69話 兄妹
ニヒツというのは『仙人』とか『翼人』とか『天人』とか呼ばれる『すでにこの世界において絶滅したとされている人種』だ。
その正体は光の竜王の管理する浮島において箱庭系ゲームの住人的に保護されて現代まで生き延びていた人種であり、見た目はすでに十歳程度だが、実質的な年齢はその半分もない。
とはいえ最初から十五歳相当の知能を持って生まれるので頭の働きが悪いということもなく、むしろ、ニヒツは兄のクラールや他の翼人と比べても、だいぶ働きがよかったと言えよう。
その結果、彼女は早々に『あきらめ』を覚えた。
できないものは、できない。
生まれつき人にはそれぞれ『可能性』が定まっている。
もちろん冒険をして分を越えた大成をする者もあるだろうけれど、それは運勢に味方されたごくごく一部だけの話で、多くの者はそこまでいかない。
だからニヒツは冒険をしない性分だ。
それは自分がそうしないというだけのつもりではあるのだけれど、親しい人が無謀な冒険を始めようとすると、ついついおせっかいから『やめたほうがいい』と考えてしまう悪癖――本人も悪癖だと考えている――もあった。
過去、兄のクラールがこの集落で生活するのをやめさせようとしたことがあった。
だって、一目で無理だとわかった。
あの兄はとても臆病で、慣れない環境ですぐに縮こまって、ただ生きているだけでおどおどしていて、とてもじゃないが、地上の集落というものになじんで生きていけそうには考えられなかったのだ。
もちろん、生きていくことそれ自体を不可能と思っていたわけではない。
ただ、つらいだろうな、と。そう感じた。
そしてそれは間違いではなかったといまだに信じている。
相変わらずクラールはおどおど、びくびくしているし、力仕事はぜんぜん慣れる様子がないし、男同士の付き合いというものが苦手で、ダークエルフたちとはあからさまに距離をとっている。
ニヒツがムートとそこらへんを散策するのについてくることは多いが、それだってやっぱり、おどおど、びくびくしてばっかりだ。
口を開けば『やめようよ』『もう帰ろうよ』『これ以上は危ないよ』……
なにが危ないかはこちらできちんと判断をしている。
恐れすぎて知性が曇っているのだ、あの兄は。冷静にものを考えて判断をするための機能が恐怖でにぶり続けているのだ、あの兄は。
地上という環境で生きるのに、あきらかに向いていないのだ、あの兄は。
闇の竜王は『人の可能性を勝手に決めるな』みたいなことを言うが、自分の可能性を自分で判断できる者こそ少ない。
客観的視点をもった冷静な人物が、向き不向きを判断するべきだと、やっぱりニヒツは思う。
そして、少なくとも、兄にかんしては、自分がその判断役を担うべきだとも、やっぱり思う。
もっとも、この集落においてニヒツは闇の竜王の決定を尊重している。
かの存在がそういう方針なのだったら、そうするべきなのはわかる
――それは判断力への信頼というよりは、判断を誤りだと感じても代表者・責任者がそういう考えなら、それに合わせる、というようなお仕着せ的情報ではあるけれど。
だから、きっと、闇の竜王は、『個々人の判断』を尊重するのだろう。
ヴァイスが出て行きたいと言えば、『そうしろ』としか言わないし。
ムートが出て行きたいと言えば、やはり、『そうしろ』としか言わない。
だから、ニヒツは考える必要があった。
『どうしたら、ムートが出て行かないようにできるのか?』
人には生まれつき『可能性』が定まっていて、それはある程度触れていればどのぐらいのことができるか、わかる。
もちろん分を越えた活躍をしてしまう運のいい人もいて、それは自分の知り合いの中からも生じるかもしれないが、なにせ運勢頼りなのだから、活躍なんかできない可能性の方が高い。
天分、というのか。
ニヒツはムートのことが好きだった。
ニヒツの知性は生まれた時から高いけれど、情緒のほうはそうでもない。
だからこの『好き』は本当に幼いもので、ヴァイス相手にも抱いているし、ダンケルハイトなんかにもちょっとはあるし、クラールに対してだってなくはない、そういう『好き』だ。
でも、ムートに対しての『好き』が一番大きくて、だからこそ、ムートが定められた天分を越えていこうとしているのは、どうしたって止めたかった。
世間の情報を少しでも取り入れていれば、わかる。
ムートみたいな人種がここ以外の場所に出ていくのは極めて危険だ。
自分たちみたいに『なんだかわからない種族』は差別されているというではないか。
しかも、自分たちには満足な知識がなく、外の社会における社会性もない。
常識がない。前提がない。なにもない。
そんな自分たちが『外』に出るなんて、裸で極寒の地に放り出されるのとなにが変わるというのか?
