51話 バカの目覚め
年の暮れになれば忙しかったスローライフもいちおうの休息期間に入る。
その集落にはもはやヒトが生きていけるだけのあらゆるものがあった。
もちろん、街暮らしとはなにもかも違うのだろうけれど、『ただ、生きていく』という、簡単そうでいて難しいことは、安定的にこなせるようにはなっていた。
日々は相変わらず忙しい。
けれど、それでも、余裕ができた。
そうなるとやはり、ヒトは『生きていく』以上のことに目を向けるのだろう――
「クックック……ハッハッハ……ハァーハッハッハ!」
闇夜の中に恐ろしい笑い声が響き渡る。
その声の主は狭苦しい石の祭壇の上にあった。
四隅を篝火で囲まれたそこにあるのは、巨大な骨だ。
この骨格はヒトではない。
四足歩行であろうつき方をした四肢があり、背中には翼のようなものがあり、腰の後ろからはしっぽのものであろう骨が生えている。
顔の形状はトカゲに近く、しかし、何もかもが巨大だ。
こんなものが四角い石の室の中でとぐろを巻き、四隅を篝火に囲まれているのだから、もしもこの光景を見る事情を知らぬ者があったならば、邪教の儀式に出くわしてしまったのだと震え上がり、己の不運を嘆くかもしれない。
しかし、そこにあるのは邪教の神程度のものではない。
闇の竜王。
世を構成する六大元素のうち一つ、『闇』を司りし竜王――
ご近所さんには、いつも楽しそうに笑っていると評判の骨なのであった。
「フハハハハ! ……ダンケルハイトよ」
地の底より響くような低い声が、呼びかける。
すると、スッと竜王の眼前にひざまずく者があった。
ややむっちりとした女性だ。
特徴的なのは、エルフを思わせるとがり耳だろうか。
しかし、エルフではないのだ――かの人種は色素の薄い白い肌に金髪碧眼が特徴だが、この女性は、黒髪に褐色の肌を有している。
ダークエルフ――そういう、混血の人種であった。
季節は冬になり、じきに雪でも降ろうかというほど気温は低くなっている。
にもかかわらず、胸や腰回りなど最低限の箇所しか隠していない、露出度の高い衣服を身に纏っている。
袖がなく、ズボンの裾は膝よりはるかに上にある。
この気温でその服装は、はっきり言って理外……正気の沙汰ではない。
ならば彼女はなぜ、そんな服装をしているのか?
闇の竜王に仕える立場の者の、制服のようなものか?
上位存在の目を喜ばせるために扇情的な服装をする巫女……そういうものは、ないでもない。彼女もそういった意図で、この服装をしているのか?
否。断じて否である。
闇の竜王は、忠実なる部下たるダンケルハイトに向けて、言う。
「ダンケルハイトよ――貴様、そろそろ、温かい格好をしろ」
しかし、ダンケルハイトは『それだけは聞けない』というように、目を伏せたままゆったり首を横に振り、答えた。
「あたしは、物心ついてからずっと、この服装です。今さら服装を変えるなどできません」
「それはなぜだ?」
「それが、あたしの誇りだからです」
人でも魔でも、かつて子供だったころ、こんな同級生がいなかっただろうか?
『一年通して半袖半ズボンであることを、アイデンティティにしている者』。
ダンケルハイトはまさにそのタイプであった。
薄着でいることで、己のなにかを証明しようとしている。
薄着であることでなにが証明できるのか……それは、わからない。周囲の者も、みな、『厚着しろ』『そろそろヘソを隠す年齢だ』と言う。
だが、ダンケルハイトはかたくなに、それをしないのだ。
誇りだ、と彼女は言う。
そんなことをして守れる誇りがあるのか、と人は言う。
あるのだ。
少なくとも、ダンケルハイトの中にはあるのだ。
だが……
いい加減、見てるだけでも寒いので、そろそろダンケルハイトに上着、いや、少なくとも袖とズボンの長さを実装をしてくれ――
そういう陳情が数多寄せられた結果、こんな深夜に、闇の竜王自らダンケルハイトに談判する事態に陥っているのであった……
「クックック……」
闇の竜王は笑った。
かの存在の『笑い』にはさまざまな場面で発せられ、その意味も単一ではないが……
今のは、『笑うしかない』の笑いであった。
「ダンケルハイトよ……この集落にはお子様もいる。そして、お子様というのは基本的に暑がりだ。だが……ヒトは、弱い。いくら暑かろうが厚着をせねばならん時期というのがある……本人は大丈夫と言っても、体は実のところ冷えている……そういうケースがあるのだ」
「はあ」
「そういった時に、お子様どもに温かい服を着ろと言う。すると、厚着をしたくないお子様は、どういうふうに反論するか、知っているか?」
「いえ……」
「『ダンケルハイトだって薄着だよ』」
「……」
「なにか、思わんか?」
「あたしは……ガキどもに『ダンケルハイト』と呼び捨てにされているのですか?」
「ククククク……!」
闇の竜王は黒々とした夜空を見上げた。
