75話 竜と猫
「クックック……ハッハッハ……ハァーハッハッハ!」
闇の竜王の大笑が響き渡る……
地を揺らすほど低く、生きとし生けるものすべてに骨伝導するほどに大きなその声……
皮も肉も骨もないその身から発せられるその音声は、初めて聞く者を恐怖させ、ちょっと慣れた者をびっくりさせ、そしてすごく慣れた者の眠りを誘う驚きの心地よさであった。
昼食を終えた集落で働く者どもはこのタイミングで竜王の睡眠導入音声をあびせられ、しかも陽気はぽかぽかと心地よく、動いていないと今にも眠りそうなので、畑の世話をする動きは普段の倍きびきびしていた……
「よもや、この俺の目の前にのこのこ現れるとはな……ククククク……貴様もほとほと恐怖を知らぬと見える……」
そう、闇の竜王の目の前にいるのは、集落の住人ではない……
森の外より来たりし者……
集落にいるどの種とも異なる特性を備えし者……
音楽を打ち鳴らし円を描きながらぐるぐる踊り狂う竜骨兵に囲まれ、逃げることもできず、ただその場で震えるその外来のものの正体、それは……
猫!
主に都市部に生息し、狩りをヒトに任せ、己はその自由闊達なかわいらしさをもってヒトよりエサを下賜される、真なるヒトの支配者であった。
だが、その都市部に君臨する暴君も、闇の竜王の目の前とあっては怯えてすくむしかない……
なぜならばその猫を助けようというヒトは、この集落には誰もいない。
そう、外来の動物は……どんな病気を持っているか、わからない。
ボアとの違いは、猫がヒトに寄り添って生きる動物であるというあたりだった。
どのようなヒトの病気を運んできているのかわからない……そのため、闇の竜王の指示により、集落の者どもは猫に近づかないよう厳命されている……
もちろん野生の猫という可能性もあるが、それは、これから確かめられるところであった。
そう――闇の竜王による事情聴取の時間だ。
「フハハハハ! 小さき命よ、そう怯えるでない……とはいえ、にゃあにゃあとしかしゃべれぬ身では、不便もあろう。――竜骨兵よ!」
その時、猫を取り囲みながらぐるぐる踊り狂っていた五体の竜骨兵が、ピタリと動きを止めた。
そして闇の竜王をそのままミニチュアライズしたような骨のみの頭蓋……そこにある真っ暗な眼窩で、いっせいに猫を捉えた。
猫は威嚇も忘れて怯えたように縮こまる……
そう、闇の竜王のパッシブスキルには『やたらと対面した者を怖がらせる』というものがあった……
闇の竜王はむやみやたらと闇のオーラを立ち上らせながら、
「やれ」
短く指示した。
すると竜骨兵たちがいっせいに猫に飛びかかり、その体を押さえつけ、口に何かを流し込んでいく。
哀れなり! 猫はその俊敏さも柔軟性もまったく活かすことができず、好き放題に肉体を蹂躙される……
そうして口に流し込まれた謎の粉を嚥下したあと、猫は解放され、咳き込み、そして……
「し、死ぬかと思った」
ヒトの言葉をしゃべった。
これこそ闇の竜王がその身を削って作り出した竜骨粉の効果。
与えた者に知性と言語能力を付与する、原因は闇、理屈は闇、仕組みも闇の闇の力である。
闇の竜王はカタカタと骨を震わせ笑う。
「フハハハハ! 猫よ! ああ、猫よ! まずは初めまして」
「初めまして」
猫は幼い少女のような声で応じた。
礼節をわきまえた猫の態度に、闇の竜王は満足げにうなずく。
「さて、貴様には色々と答えてもらわねばならんことがある……貴様ら猫は、ヒトの住まう土地で生きるものと聞く。ならば、貴様もまた、ヒトとともにここらに来て、そうしてはぐれて、ここに迷い込んだ……そうだな?」
「ヒトとともに……迷い込んだ……? わからねぇ。アタシはわからねぇよ」
猫の脳みそには難しい問いかけだったようで、猫はわけもわからないという様子だった。
闇の竜王は表現を平易にするためにしばし考え込んでから、
「飼い主はどこだ?」
「アタシは猫を見るたび『どこの子?』とか聞いてくるニンゲンのこと、うざいと思ってる」
「フハハハハ! 猫! 猫めが!」
「いかにも、アタシは猫さ」
「……貴様は、ニンゲンと一緒にいたのか?」
「『一緒』とは? どういう状態を指して『一緒』と呼ぶんだい? 街ですれ違っただけでも『一緒』というのか、それともある程度の食と住をともにした者がいるかという意味か……ニンゲンとともに生きるというのは間違っちゃあいないがね、その定義について、アタシはいつでも曖昧さを前に辟易しているのさ」
「とびきり面倒くさい人格が生えたな貴様! ククククク……だが俺は闇の竜王。貴様の中に感じる闇を否定はすまい……だがな、俺は小難しい話をしたい時しか、小難しい話をしたくない……俺が貴様の面倒くさい人格を尊重するのと同様、貴様にも俺の性格への配慮を望む」