知らない人が『どうしても』と決意して行くならば、ニヒツはその無謀な挑戦を冷めた目で一瞥し、次の瞬間には忘れてしまうだろう。
しかし、ことはヴァイスであり、ムートだった。
看過できるはずがない。
だからニヒツは、彼女らが無謀な挑戦心でもって天分を越えたところに挑んだりせぬようにしなければならない。
彼女らが死んだり、死ぬほどつらい目に遭ったりするのは見過ごせるわけがない。
そしてこの集落の外に出れば確実に『そうなる』とわかっているのに、止めないわけがない。
……ニヒツ自身は気付いていないが、それは『管理癖』と呼ぶことのできる性質だった。
彼女がもといた場所を維持・管理していた光の竜王にもある性質だ。
『危ないことをさせず、安寧の地でずっと過ごしてほしい』という、他者の幸福を願うがゆえの、優しさであり――
『他者にとってなにが安全で、なにが危険で、なにが幸福で、なにが不幸かは自分が決める』という傲慢さを無意識にはらんだ性質なのだった。
幸福を願っているだけにタチが悪く、頭がいいほどどうにもならず、思いやりが深くなればなるほどいかんともしがたい悪癖。
闇の竜王の方針に逆らわない範囲でニヒツがこの管理癖を発揮するには、すべての行動の起点である『ヴァイスがムートへ集落を出る旨を切り出す』というのの出端をおさえる必要があり、ニヒツはその方針で行動し、今のところ成功していた。
だが、その行動はヴァイスにも感づかれているぐらいにあからさまで、遠からず闇の竜王あたりから『待った』がかかる可能性もあるとニヒツは考えている。
闇の竜王の説得がもっとも効果的だという結論はゆるぎない。
しかし、実際問題、それは『可能であればもっとも効果的だ』ということで、かの存在がこちらの意見に耳をかたむけ、こちらの主張を通す可能性は果てしなく低く思われた。
……あるいは、ニヒツのものの考え方に、無意識のうちに他者を侮る『幼さ』があるから、わかるのかもしれないが……
竜王と呼ばれる者たちは、根本的なところで『対話』ができない。
『対等な立場で、相手の意見を呑むかもしれず、また、自分の意見を呑ませることもありうる話し合い』ができず、竜王たちの言葉はほぼ必ず『警句』『忠告』『決定を告げる』というものに終始するのだ。
なにせ自分より格下の相手の意見を呑もうなどと、誰も思わない。
相手の意見を呑むということは、相手を対等以上だと認めるということで、竜王からすれば同じ竜王以外はすべて『格下』になるのだから、仕方のないこととも言えよう。
だが、自分が『格上の相手に通したい意見を持っている』状態だと、いかんともしがたい。
できないものは、できない。
ニヒツにとって『格上に意見を通す』というのが、できないことに分類された。
しかしそこを避けてヴァイスとムートを集落にとどめておくのは難しく思えて、手詰まりで場当たり的な対処をしていくしかない、というのが現状だ。
どうしたものか……
ある夜だ。
先ほどもヴァイスの発言の気配を察し、それを邪魔して、もう今日はヴァイスが『度胸を出す』ことはないだろうなと思われた時間。
安心感というよりは、これまでの行動を分析し検証した結果としてそう考え、わずかながらの時間、気をゆるめてよくなったニヒツが、滅多に帰らない自室(普段はヴァイス・ムートと同じ部屋で過ごしている)と――
「ニヒツ」
兄に声をかけられた。
こういう時、ニヒツはたいてい、兄の発言に言葉で応じない。
感情のない瞳でじっと見るだけだ。
すると兄のクラールは気が弱いものだから、「な、なんでもないよ……」と引き下がるので、わずらわしい会話が発生しないですむ。
ところが、今日のクラールは違った。
ニヒツの肩をつかむと自分の方に向き直らせ、強い意志のこもった瞳で見つめてくる。
兄のこんな態度は初めてで、ニヒツは死んだ表情にわずかにおどろきをにじませた。
「いい加減にしなよ、ニヒツ」
怒られているのはわかるのだが、クラールに怒られる心当たりが本気でなかった。
彼の機嫌を損ねるようなことはなにもしていない――というか、彼に対してなんらかの働きかけをしたことが全然ないのだ。
かつて、闇の竜王に『クラールを仙界に帰すべき』と進言したことはあったが、それはもう数年前の話で、今さら怒られるということもないだろう。
本気でわからず困惑しているニヒツに、クラールが言う。
「ヴァイスさんの、邪魔しちゃ、だめだよ」
意図がわかって、ニヒツは目を細めた。
ニヒツの顔立ちはクラールと同じく、金髪碧眼であり、中性的で美しい。
だが、クラールがどこかぼんやりして柔らかい印象なのに対し、目を細めたニヒツは、伶俐で、苛烈な印象があった。
気の弱い者であれば、見ただけでひるむような表情。
