60話 牛がモーと鳴いた
この集落には生きるのに必要なものはたいていなんでもあって、けれど、生きるのに不要なものはほとんどなかった。
生活時間の大部分は生存のために費やされて、朝から晩まで働いて、明日も無事に食べていけそうだということに安心する毎日があった。
もちろん、『今日の食事をどうしたらいいんだろう?』と悩む日々を知っているヴァイスにとって、今の暮らしがどれだけ恵まれているのか、わざわざ再確認する必要などない。
今晩食べるものがあり、明日食べるものがあり、半年も経てば食べられるようになる作物があり、それらがなくなっても食べるための蓄えがある。
この暮らしはいいものだった。
けれど、やはり、都会での暮らしを知っている人からすれば、物足りないというか、なにもかもが足りていないという生活らしかった。
都会において軍人の偉い人であったルージュは、それでもこのスローライフを続ける意味について、こう語った。
「帰るに帰れない」
青牛に背中をあずけながら夕暮れ空の下……
ルージュは、縦長の瞳孔が入った赤い瞳を空に向けて述べる。
「私がいなくなった『魔』の都は、大混乱が生じると思いきや、なんの不都合もなく運営されている。……いや、私の予定ではな? 私という大きな存在が抜けたところで慌てふためく『魔』のお歴々をそのへんに並べて、『今さら戻ってきてくれと言ってももう遅い。私はここで悠々自適のスローライフを始めている。どうかそちらは私の空けた穴に沈んで朽ち果てていってくれ』と言うつもりでいたのだが……『社会』は、強かった」
一人抜けた程度でダメになるほど、社会というのは脆弱ではなかった。
たしかにルージュはさまざまな仕事を押し付けられていたし、彼女の抜けた穴は大きかったのだろう。
だが、言ってしまえば、『誰かに押し付けることが可能な仕事』が多く回されていたというだけの話で……
都と言ってしまえるほどの規模の場所において、押し付け先は、探せばいくらでもあった――そういうこと、なのだろう。
……広い草原に、穏やかな風が吹く。
それはルージュの赤い髪を揺らし、牧場作業用の服をはためかせた。
ここに来た当初のルージュは立派な鎧や剣を身につけていたのだが、それはすっかり蔵にしまわれて……
今ではもう、丈夫で汚れてもいいオーバーオールと、これもまた丈夫で、そしてすっかり薄汚れて洗っても茶色いままのシャツという服装になってしまっていた。
「あとさあ、私な、ここに闇の竜王がいると知らされて、またぞろかの竜王が戦争でも起こそうと画策しているのではないかと、そう思っていたんだよ」
ルージュの視線がヴァイスをとらえる。
その赤い瞳には、なんとも言えない、悲しみのような、楽しさのような、よくわからない色が浮かんでいた。
「実のところ、戦争が終わった今の世の中に一撃を入れるための戦力を闇の竜王が集めているのではないかと……まあ、そういうのもな? ちょっと思っていたんだ。そして、水の竜王に出迎えられて、なんやかんや言われはしたが……それでもな、いつかここの集落に集った連中で、世界に対して戦争を仕掛ける可能性があるかなあと考えていたんだよ。だって、『暗闇の刃』と『火炎刃』が召集されてるんだ。なにかあるだろう?」
ヴァイスはルージュらが参加していた戦争についての知識を持っていない。
……いや、習いはしたのだが、教鞭をとっているルージュや、あのダンケルハイトと、教わっている戦争の空気感が、まったく合わないので、いまいち『戦争経験をした人が目の前にいる』という実感が薄いのだった。
「私は争いに生産性はないと思っているし、復讐は、なにも生み出さないと思っている。……うん、でもね、いいんだよそれで。生み出すとかどうでもいい。ただ滅ぼしたいだけなんだから」
ルージュは普段こそ折り目正しく格好よい女性だが――
話が社会とか都会とか上司とかそっち方面にいくと、思想が一気に危なくなる。
「だからこう、都会から追放されてスローライフをしつつ、戦力をたくわえて、兵站ラインを築いて、そうしたら、一転攻勢とかもするかなと思ってたんだけど……まあ、ないよね、そういうの。さすがにもう数年過ごしてるから、ここがそういう目的の場所じゃないっていうのは、わかる」
「ええと」
「……ああ、すまない。なんの話だったか……そうそう、私が都会に帰らないのは、まあ、だからさ? 黙ってこっちに来て、それで都会の方がなんの混乱もなくて、しかも、ここにいても特にこれから波乱もない。だから、もし都会に帰るとすれば、それは、『ただ帰る』だけになるだろう?」
「そうですね」
「あまりにも悔しいじゃないか」
「……」
「私は……かつての上司や、私を馬鹿にしてた連中が、苦しんで、私の存在を待ち望んで、私に頭をこすりつけて許しを乞う、その頭を踏みつけてやりたいんだ。ようするに、凱旋だよ。それ以外に、私の帰り方はない」
「……」