「そうは言ってもねえ。猫には難しいことばかりさ。『はい』か『いいえ』で答えられる質問をおくれよ。猫の額を見てごらん? ここに、そんな複雑な中身が入っているように思うかい?」
猫の額は――猫の額ほどの大きさしかない。
白黒の虎柄猫は、長いしっぽをたおやかに揺らして、アーモンド型の目で闇の竜王を捉えた。
そこについ先ほどまでの怯えなどかけらもない……そう、彼女は知性を得ることにより、『強き者』にただ怯えるのではなく、その奥底に害意があるかすら判断できるようになった結果……
もともと持っていた、人を食ったような性質を表し始めたのだった。
猫は……
すぐ、調子に乗る。
闇の竜王は……
すぐ笑う。
「フハハハハ! では、貴様の望む通りにしてやろう……貴様はここ半日以内、ヒトのいる環境で過ごしていたか」
「にゃあ」
「どっちだ」
「おっと。はい」
「では、あちら――」闇の竜王が短い前脚で指したのは、かつてボアが発見して報告してきた『新しくできたヒトの集落』だ。「――から来たのか?」
「いいえ」
「ふむ?」
「ふむと言われてもねえ。『はい』か『いいえ』で答えられるものにしてもらわないと」
「今のは質問ではないわ!」
という感じで遅々とした速度ではあったけれど、猫との質疑応答をしていった結果……
猫は近隣にできたもう一つの集落において、ヒトに飼われて暮らしていたのだということが判明した。
やはりというか、なんというか……
「ククククク……! 迫っている……ヒトの版図……! もはや立錐の余地もないまでに拡げられたヒトの住みかは、いよいよなんの比喩でもなく、錐も立たぬほどにまでなっている、か」
「ところで闇の竜王さん、そろそろいいかしら? アタシには世話をしているニンゲンの子供がいるのよ。あいつらは体は大きいくせに頭が弱いからね。今は下僕の心構えを教えてやっているところで、目が離せないのよ」
「ではなぜ、このような森の奥まで来た」
「いいじゃない別に。そんな、いちいち細かく突っ込むようなこと? 面倒くさい方ねぇ……」
お前が言うなって感じだ。
とにかく猫の行動に明文化できるほどの理由はないらしい。
かくして事情聴取は終わり、ヒトの住処から来たということでやはり集落の住民と接触させるわけにもいかず、ここらでお帰りいただくことにしたわけだが……
「ところで帰り道がわからないわよ」
「……自分が来た方向ぐらい覚えてるのではないか? 先ほど、俺が指し示した方角からは来ていないと断言したであろう」
「そりゃあ、そっちから来てないことはわかるけど、じゃあ、どっちから来たのかって言われると、これがわからないのよ」
「ではなぜ、あちらから来たのではないということはわかる?」
「細かいことを聞かないで。爪を研ぐわよ」
猫、やりたい放題だ。
そして猫はその場で眠り始めた。どうやら帰り道がわかるまでいつくつもりらしい。
猫は本当にあっというまに調子に乗り、王者のようにふるまう……
その姿を見ていると、生きとし生けるものどもが真の平等を得ようと思うならまずはヒトを滅ぼすべきだが、次に滅ぼすべきはきっと猫なのだろうという思いを禁じ得ない。
仕方がないので、闇の竜王は懐刀に声をかける。
「ダンケルハイトよ」
「ふぁい。ほほひ」
シュタッとそばに現れたダンケルハイトは、なにかを口いっぱいに頬張った状態だった。
どうやらおやつのふかしイモを食べていたところらしい。
闇の竜王はダンケルハイトが口の中のイモを飲み込むまで待った。
そして飲み込むと、ダンケルハイトは手にしていたイモを再び頬張った。
なかなか用件を言わない闇の竜王を見て首をかしげている。
そう、闇の竜王は猫の気まぐれさというか、自由さというか、真っ直ぐにこっちを見ているのにどこか視線が逸れている感じに、覚えがあったが……
ダンケルハイトだ。
ダンケルハイトにはじゃっかんの猫要素がふくまれていたのだ……!
「……まあよい。ダンケルハイトよ。貴様に命じる。この猫が住んでいたという集落を探し出し、この猫を飼い主のもとに届けよ」
「ええー? 猫をぉ?」
「フハハハハ! めちゃめちゃ嫌そうではないか!」
「いえ、だって、猫の送り迎えとか、闇の竜王様の腹心たるあたしの仕事じゃないですよ。格が……」
「俺が命じているであろうが! この、闇の竜王が!」
「ついでに猫の飼い主の家を家探ししたり、その集落だか村だかから略奪したりは業務に含まれますか?」
「含まぬ!」
「しかし闇の竜王様、あたしは……お腹がいっぱいで、暴力を振るいたいんです」
そういうことらしいので、ダンケルハイトのお腹が減ったころを見計らってもう一度同じ仕事を任じた。
ダンケルハイトは粛々とこれを受諾。近隣集落の場所を探る任務がこうして始まった……




