76話 旅立ちの日に
暖かい季節が再び来ようとしていた。
一日は誰の身の上にも平等な時間であり、その中でできることは限られている。
手荷物をまとめるだけで準備が完了する身の上の者もあれば、種々の引き継ぎやらその他準備を行わなければならない身の上の者もいる。
ヴァイスは後者だ――というか、この集落の者はすべてが代わりのいない働き手だ。
だからヴァイスは自分の抜けた穴を少しでも埋めるために、冬いっぱいの準備を必要として――
今日、集落の外へと発つ。
昼時の集落の広場では、薄い青色のローブに身を包んだ彼女を全員で見送っているところだった。
みんなに見守られているヴァイスと言えばとても恥ずかしそうで、本人の様子を見ていると『ひっそり出ていきたかった』という想いがあふれているようにしか見えなかった。
それもそのはず。
ヴァイスの神官服は……かわいすぎた。
ケープにはフリルがつき、ワンピースタイプの服は腰あたりできゅっと絞られ、その下のスカート部分はふんわりとふくらんでいる。
荷物が入ればいいだけのはずのポーチには金具での装飾があったし、極め付けにブーツや杖まであきらかに実用的とは言えない装飾が入り、ブランドロゴまで入れてある。
その服装のヴァイスを見た水の竜王はご満悦という顔でうなずき、
「体型が変わらなかったことを褒めてあげましょう」
「あ、ありがとうございます……」
「ふむ。……ふむふむ」
水の竜王は大人の女性モードで、ヴァイスの周囲をぐるぐるまわり、色々な角度からヴァイスをながめている。
そうすると髪の毛でしか体を隠せていない彼女の豊満で美しい肢体がいろんな角度からチラチラするのだけれど、集落のメンバーは水の竜王の人格を知っているせいか、あらゆる者が興奮はしなかった。
「よろしいでしょう。これならばわたくしの巫女としてやっていけます」
「あの、よろしいでしょうか?」
ヴァイスが挙手する。
水の竜王は腕を上げたヴァイスの袖のラインの美しさをながめてから、
「なんでしょう?」
「私は集落の外にお勉強に行くために、神官として偽装させてもらえるという話だったので、神官のお勉強をしましたが……それがなぜ、巫女になるということになっているんでしょうか……?」
「なぜというか、わたくしが、思いついたからです」
「いえ、しかし、その……神官という立場を与えてくださったり、外に出て私が安全にやっていけるようにしていただけたりと配慮していただいたことには、感謝の念がたえませんが……」
「ふむ。続けて」
「そのお礼として、なにか私にできることがあるならば、お手伝いしたいと思うのも、本音ではありますが……その、私はその巫女というものになって本来の目的であるお勉強などが、本当にできるんですか?」
「…………なぜ、今それを?」
「いえその、当時は巫女の正式な業務内容についてはお考えでなかったようなので、さすがに今なら考えてあるのかなと……」
この時、ヴァイスを見送るために集まっていたメンバーは、不穏な空気を感じ始めていた。
特にリザードマンハーフのルージュなどは、あのヴァイスと水の竜王のやりとりを見ていて、胃が痛むようなストレスを感じていた。
ルージュは、ああいう雰囲気のやりとりに覚えがあったのだ。
なんらかの企画において、上司が舞い上がったすえに下達をせずに色々とかんがえてしまい、その考えが上司の中で固まったあとで下達されたあと――
上司の安易で無駄な思いつきを否定するわけにもいかず、さりとて企画の本筋から外れきった『舞い上がったすえの思いつき』に予算と労力をとられるわけにもいかず……
けっきょく中間管理職である自分がいろいろなものをやりくりし、部下に頭を下げ、残業し、しかしうまくいったところで上司の手柄、失敗すれば職務怠慢という、案外よくある事件――
それと酷似した不穏な空気が流れ始めている。
ルージュは決意した。
必ずかの邪智暴虐な水の竜王の毒牙からヴァイスたんを守らねばならぬ。
