66話 ボアへの忠告
闇の竜王が坐す土地――
そこと森を隔ててすぐ近くにある新しい『ヒトの村』には、いよいよヒトの流入が増えて、それらは農業に精を出し始めたようだった。
これより始まる農繁期に備えて人員が補強され、土地の整備が加速度を増していく。
それは周辺にできた村が、一年二年で離れるべき腰掛けの地ではなく、これより何世代にもわたって長く長く住んでいく、ヒトの新天地と化したことを示していた。
この新しい村と闇の竜王の集落を隔てる森は深いが、距離はそう長いわけではない。
いずれ森で遊んだ者がこの土地を発見することもあるだろう。
それが村を広げようと開拓をする男たちなのか、木の実や獲物を求めた狩人なのか、あるいは遊び場を冒険している子供たちなのかはわからない。
ただ、その全員が新しき村にはいて、そして、長く過ごすほどそういった遭遇の確率はどんどん増していくだろう。
……一方で闇の竜王側が知らない情報もある。
森から――新しい村の人々は森の向こうに集落があると知らないので、森からと思っているが――時おり、とてつもない不気味な笑い声が聞こえたり、あるいは空に浮かぶ巨大な生物を見たなどの怪談がささやかれていることだった。
もとよりこのあたりの土地は『忌み地』とされ、人捨てなどに使われていた。
そこに『笑い声』『飛翔する謎の生物』まで加わり、怪談は現実の脅威を感じさせるほどに加速していた。
なので森に入るのはとりあえず村人たちの中では禁じられており、村が闇の竜王の集落を発見するのはかなり遅れる可能性が高そうではあった。
……もちろん、これ以上脅威度が増えれば、また違った展開もあるのだろうけれど。
ともあれ、闇の竜王が片付けるべき、緊急性があり、生命にかかわるような問題はない――
かと、思われた。
「クックック……ハッハッハ……ハァーハッハッハ!」
カタカタと全身を震わせて大笑する骨の化け物がそこにはいて、その化け物の骨と骨の隙間、あるいは眼窩からは、おびただしい量の闇が溢れ出している。
一目見ただけでそのおぞましき強大さに震え上がり正気を失いかねない、闇をあふれさせる巨大竜骨……
しかし、その眼前にあってなお、直立をたもち、不動のままでいる生物があった。
時刻はとうに深夜である。
通常であれば歩くのも困難な暗闇の中、それよりなお暗い闇をかもしだす竜王の目の前にあり、それでもなお直立をたもつ、その生物は……
ボア!
けむくじゃらの大きな四足獣であった。
ボアは、理知的な青年の声で語る。
「……というわけで闇の竜王様。あなた様が我が父と交わした契約についてだが、どうか、反故することをお許し願いたい。我らは……人里を避けて旅立つ。野菜クズと引き換えに虫を食べることは、もはやかなわない」
「クククク……それで俺への目通りを願っていたというわけか」
「そうだ。だが、オレは頭がよくてな……頭がいいばかりに色々な『言うべきこと』が浮かんでしまい、本題を忘れがち……あと、走り出したい気持ちが常にあふれている。停滞は悪だ。そしてオレは頭がいいので、正義を標榜することのメリットをよく知っている。つまり……走ることで正義を示すというわけだ」
「フハハハハ!」
端的に言って意味不明!
しかし、闇の竜王はボアの言い回しを好んだ――そう、かの竜王が司どりし属性は闇。闇とは法則性もなく思い思いにすることを表す(闇鍋など)。
すなわちボアの物言いには闇があったのだ。
「ククククッ……! 律儀! ……よかろう、ボアよ。俺は約束も契約も守る。なぜならばそれが、貴様らのルールに合わせるということだからだ。しかし、もっとも尊ぶべきは生命であると知っている。俺の定めた福利厚生に従い、貴様らの退職願いを受理しよう……!」
「ありがたく。走り始めることでこの気持ちを表現しよう」
「フハハハ! よかろう! 他に用事がないのならば好きなだけ走るがよい! 獣よ、駆けよ! その疾走に、俺は貴様らの情熱を見よう!」
「用事……他に用事か……なんとも不安になる物言いだ。オレは頭がいいので、『他に用事はなかったか?』と聞かれると、たとえなにも思いつかなくとも『あったかもしれない』と停滞して思考してしまう……」
「その知性、取り除いてやろうか?」
わりとマジの親切心からの提案であった。
しかしボアは首を左右に振る。
「いいや。この知性でオレはボア界で無双する。ボアの英雄となりたくさんのメスに子を残させる予定だ」
「フハハハハ! ……だがなボアよ、知性というものを理解するのにも、知性が必要なのだ。貴様の知性、果たしてボアに伝わるかな?」
「逆にそこが知性の見せ所だとオレは考える」
「クククク……ポジティブ! よかろう。貴様の知性に期待する」
「ああ、そうだ。用事を思い出した。闇の竜王様……実のところな、オレたちが引っ越しを決意したのは、ヒトと遭遇したことが原因なのだ」
「ふむ?」
「それも、新しく村ができた方向とは違う場所でだ。……いや、どうだったか……明かりが近くになかったので、おそらく合っているな。なにせオレは左折と直進を繰り返して移動する。方向感覚にはやや自信がない」
「なぜ貴様は右折をせんのだ」
「こればかりはオレにもわからん。ただ、右に曲がろうとすると負けた気がするのだ。ずっと左折と直進でどうにかしてきたからな」
「フハハハハ!」
笑うしかない。
「案外、もう、ここが最後の『ヒトの手が入っていない土地』なのかもしれん。……そして、それも、もうすぐ……」
「……」
「だが、もう少しヒトの活動が活発でない土地はあるはずだ。オレたちはそこを目指す。あと、この森、嫁がいない。どれかといえば、それが一番困る……妹はいるがさすがにな……」
「それはなんとも仕方のないことよな!」
「獣のように妹と盛ってもいいのだがな。オレは賢いゆえに、壁がある。まったく、知性にも困ったものだ」
「フハハハハハ!」
「そういうことだ。……ん? どこまで話したかな? まあいい。オレは停滞を好まない……走り出す! すべてはそれからだ」
ボアは前足で地面をかいて、
「では、さらばだ、闇の竜王様! 我ら一同、オレが戻り次第引っ越す! 戻るのはいつになるかわからんが!」
「そうか。では、右折ができぬ貴様へ、俺からアドバイスをしてやろう」
「なんだ」
「その場で旋回しろ」
「…………⁉︎」
「フハハハハ! 右折できぬなら、あらかじめ右折の必要ない方向に走り出せばよいのよ!」
「なん……だと……こ、これが、本物の知性……! 感謝する、闇の竜王様!」
ボアは走り出した。
旋回することなく……
ともあれ――状況は思ったより差し迫っているのかもしれない。
この地での生活も変わる時が来ている。
だから、闇の竜王は笑った。
かの竜王はよく笑い、そして――
その笑いの意味は、実に多岐にわたるのだ。
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