67話 闇のママ
「ふむ……」
低く、思い悩むような物憂げな吐息だった。
この声が誰のものであるかというのは、おそらく集落の誰にもわからぬであろう。
なぜならば、この声の主人こそ、闇の竜王。
おぞましく強大で、不気味なまでに尊大で、それでいながら合言葉は『福利厚生』で――
そして、よく笑う。
なにをしてもまず笑う、そういう存在なのである。
それが呵々大笑に疲れたとばかりに物憂げな吐息をこぼすことなど、誰が想像できようか?
おそらく――
ムートもまた、闇の竜王を目の前にしていなければ、信じられなかったことだろう。
そして、ムートは不安になる。
あの、なにかにつけて笑う闇の竜王が、自分の話を聞いて、こうやって思い悩む様子を見せるのだ。
自分はもしかして、とんでもないことをたずねてしまったのではないか……
たとえばなにかこう、えっちなこととか……
そういう不安がムートの中によぎったとて、まだまだ幼い、もの知らぬ彼女には仕方のないことであろう。
集落の中心部よりやや離れた、森の入り口……
闇の竜王は声を落としたまま、木々のあいだに窮屈そうに体をねじこんだ状態で、口を開く。
「少々ばかり意外であった。……クククク……というのも、俺は俺で、貴様の身の振り方について、ある程度の想像をしていたゆえにな。いや、想像というほどでもないか。貴様は『ここに残る』か『姉について行く』か、その二択のどちらかを選ぶとばかり考えていた」
「……」
「二択は二択でも、その二つの選択肢でなかったことに、俺は少々ばかり意外に感じ、少々ならずおどろいている。……フハハハハ。なるほど、ヴァイスが貴様にこの集落を出ていく旨を告げたその時、貴様より放たれる至上のカウンターというわけだ」
「つまりムートはいけないことを聞いたわけではない?」
「『いけないこと』などない。貴様の前には、ある意味でこの集落の誰よりも多くの選択肢がある。クククク……! なにを選ぼうとも、責められることではない」
「つまり、ムートの質問は……えっちなやつじゃなかった?」
「……なんだそれは?」
「よく知らないでえっちなこと聞くと、お姉ちゃんが怒るから……」
「フハハハハ!」
闇の竜王はここでようやく大笑した。
押し殺し、潜めるような笑いではなく、あたり一帯に響き渡るような、いつもの笑いである。
「ムートよ。貴様とヴァイスは少々独特なバランス感覚があるようだ。もっとも、生まれた時よりヒトならざるこの俺にとって、ヒトの持つバランス感覚はすべて『独特』と言えようが……」
「ばらんすかんかく」
「『いけないこと』と『いいこと』の線引きとでも言おうか。……ヒトは社会を形成するゆえに、タブーを設定し、それに触れないことで仲間かどうかを判定するところがある。ククククク……! ダンケルハイトなどはどこに行ってもタブーに触れまくり! そのせいで社会になじめなかった面もあるが……」
「……?」
「いや。……ともあれ、貴様らがその蹉跌を踏まぬようで安心したまでよ。この俺とかかわる前にある程度の教育をうけ、人格を形成してあったのが幸いしているようだな」
闇の竜王は思い悩むようにつぶやいた。
ムートは首を大きく横にかしげ、闇の竜王がわずかばかり沈黙しているあいだに、反対側にかしげ直した。
「……フハハハハ! ともあれ、今の話題はなんらエッチではない……! ヴァイスに漏れたとて怒られることはなかろうよ!」
「よかった」
「もっとも、どういう反応をするか見物ではあるがな」
「やみのりゅーおーさまは、いいの?」
「俺に『いい』も『悪い』もない。俺は貴様らの決断を尊重しよう。なぜならばこの俺はただのご近所さん! ひとさまの家庭の、ひとさまの決断に介入する資格を有するものではない! ……そしてだ、ムートよ」
「……」
「決断に介入はせぬ。ゆえに、責任もとらぬ。……貴様はまだ幼い。だが、俺は幼いからという理由で貴様の行く道を阻もうとは思わぬのだ。なにせ、我ら竜王からすれば、ヒトはみな幼いゆえにな」
「つまり……闇」
「フハハハハ! そう、闇よ! 幼く、なにも見えておらず、なにも聞こえておらん。幼く未熟であることはすなわち、闇に包まれているとも言えよう! つまりこの俺はあらゆるヒトのご近所さんにして、あらゆるヒトを包み込むものを司る」
「ということは……ママ」
「そう、この俺こそがママよ」
闇の竜王は基本的にたいていのことを肯定する。
なぜならば他者肯定とは闇である。
否定とは可能性と関連性の排除であるが、肯定は可能性と関連性の促進だ。つまるところヒトは否定されるよりも肯定される方がなにをしだすかわかったものではない――ゆえに闇なのだ。
「俺はママでありパパである。そして他人である」
「つまり……誰だ⁉︎」
「そう! この俺こそが闇の竜王! 六大竜王の一角にして、闇を司りし竜王である! クックック……ハッハッハ……ハァーハッハッハ!」
「はぁーはっはっは!」
暗い森の中に、一体と一人の笑い声が響き渡る……
ところで場合にもよりけりだが、低く野太い笑い声よりも、少女の甲高い笑い声のほうが不気味に聞こえることがある。
ムートの笑い声が森に響き渡ったその時、近隣にできた村では、また一つ森にまつわる怪談が増えたという……
閑話休題。
「……ムートよ。貴様は、貴様の望む通りにするがよい。この俺の許可など求めずともよい。ゆえに、決断の責任は自分でとることになる」
ムートは真剣な顔でうなずいた。
高笑いをしたあとで急に真剣になれるのは、闇の竜王の教育の成果とも言えた。
闇の竜王は総身を震わせて、押し殺すように笑い……
「『ヴァイスが集落の外に出て見聞を広げる旅をするならば、自分は、近くの村に行き、そこで暮らす』」
「……」
「その決断の先に待ち受けるあらゆる不安や恐怖、そしてままならぬ現実、不幸……そういったものを予想しつつも、俺は貴様の決断を尊重しよう」
「ママ……」
「俺はママではあるが、その前に闇の竜王だ」
「りゅーおーさま……」
「フハハハハ! ……貴様は貴様で、独り立ちに備えて準備をするがよい! 無策のまま新たな環境に身を投じるのも『否』とは言うまい! だが、この俺は万全なる準備を推奨する。なぜならば、この世に『万全』などというものはないゆえにな」
「むうーと!」
「クククク……! 元気があってよろしい!」
「……あとは、お姉ちゃんがいつ、ムートに『旅立つよ』って言うかだなー」
「その通りよな。いつ言うやら……」
「お姉ちゃんだしなー……」
「あれは切羽詰まらねば動かぬ……あれの図太さと追い詰められた時の行動力は目をみはるものがある。だが、あれの『外に出る』ことに対する腰の重さはちょっとすさまじいものがある。俺としては、あのままなにも言わずに過ごすという可能性も見てはいるがな」
「お姉ちゃんだからなー」
闇の竜王とムートは腕を組んで、うんうんとうなずきあうのだった……