決意したので、とりあえず、水の竜王が沈黙しているうちに、自分に味方する戦力をそろえておくことにした。
すすす、と目立たぬように移動し、ルージュはダンケルハイトに話しかける。
「おい、おい、脳筋」
「なんだよ社畜」
ダンケルハイトはアホではあるが、さすがに今、大声で話していい感じではないと察しているらしい。
二人のやりとりは小声で続く。
「私はこの流れを知っている……ここから水の竜王の思いつきが優先され、ヴァイスたんが本来したがった活動時間やそのための予算が食われる流れだ。私はこれを止めたい」
「……なに? 活動……予算……?」
「……私が合図したら水の竜王に殴りかかれ」
「ちょっと闇の竜王様にやっていいか聞いてくるから待ってろ」
「かの竜王は小声で話せないだろ……! 決行の瞬間まで気取られてはならんのだ。頼む」
「闇の竜王様にできないことなんかねぇよ!」
「大声を出すなバカ!」
「バカって言った方がバカなんだぞ⁉︎」
大人の女たちのやりとりを水の竜王はちらりと一瞥し、そしてヴァイスに視線を戻す。
「……なるほど、あなたの考えも一考の余地があります。わたくしも舞い上がっていたようですね。必要な説明をしていませんでした」
「はあ。それで、巫女というのは、具体的になにを?」
「巫女というのは、わたくしの代弁者です」
「……ええと」
「つまり、活動内容は……わたくしの思いつきを、民衆に広く伝えたり、そういうことを予定しています。もとよりわたくしは直接人前には出ず、神殿の偉いおじさんたちに考えを伝えることで活動してきましたが……わたくしの名代がおじさんというのは、なにか、生理的に嫌でしょう?」
「…………」
その感覚がぜんぜんわからなかったので、ヴァイスはとりあえず愛想笑いを浮かべた。
水の竜王は『わかってくれた』と解釈した。
「ですので、今後は、わたくしの意思は美少女を通して伝わります」
「……それは、私が美少女ということになってませんか?」
「いいですかヴァイスさん、よくお聞きなさい。あなたの謙虚な性格から発する遠慮やらなにやらを相手にしたい気分ではありません。汝は美少女。わたくしが決めました。以降、これに反論したり、疑問を抱くことは許しません。もしもそんなことをしたならば、その時たまたま近くにある村に干魃か洪水が起こります」
竜王らしい雑で大規模な迷惑さだ。
ともあれヴァイスはこうして自他ともに認める美少女になった。
水の竜王は腰をかがめて美少女の耳にささやきかける(襟首の様子を確認している)。
「いいですか、あなたは、わたくしの名代になるのですよ。ある意味で、宗教権力を握る存在です……」
「でも農業と関係がないような……あと、それは私ではない方がよろしいのではないでしょうか……」
「あなたをその立場に据えることは、必要な事後処理です」
「……ええと」
「ともあれ、そう決まりましたので、そういうことです」
よく知らないところで、よく知らないまま壮大な話が動いている気がする。
ヴァイスはなんとなく助けを求めるように闇の竜王を見た。
闇の竜王は祭壇の中にあり、その骨のみの体をただの骸のように動かさず、じっとしていたが……
「竜王の思惑はあろうが、ヒトたる貴様がどうするかは、貴様の自由よ」
「……」
「そもそも! 水の竜王に気を許してすべて任せておくからそうなる! フハハハハ! まずは一つ、ヒト社会の洗礼を受けたということよ! 言っておくが、この俺は貴様と水の竜王との個人的なやりとりにまで口を挟むつもりはない」
「……それは、その……」
「その思惑は、ヒトの知能の及ぶ範囲内において、防ぐことも可能であったと俺は見ている」
「……」
「思惑を成立させる下地に竜王の力があったことまでは否定はせぬがな! ……だが、だが、ヴァイスよ。貴様がこれから出ていく『ヒトの社会』には、まま、こういうことがあると心得よ」