けれど、気の弱いはずのクラールは、ひるみもすくみもしなかった。
「ニヒツは優しさでやってるんだろうけど、それは、だめなことだよ」
うっさいバーカ、と、普段であればそれだけで押し切る。
だが、今のクラールは口先だけの意味のない罵倒では引き下がりそうもなかった。
仕方なく、考えて、言葉を紡ぐ。
「……『ほっとけ』ってこと? ……ひどいことになるのに」
「わからないじゃないか。『ひどいこと』じゃなくって、『いいこと』になるかもしれない」
「わかる」
「……わからないよ」
「わかるんじゃいボケー」
「わからないんだよ!」
水掛け論ならニヒツが強い。
なぜなら、クラールは気が弱いから。
口先の『ボケ』だの『バカ』だので相手の言葉を遮れば、泣きそうになって黙る。
でも、今日のクラールは、本当に、いつもと違った。
「ニヒツ、わからないんだよ。……ぼくらは、『わからないこと』をやりたいんだよ」
「意味わからん」
「ぼくらには、みんな、自分の人生を賭ける権利があるんだよ。人生を賭けて挑戦する権利は、邪魔しちゃいけない」
「わかったようなこと言うな」
「わかったようなこと言うよ。だって、ぼくも、挑戦したから。ニヒツが闇の竜王様に色々言ったの、知ってるけど……」
「え、なんで」
「声が大きいから」
あと、闇の竜王の声は、低いがよく通る。
「……ぼくは、ここにいさせてもらえてよかったと思ってる。ここでの暮らしは、夜とかこわいし、乱暴な人は多いし、なんだかぼくを見る目がちょっとこわいけど……でも、ニヒツと離れ離れにならなくてよかったと思ってるよ」
「嘘だあ。だってクラール、むいてなかった。今だってむいてない。あの時、ニヒツがむいてないって思ったのは、間違ってなかった」
「むいてなくっても、やりたいことがあるんだよ。ぼくらがそれに挑んじゃいけないなら……それに挑むことを否定するなら、ここに来た意味がない」
――黙らされた。
クラールに対して二の句が継げなくなったのは初めてだった。
なにかを言い返すことだけならできると思っていた。バカでもアホでも、会話をぶったぎって全然違う話題を始めるでも、なんでもできると思っていた。
けれど、黙るしかなかった。
反論もできず、茶化すこともできず、意味のない罵倒で黙らせることもできない。
思考が漂白されるほどの正論。……自分の意に沿わぬ、しかし、認めざるを得ない理屈、言葉――想い。
無意識のところでクラールを侮り、見下し、対話など成立しようがないと思っていたニヒツにとどいた言葉。
「任せようよ。……寂しいけど、あの二人は、あの二人の人生を賭けていいんだよ。それは否定したり、邪魔したりしちゃ、いけないよ」
「……それで死んでも?」
「……それで死んでも」
「…………ニヒツはそんなん、やだ。やだ!」
「じゃあ、素直にそう言えばいいんだよ」
「……」
「こそこそやらずに、はっきり言おうよ。……ニヒツは昔から、はっきりと本人に言わないんだから」
クラールの微笑みは柔らかくて優しかった。
情けないだけだと思っていた兄が、なんだか大人で、むかついて、ニヒツはクラールの向こう脛を蹴った。
「痛ぁ⁉︎」
「ごめんな」
「謝ればいいってものじゃないと思うんだけど⁉︎」
「……クラール、ニヒツのことぶん殴れ」
「え、やだよ」
「ぶん殴れ! 殴らないと蹴る!」
「なんで⁉︎ あっ、痛っ、ほんとに蹴ってる⁉︎ やめてよ! やめてよ!」
「ぐーで殴れ!」
「ぼくの妹、頭がおかしくてこわい……わかったよ」
クラールが拳を固めて、ニヒツを殴った。
ただしそれは、殴るというより、軽く額を押すようなものだった。
それでもニヒツはいちおう攻撃をやめて……
クラールの胸に、額をつけて、体重をあずけた。
「……ううう……ううううう……ううううううう……!」
「ニヒツはあいかわらず、情緒がやばい妹だなあ……」
「うっさいバーカ。バーカ! バーカ‼︎ もっとニヒツのこと怒れ! 最初っからクラールがニヒツのことちゃんと怒ってたら、ニヒツだって反省したもん! 最初っからむっちゃんに『行かないで』って素直に言えたもん!」
「ニヒツ……責任転嫁はよくないよ」
「うっさい!」
「ぼくにだけにしなよ。ぼく以外に、こういうことやったら、いけないよ。ぼくがお兄ちゃんだから、こういうことしていいんだよ」
「う〜……! うううう〜……! わかってる。クラール以外にはしない」
「よしよし」
クラールは胸に顔をうずめる妹の頭を抱きしめて、なでた。
頭がおかしくて、情緒が不安定で、暴力的で、暴言まみれだけれど――
同じ顔をした彼女は、やっぱり、たった一人の妹なのだ。
他の人たちとは比べられない、大事な大事な、妹、なのだった。