70話 ディストピア夢想
そもそも、なぜムートは集落を出ていこうと思うのか?
その理由はムートから誰かに語られることがなかったし、誰にも予想ができなかった。
姉のヴァイスと離れたくないからついていく――というなら、わかる。
しかしムートの行き先は、あの、最近、森の向こうにできた村なのだった。
姉がどこに向かうかは関係がない。
『ヴァイスが村を出るなら、自分も出て、近くの村に行く』
これがムートの意見であり、闇の竜王に相談したことのすべてだった。
それはもはや相談ではなく決定を伝えただけとも言える。
もちろん闇の竜王から強硬な反対があるならやめようという融通性はムートにはあった。
だが、闇の竜王との長い付き合いから、かの存在が強硬に反対することはないというのもわかっていた。
命に直接的で緊急性のある危険がない限り、闇の竜王はヒトの行動を止めないし、手を貸さないだろうという、『なんとなしの確信』があった。
つまり、止まる気があまりない決断だ。
しかも、どうしてそうしようと思ったのかがわからない、『なんとなく』を理由とするには重い決断だ。
必ず理由があるに違いないと、その決断を知る者は考えていた。
必ず、なにかの、ムートならではの確固たる理由が……
ついにヴァイスが『そのうち集落を出ていこうと思う』という旨を告げた、とある夕暮れ時――
ほどなく夜が来るであろう、目に痛いほどの真っ赤な空の下に、彼女たち姉妹の姿はあった。
そこは木々が生い茂る森の中にあって、ぽっかりと葉っぱの天蓋が空いた場所だ。
ただしその場所の中央には一本だけ、他より明らかに高く、太い樹が存在する。
まるで周囲の養分を根こそぎ吸い取り成長したかのような、その樹の根元が、姉妹がおのおのの決意を語るのに選んだ場所だった。
……それは人目と人の耳を避けて選んだ場所ではあった。
けれど、少し離れた木々の陰にはニヒツとクラールがひそみ、葉の生い茂った枝の上にはダンケルハイトが鎮座していた。
この集落が集落の体裁をとる以前からいた彼女らは、ヴァイスとムートの話し合いが、この場所の行く末を決めるものになるのだという予感があった。
なぜなら、この集落は、あの二人の姉妹から始まったのだから。
ヴァイスはもうじき自分の背に迫り、遠からず追い越しそうな妹の正面に立ち、言葉を続ける。
「……ここだけじゃあ足りないものが、たくさんあって、それは、ここにいたんじゃ、学べないと思う。だから、お姉ちゃんは……ちょっと外でお勉強をしようかなと思ってるの。……それは、長い時間になるかもしれないけれど、それでも」
するとムートは真剣な顔でうなずいて、
「じゃあ、ムートも出てく。近くの村に行く」
「……な、なんで?」
ヴァイスの質問には強い驚きと困惑があった。
ムートが『なんで』そんな決断をしたのかは、この集落にいる誰も知らないし、ムートの決断を知っている者にとっても謎だった。
ニヒツやクラールなどムートの決断をあらかじめ知っていた者たちも、決断にいたる理由までは知らないのだ――聞いても『教えない』と断言されるので、お手上げだった。
その理由がついに語られるかもしれないとあって、姉妹のやりとりを見守るギャラリーたちが意識を集中して耳をそばだてている。
果たして、ムートの答えは……
「べつに……」
「べ、べつに?」
「なんか、楽しそうだったから……」
「……まさか、思いつきなの⁉︎」
「うん」
うなずいた。
それはなにかを隠している感じではなかった。
本当は理由があるのだけれど、それを秘めているという様子ではなく、単純に、本当に、答えるべき理由がぜんぜんないことを悪いと思っているような様子なのだった。
むしろ、誰にも理由を言わなかったのは、『理由が特にないことを知られると怒られそうだから』とムートが考えたとすれば、その態度にも説明がついてしまうぐらい腑に落ちるものだった。
この答えにはギャラリー一同目を見開いてびっくりした。
さすがにヴァイスも慌てた様子でムートの肩をつかみ、
「ムート、外に出るのは、危ないの。それを、そんな、『なんとなく楽しそう』っていう理由で……」
「ちゃんと準備とかするし……」
「準備すればいいっていうものじゃなくって……」
「むうー……やっぱり怒られた……」
ムートにとっては予想された展開だったようだ。
周囲も『そりゃそうだ』と思った。ダンケルハイトさえ『もうちょっとものを考えろ』と言いかけた。