「……まさか、教訓にするために、水の竜王さんはこんなことを?」
「フハハハハハハ! 絶対にない!」
「ええええ……」
「あれがそんなに親切なものか! ……あれには、あれの思惑がある。それはゆるぎない。そして、その思惑のために、貴様を利用することを思いついたのであろう! しかし、今回、あれはその思惑を通すのに、貴様とのあいだにできた関係性しか使っていない。貴様に着せた恩義と、貴様の流されること水のごとしというような性格しか利用していない……背景に権力と人脈はあったがな!」
「……」
「わかるかヴァイスよ。水の竜王は貴様に教訓を与えるつもりなどなかったであろうが、たしかにこれは、教訓なのだ。そしてなにより、最後の選択肢でもある」
「最後の選択肢、ですか?」
「あんな感じのことが横行する『ヒトの社会』に飛び込むか、それとも、やめるか」
「……今さら、やめる? でも、それは、水の竜王さんとか、色々準備してくれた村のみんなとか……私のわがままのために折れてくれたムートにも、申し訳ないと……」
「選択肢を自らの意思で狭めるな、ヴァイスよ」
「……」
「恩義。関係性。感謝。フハハハハ! そういったもので縛り付け、貴様をいいように扱おうとする者も多かろう! 水の竜王とかな! ……けれど、最後に自身の行動に責任をとるのは自分自身であり、行動を決めていい責任者も自分自身以外にないのだ」
「でも、水の竜王さんに助けていただいているのは事実ですし……」
「うまく人生を運ぶならば、適宜『知らんがな』を使っていくことだ」
「知らんがなって……」
「『考える』ことに拘泥して知性をにぶらせるな。『報いる』ことに耽溺して選択肢を狭めるな」
「……」
「フハハハハ! なるほど、思考放棄を行う者は愚者に見えよう! 恩義に報いることを知らぬ者は不誠実のそしりを受けよう! だがな。……だがな、ヴァイスよ。それでも、自由に笑って生きる者こそが勝者だと俺は考える」
「……」
「『申し訳ない』『恥ずかしい』『引っ込みがつかない』『臆病のそしりを避けたい』『バカにされる』『仁義にもとる』『誠実ではない』……数々の『心』が貴様をがんじがらめにする。そして、ヒトの社会は、知性をもってその『心』を操る者どもの渦巻く巣窟よ。そのことは、ルージュを見ていてよくわかろう」
「はい」
「『はい』⁉︎」
ルージュがめちゃめちゃびっくりして大声を出した。
闇の竜王は社畜を無視して続ける。
「気持ちや心というのは、どうにも、ヒトを構成する大事な要素のようだ。フハハハ! 俺には理解できているとは言い難いが、ヒトにとっては不自由を被るとわかりつつも捨て去れない『心』というものが必ず一つぐらいはあるらしい」
闇の竜王がその時眼窩を向けたのは、ダンケルハイトであった。
ダンケルハイトは軽く笑って肩をすくめるだけだった。
「ククククク……! そのせいで人生を失敗する者もある。だが、それでも捨て去れぬ心があるからこそ、ヒトなのであろう。……さて、ヴァイスよ。貴様はおそらく、まだ、どの『心』を持ち続けるのか決められる段階にいよう」
「どう、なんでしょう……」
「どうであろうな。だが、俺はそう見る。そして――今の貴様は、最後まで胸に抱き続ける気持ちを『申し訳ない』にしてしまおうとしているように見えるぞ。それでいいのか? 人生において行動を決める時、『申し訳ない』からそうするというような人生を、これから過ごすのか? それは、その人生は――」
「……」
「笑えるのか?」
その問いかけがヴァイスの心に刺さった。
『申し訳ない』を行動の理由にし続ける人生――
――人の顔色をうかがい続ける人生。
『誰かのための自分』という役割は、ヴァイスにとってとてもとても心惹かれるものだった。
それは、『自分のやりたいこと』がなかったから。
でも、今はできてしまった。
だからこんなに齟齬がある。
どうして目的なんか持ってしまったのだろう?
