。


 ヴァイスはヒトの社会での生き方を覚え、うまくやっていった。


 もちろん、常にそばに水の竜王がいたことも、うまくやれた理由として大きかっただろう。


 水の竜王は神殿上層の一部とのみ顔を合わせ、多くの信者の前には決して姿を表さない。

 そもそも、信者の大部分は神殿の崇める神が水の竜王であることを知らない様子でさえあったし、神殿の中である程度の地位にある者も、これほど直接的に水の竜王が神殿運営に口を出しているものとは思っていないようだった。


 あの承認欲求の強い水の竜王が、その存在を隠すようなまねをしているのは、最初、不思議だった。

 その理由についてかの存在は、


「だって、簡単に姿を見せたらありがたみが減るではありませんか」


 と語っていたが、これは必ずしも本当というわけではないと、ヴァイスにもわかるようになった。

 ありがたみが減る、というと、いかにも宗教的な物言いだし、それは間違いではない。

 しかし、その『ありがたみ』という言葉の中には実に色々な意味が込められていて、その言葉の意味合いが一つではないのだとわかってくると、ふだんの水の竜王の物言いがいかにずるい(・・・)かもだんだんわかってくる。


 そして、ヴァイスは意識的にそのずるさ(・・・)を身につけて行った。


 また一つ、醜くなった。


 社会という汚泥の中にまみれて、自分に色々な汚れが付着していく。

 それはきっと、誰にも望まれない姿だった。


 たとえば、鋼でできた刃物だ。


 自分は新品のままの、美しい輝きを放つ刃物であれと望まれた。

 けれどその刃物で皮を削いで肉を抉って、内臓を掻き出せば、刃物には使用した痕跡が残る。

 そういった痕跡――細かい傷とか、血のにおいとか、脂によるテカりとか、そういうものが、自分を『できたての名もない刃物』から『ヴァイス』という唯一無二のものにしてくれているような、そういう感覚がある。


 季節が巡っていく。


 なるべく早く帰るとムートには約束したけれど、それは叶いそうもない。


 気付けば一年が過ぎ、二年が過ぎた。

 たまに手紙は出しているものの、あの僻地に手紙を運んでもらうにはお金がかかり、なおかつ、人を選ぶ。

 具体的には闇の竜王の笑い声に怯えず、ダークエルフたちに絡まれても泣かず、リザードマンたちに囲まれても謝らないで、あと、あの集落の場所などを漏らさないと信頼できる人が必要だった。


 なので手紙のやりとりは年に一通か二通程度に抑えざるを得ず、枚数を書けば状況をつぶさに伝えることはできるが、どうしたって情報の鮮度は落ちた。


 神殿での生活はだんだんと楽しくなってきたところだ。


 仲間が増え、友もでき、信頼できる人もできた。

 水の竜王の後ろ盾しかなかったヴァイスは、仮に水の竜王がいなくなっても、簡単には巫女の座を追い落とされないだけの地盤を築きつつあったのだ。


 また、本分も忘れてはいない。


 神殿の祭事ということで色々な農地を周り、巫女として水の竜王からの託宣を伝えるということを何度かこなした。

 行った先で作物の様子を見たり、種などをもらうこともできた。


 そこでヴァイスは、水の竜王が自分を巫女にした意図の一部を察する。


 ルージュらの話では、自分みたいな混血は世間での風当たりが強いものということだったが……ヴァイスは、その風当たりを実際に感じることがまれだった。

 出向いた農地において、ヴァイスは亜人とか混血とかそういう呼ばれ方をすることはなく、ただ、『巫女さま』と呼ばれた。


 ……肩書き。


 ヴァイスを差別される人種ではない他のものであると示す肩書きが必要だったのだろう。だから、水の竜王はヴァイスに巫女などというものをやらせたのだろう。


「いえ、まあ、副次的にそういう効果も出るかとは思っていましたが、わたくしがそんな、あなたのためだけになにかをするなど、あると思いますか?」


 ないとは思わない。

 そういう気分になることもあるだろう。

 竜王は気まぐれだし、ただの気まぐれでできてしまうことが非常に多い。


 けれど、どうにも、ヴァイスを巫女に就任させた裏には、まだまだたくさんの意図と計算がある様子だった。


 日々が過ぎていき、季節が巡っていく。


 ヴァイスはあの集落のことをいつも心の中に置いていたけれど、それでも戻ることはしなかった。

 単純に毎日なにかしらの予定があり、常に七日後ぐらいに締切の仕事があり、三十日かけるプロジェクトにはいつだって参加中で、一ヶ年計画が複数平行で動いていて、帰る余裕がなかったのだ。


 そして無理矢理余裕を作ろうとも思わなかった。


 顔見せに帰りたい気持ちはあったけれど、あそこに帰るなら、腰を落ち着けられるようになってからにしたいという気持ちがあった。

 余暇を見つけて一泊か二泊ぐらいの帰郷をしてしまうと、もう、生活の根があの集落ではなく、この都会の神殿に降りていると認めてしまうみたいで、嫌だった。


 だから、ヴァイスがその方針を急に転換して、一泊でも二泊でもあの集落に帰ろうと決意したのは、ムートからの手紙が原因だった。


『むら が ひと に みつかった』


 拙い文字で書いてあったその文章は、前後をどれだけ読んでも、どういう状況であの集落が見つかったのか、見つかったあとにどんなふうになったのか、そういうことが読み取れず、なんとも不安にさせられた。


 だから、ヴァイスは集落に戻ることにした。


 すでに、あの土地を出てから五年の月日が流れていた。

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