ヴァイスは困り果てて、しばし沈黙してから、
「……ムート……あなた……私と一緒に、『外の世界の話』は聞いたでしょう? ルージュさんと、水の竜王さんから聞かされた……私たちみたいな人種が生きていくのは大変で、だから、外に出るのは勇気がいることだし……」
「でもさー……ムートは平気」
「平気に思えるかもしれないけど、それは……」
「じゃあお姉ちゃんだって外出れないじゃん!」
「それは、ほら、私は、この集落のさらなる発展のために勉強してくるっていう理由があって……」
「じゃあムートもそういう理由で行くもん!」
「ムート……」
ヴァイスは、人生で初めて聞いたかもしれない、妹の強硬なわがままに、困り果てつつ笑う。
どうやって、たしなめようか……そう考え、言葉を選ぶため、また沈黙する。
その間隙に、ムートが先に口を開いた。
「理由なんかどうだっていいでしょ?」
「……でも、危ないの」
「どうして理由がなきゃ危ないことをしちゃいけないの?」
「それは、その……」
そういうものだから。
危ないことをするのだ。そりゃあ、そうだろう。
……というふうに、『社会通念』とか『常識』みたいな言外のものを振りかざしてしまいたくなるのは、当たり前だった。
それが可能なら、そうしてしまった方が楽だ。
きっとヴァイスがいわゆる『普通の社会』の中で過ごしていたならば、彼女は心の弱さと妹への心配から、社会通念、常識を振りかざしていただろう。
なぜなら、社会通念を振りかざす時、そこには『見えない多数の味方』が存在するから。
『世間でたくさんの人が同意してくれるのだから、私の意見は正しい』
『お前は、味方のたくさんいる私の意見に反対すべきではない』
『そもそも、たくさんの人が当たり前に思うことをしないのだから、お前の側から
説明があるべきだし、説明したところで、社会全部を納得させるほどのものを出せるのか?』
社会通念というのはそういうものだ。
そして、だいたい、こういうものは弱者に向けて振りかざされる。
ところが、ヴァイスの生きたこの集落は、『普通の社会』ではなかった。
闇の竜王。
かの存在は否定するだろうが、やはり、この集落の『常識』を定めているのは、かの存在に他ならない。
能力でもそうだし、意見力でもそうだ。
かの存在が認めたことならば説明なしでもやって大丈夫だが、かの存在が認めそうもないことをするには、なんとか自分の中で理由を捻出して、『闇の竜王のいる社会の常識』を論破しなければならない。
種族としての位階が違うというのはそういうことだ。
ただいるだけで、その者を中心に社会が形成されてしまう。
そして、ムートの『やりたいこと』を止めるのは、この集落の『社会通念』に反することで……
ヴァイスの方こそ、ムートを説得するための理由を捻出しなければいけない側なのだった。
とにかくだめ、と述べたところで、『闇の竜王はそうは言わない』で簡単に反論されてしまうのだった。
……かの存在が、そういった使われ方をするのを好むと好まざるとにかかわらず、誰しもの頭に『闇の竜王はどう思うか』が、自然と浮かんでしまうのだった。
だからヴァイスこそ、頭をひねって、
「……お姉ちゃんは、ここの外に出て行くのは、慎重に考えるべきだと思ってるの。だって、危ないもの。それに……ムートはまだ幼いでしょう? 自分の身を自分で守ることもできないし……」
「お姉ちゃんもそう」
「……それは、そうだけど……でも、ダンケルハイトさんに手伝ってもらって、なんとかやっていけると思うし……」
「だったらムートもそうする」
ムートの弱さを暴こうにも、同じ弱さをヴァイスも持っていた。
だから、そこを理由にしてムートを思いとどまらせることはできない。
……ならば、きっと、そこにはないのだ。
理由が――自分がムートを集落の外に出したくはない理由が、そこには、ないのだ。
なぜ、ムートを集落の外に出したくないのか、ヴァイスは考えた。
……そうだ。この話は、『ムートのわがままを止める』というものではない。
自分だって、外に出る必要があるかと言われれば、必要はない。
色々理由をこねくり回して必要性を捻出している。
けれど、『どうしても、絶対に、出ていかなければならないか?』と問われると、反論に窮するぐらいの必要性しかないのは、事実だ。
そこを認めてしまうと、あとには、『そうしたい』という気持ちだけが残る。
なんで、『そうしたい』のか?