なんで、申し訳ないと思いながら人に尽くす自分に耽溺する権利を自ら捨て去ってしまったのだろう?
それは、闇の竜王のせい、なのだろうか?
かの存在がここをおとずれなくって、あのまま妹と二人で野垂れ死んでいたほうが幸せだったのだろうか?
……たぶん、それは、幸せだった。
妹以外にいなかった自分が、妹のために努力して、その努力は報われなかったけれど、でも、『精一杯生きた』という実感に包まれて死んでいけたのだから、それは、それは、とても、とても、幸せだったのだろう。
その時の自分を思い返して。
今の自分をかえりみて。
この先にどんな自分が続いていくのか想像して。
……あんまりにも、自分というのが、醜くなっていて、笑ってしまう。
「もう、私は、申し訳ないと思いながら生きても、幸せじゃなさそうです。きっと、笑顔を作ることはできても、笑えはしないのでしょう」
「ならば、どうする?」
「たくさん、色々なものがほしいと思っています」
「……ふむ? それは、金か? ヒトの世に出回る万能兌換貨幣か?」
「それも、ほしいです。それがあれば、色々なものが手に入るから」
「ならば、権力はどうだ? 多くの者を上から抑えつける力だ。ヒトが戦乱の世にあってそれのために味方さえ裏切る、魔性の力だ」
「それもほしいです。それがあれば、たくさんの人を動かせるから」
「ならば、力はどうだ? 権力ではない。財力でもない。言うなれば――暴力だ。ある意味ですべてと兌換可能な力よ」
「それも、やっぱり、ほしいです。暴力がなければ、私たちはきっと、生きていけない。暴力があれば、私はボアの脅威に怯えて天の助けを待つしかない状況にはならなかった。暴力があれば、選択肢が増えます」
「フハハハハ! ならばどうする⁉︎ それらすべてが手に入る者など、そうそうおるまいに! 貴様が笑うためにすべてを欲するならば、笑える日は来ないかもしれぬ!」
「欲にまみれた私を、きっと、妹は見たくもないのでしょう。あの子は私がそうなることを望んでいなかった」
そこで語られる妹は、ムートのことではなかった。
もうここにいない誰かのことだ。
たしかにここにいたことのある、誰かのことだ。
野良暮らしだというのに狩りを知らず、殺すことを知らず、血に汚れることを知らないままだったヴァイスを、そのようにした先人のことだ。
「でも今の私は、満足して綺麗に死ぬよりも、後悔してでも汚く生きたい。……だからやっぱり、水の竜王さんの申し出はありがたく受けさせていただくことにします」
「ほう。それは、『申し訳ない』からか?」
「いいえ。その方が『楽しそう』だから」
「…………フハハハハハハ!」
「どうなるかわからないから、やってみます。可能性だけはたくさん感じますし。そうして最後に、誇れる人生を大声で叫べたらいいなと思っていますよ」
「ククククク……! 醜い貴様よ! 汚い世界へ行くがいい! そして、汚泥の中で笑うがいい! どのような時でも、闇は貴様とともにある。ただし、足元から伸びるその闇と目を合わせることなきよう、気をつけろ」
「はい」
「あと、水の竜王の性格もそろそろわかったであろう! 気をつけろ! こいつはヒトの社会に出てからこそ力を発揮する竜王だ!」
「は、はい」
「フハハハハ! 俺から言うべきことは、このぐらいにしておこう……! それとも貴様はハンカチの所持までいちいち俺に確認されたいと思うか……⁉︎」
放っておくと闇のママが顔を出す。
こうしてヴァイスは旅立った。
そして、
いくつかの季節が、また巡る。