「今戻っても、突然失踪したことを謝らないといけないだろう? あの上司に? 同僚に? 部下に? 都の連中に? 謝る? 私が? 私が謝る⁉︎ あの、あの……!」
「落ち着いてください」
「……ふぅ。すまないね。というわけだ。おそらく、ただ帰って、復職を望んで、いろんなところに頭を下げることになれば……私は憤死する。だから、スローライフから抜けられないのさ」
ルージュはもう正気には戻れないほど、心に深い傷を負っているのかもしれなかった。
ヴァイスはだから、ルージュを刺激しすぎないように気をつけて言葉を選び、
「つまり、ここでの暮らしが好きだから居残っているわけではない、と? ここでの生活はやっぱり、不便ですか?」
「不便だよ。すごく」
「……」
「……私は闇の竜王が恐ろしいので、あまり、君の行くすえの決め手になるようなことは言いたくないが……ここの暮らしはね、『都会にいたくない理由』がない限りは、しないようなものだ。アトラクションというか、テーマパークというか……ここで三日も過ごして、『ああ、たまにはこんな、原始的な暮らしもいいかもしれないな。でも、やっぱり文明はいいものだな』と再確認するような、そういう場所だ。いや、私はそれでもあの連中のいる都会より、ここが好きだがね」
付け加えるように怨嗟を吐き出してから――
ルージュは、ヴァイスに、告げた。
「君はずいぶん長く、迷い続けているようだ」
「……」
「いくら私や水の竜王に『ここ』と『都会』の比較を聞いて回ったところで、君の中で答えが出るとは思えない。……というより、君はもう、自分がどうしたいかはわかっているのではないか?」
「それは……」
「……都会に住まう連中を避けてここに来た私が言えることではないので、今まで言わなかったが……」
「はい?」
「逃げるのもほどほどにしないと、『もう遅い』という事態に陥るぞ」
「……」
「私は君を後押ししない。君は、君の責任で、君の意思で、君が話し合うべき相手と話し合うといい。――君の悩みと迷いと決断は、すべて、ムートたんのためのものなのだろう?」
――ここでの暮らしは、いつか終わる。
ここは世界の端っこでしかないというのは、何度も何度も何度も、ルージュや水の竜王の話を聞いて理解したことだった。
そして、ここがいつか世界に取り込まれるというのも、どうしようもなく確信できてしまうことだった。
ずっと昔、物心ついた時から世界と切り離されたような場所で生きてきた。
自分も。
もうここにいない彼女も。
そして、ムートも。
「……私は、いつか、ここが世界とつなげられる日が来る時に、ムートたちを守って、導いて、世界での生き方を教えてあげられるようになりたいんです」
「立派な心がけだ」
「それに、この集落をもっとよくするためには、外の世界の知識が必要だというのも、偽らざる本音です」
知識だけなら、伝聞や本でもいい――
そんなことを言われた。
その通りだと思う。
だから、真に欲しているものは、体験なのだろう。
世界に対して少しずつ慣れていくという、そういうことを、したいのだろう。
「でも、私、怖くて……それで、ずっと、話を聞くだけで、行動を起こせないままで……」
「かわいい。……うむ、まあ、なんだ。たしかに、いつかこの場所は世界の一部となるかもしれない。しかし、それはなにも、今日や明日の話ではないとは思う」
「でも、今日、決意できない私が、十年後には決意しているでしょうか?」
「していない。絶対にだ」
ルージュは真剣な顔で述べて、
「むしろ、先延ばしにすればするほど、決意をするモチベーションは、にぶるばかりだろうな。私を見るといい。昨日『都会に戻る』決意をしなかった私は、今日、さらに都会に戻りたくなくなっている」
それは見事な反面教師であった。
……ヒトは簡単には変われない。
ダンケルハイトもそうだし、ルージュもそうだ。
自分ももちろん、そうなのだろう。
だから、どこかで、動機はなんでもいいから、決意して行動しなければいけない。
そしてそれは、早い方がいい。
少なくとも、決意を必要だと考えているなら、さっさとやってしまうに限るのだ。
そして、理由はなんだっていい。
その時、ルージュが背中をあずけている青牛が『んモォ〜』と鳴いた。
ヴァイスは、言う。
「青牛さんも、そうした方がいいと言っていますよね」
ルージュは一瞬、妙な表情になった。
しかし、ハッとして、笑う。
「そうだな。そう聞こえた」
「……妹に話してみます。ここから去って……戻らないわけじゃないけど、去って、世界に触れてみるって。ここをもっといい場所にするために、出ていくって、話してみます」
ヴァイスは牛がモーと鳴いたから、妹にこの土地を去ることを話してみようと決意した。
決意の理由は、なんだっていい。
決意しない理由なんか見境なく思いつく。
だのに、決意をする理由にだけ見境がなければならないというルールなんか、ないのだから。