……ヴァイスは、ようやく、自分の気持ちがわかった。
自分が外に出たい理由と、自分がムートを外に出したくない理由は、同じものだった。
「ねぇ、ムート。お姉ちゃんはね、ここの集落を、もっといい場所にしたいの。それは……闇の竜王さんへの恩返しもあるけど、もっともっと大事な理由もあるの」
「なぁに?」
「ここにいるみんなを、もっと幸せにしたいから」
「……むうー?」
「私の未来予想図はね、あなたや、ニヒツちゃんや、クラールくんや、ダンケルハイトさんたちが、ここで幸せになるっていうものなの。だから……あなたたちにはここにいてほしい。私の理想のために」
と、そこまで言い切ってから、ヴァイスはおかしくてたまらないというように笑って、
「……私、わがままだなあ。私の理想のために、ムートを縛りつけようとしてたんだ」
……それに気付いた。
気付いた上で、まっすぐにムートを見て、言った。
「私の理想の未来のために、あなたにはここにいてほしい」
ヴァイスは、自分の身勝手でわがままな未来予想図を肯定した。
ここは引き下がるのがいいお姉ちゃんなのだろうというのは、なんとなくわかった。
自分のわがままのために妹を縛り付けるだなんて、なんてひどいのだろうと思った。
けれど、この集落において、あらゆる夢に向かう意思は肯定される。
それがこの集落の『社会通念』だ。
だから、わがままと、わがままが、ぶつかった場合――
もうそこには『説得』とか『論破』なんて存在せずに、ただの、わがままの、気持ちのぶつけ合いだけが残るのだとわかった。
「私はこの場所で、みんなで、生きていきたい。そのために、この場所を世界のどこより幸せにできるように努力するつもり」
それが、ヴァイスの胸の奥にあった、『世界を見たい』という願望の根源だった。
「ムート、あなたの『楽しそうだから外に出たい』っていうわがままは、お姉ちゃんのわがままよりも強いの?」
なんてひどい言い草だろうと自分でも思った。
でも、ここで、『ひどくない』言い方を選んでしまうのは、なにか違う気がした。
いくらでも、いい話めいて言葉を選ぶことはできるだろうけれど、そういうもので飾ってしまうのは、不誠実で、不義理なように思った。
……きっと、闇の竜王も、そうやって言葉を飾ることは望まないだろう。
ムートは、うなっていた。
ずっとずっと、うなっていた。
そして、唇をとがらせて、視線をうつむけて、
「ムートはさあああ……もっとたくさん遊び相手がほしいんだよ」
「……」
「にっひーと、クラールと、同じぐらいの小ささの遊び相手がたくさんほしい」
「うん」
「増えてもそんな楽しくないかもしんないけど、楽しいかもしんないから、増やしたい。ムートはそう思うよ」
「うん」
「でも……そのへん、お姉ちゃんにまかせたらいい感じになる?」
「……それがムートの幸せなら、お姉ちゃんはがんばるよ。『絶対にしてみせる』とは言えないけど」
「そっかー」
ムートはまたうなった。
長く長く、うなって、それから……
「じゃ、お姉ちゃんにまかす!」
ニカッと笑った。
……年上であるとか、集落内で偉い立場であるとか。
ヴァイスはそういうものを振りかざさずに、ただ、『わがままの強さ』だけで対抗してきた。
そして負けた。
だから、ムートはあきらめることができた。
もしも年長者であることや立場を使った押し付けだったら、きっと不満が残っただろうけれど……
『これ以上わがままにはなれないな』と思わされてしまったのだから、もう、不満を残すことさえできない。
「まったく、お姉ちゃんはしょうがないなー」
ムートの精一杯の負け惜しみだった。
実際、わがまますぎてしょうがない、という結論なので、負け惜しみと言い切れるかどうかは微妙でもある。
「ごめんね」
ヴァイスも笑顔で謝った。
謝ったけれど、これは、意見をゆずる気がいっさいない謝罪だ。
口だけの謝罪。
それはなんだかモヤモヤするもののはずで、イライラするもののはずで、気持ちが悪いもののはずで……
でも、本気で謝ってばかりだった姉を知っているから、その姉が、口だけの謝罪をしつつ意見をゆずらないというのは、本当に、もう、すごいな、としか思えない。
ヴァイスは、どこかスッキリした顔で口を開く。
「大きくしないとね、この集落を。遊び相手がたくさん来るように」
「うん」
「そのためには、畑を広げて、施設を作って、それから……世界とつなげないといけないよね」
「……たぶん」
「…………うん。がんばるよ。だから、ムートはここで、お姉ちゃんを待ってて。時間がかかるかもしれないと思ったけど、時間をかけないようにがんばるからね。ムートも、ニヒツちゃんも、クラールくんも……みんなが……闇の竜王さんも幸せに生きていけるような場所を、作るために、がんばるよ」
「……うん」
「ありがとう、ムート」
ヴァイスはムートの頭をなでた。
この陰で、実のところ――
お子様組の安全のためにこっそりつけられている竜骨兵が、いい雰囲気にあてられて音楽を流しそうになり、別な竜骨兵に止められるという一幕がひっそり展開されていたことを、彼女たちは知らない。