かの存在の脳裏(脳という器官を備えてはいないが)によぎるのは、かつて、ダンケルハイトやダークエルフどもと過ごした時間であった。
まだまだ戦乱の最中であるその時代――
偶然に拾った赤子を、気まぐれで育てたのだ。
そこにはワラワラとダークエルフの赤子が落ちていたので、闇の竜王はヒトの子が地面から生えるものだったのかと勘違いし、自分も生やしてみようとひらめいた結果、竜骨兵が生まれたということもあったが……
ダンケルハイト以下ダークエルフどもを、闇の竜王は育て上げた。
その過ぎ去りし日々……幼女時代のダンケルハイトは素直で、聞き分けがよかった。
いや、当時から微妙な我の強さの片鱗はあったものの、それでも、ここまで話が通じないというほどではなかったはずだ。
間違いないと、判断せざるをえない。
今のダンケルハイトは、幼きあの日より――バカになっている。
しかも、人の忠告を素直に聞かないタイプのバカだ。
「骨が折れる……!」
「ええ⁉︎ ど、どうされました⁉︎ お体に異常が⁉︎」
「馬鹿者め! 心の骨だ! ……ダンケルハイトよ。俺は貴様を信じ、貴様の『気付き』を待った。かつて放逐した際にも、そうだった。放逐の一月前から放逐すると言い続け、その時間を準備期間として与えた……しかし貴様は、なんの準備もしなかった!」
「はあ」
「『はあ』ではない! ……そうだ。俺の失敗よ。『一月あとには暗闇の刃隊は解散する。それからは戦いを封じ生きるがいい』と言っていた……こう言えば、戦わない生き方を模索し、その準備をすると……『察する』と、信じたのだ」
「なるほど……しかし闇の竜王様、それは、無理というものです。物事ははっきり言わないと、伝わりません」
「ククク……! 痛感しているわ! ゆえに、俺はもはや、貴様の気付きは、待たぬ……! もう貴様もいい年齢だ。これから先、その頭を使わない生き方を改めることも、もはや、あるまいよ」
「おっしゃる通りです」
「肯定するな……!」
「いえ、しかし、闇の竜王様に嘘はつけません!」
わかるか、この。
会話一回ごとにすさまじいダメージを受けるこの感じが……!
闇の竜王が司るものは闇。
暗闇に向けて刃を振るったところで、なんの痛手を与えることもできまい。
だが、たまたま、暗闇の中にいた誰かに致命傷を与えることはある……
闇もさほど無敵ではないのだ。
「ダンケルハイトよ。この俺の名において命じる」
「はは!」
「厚着をせよ。袖つきの服をまとい、せめて膝丈のズボンをはけ。あと、上着をまとえ。ヘソを隠せ」
「そ、そんな……!」
「フハハハハ! わけもなくそのあたりの地形を変えてやりたい、そんな気分だ!」
「お供します」
「しなくていい」
「そんな! 破壊活動なら、このあたしたちにお任せください!」
「フッ。俺もまだまだ、ということか。『察する』という機能を諦めたそばから、察することを求めるとはな。……貴様との会話があまりにも噛み合わないので、ストレスがたまり、それの発散のために暴れたいと、そういう意味で『地形を変えたい』と述べたのだ!」
この集落においては有名な話だが、闇の竜王はむやみに地形を破壊したがる竜王ではない。
むしろ周辺環境の維持・保全にはかなり注意を払う竜王である。
それが地形でも変えようかと述べるほどのストレス……
いかほどのものか、余人にはそのすべてをうかがい知ることはできないだろう。
まさしく、闇。
底の見えぬ、闇のようなストレスだ。
ダンケルハイトは真剣な顔をして黙り込み、それから、述べる。
「闇の竜王様……あたしは、気付いてしまいました」
「なんだ」
「……いえ、前々から、薄々そうではないかと思っていたのです。直接的にそう言われたこともあります。けれど……それは、なんというか、気安い軽口とか、根拠のない罵倒とか、そういうものだと、思っていたのです」
「……」
「けれど……いえ、ここは、確認のためにも、うかがいたく存じます。……闇の竜王様」
「なんだ」
「ひょっとして――あたしは、バカなんですか?」
「そうだ」
その声は重苦しく、そして、地響きのように低かった。
篝火がバチバチと爆ぜる音だけが、しばし、夜闇の中に響く。
静寂だった。息が詰まるような静けさだった。
夜というものが一つの濃密なかたまりになってしまったかのような……水よりなお重苦しいその中で溺れ、沈んでいくような、そんな、息苦しさと重苦しさだった。
ダンケルハイトはしばらく呼吸さえ忘れていたかのように闇の竜王をじっと見て、そして――
「闇の竜王様……あたしは、バカなんですか?」
「そうだ」
「それは、その……真剣なやつ?」
「そうだ」
「こう、あるじゃないですか。特に知能がまぬけみたいな意味ではなくって、仲間内で軽い感じで『バーカ』って言うやつ。それではなく?」
「ダンケルハイトよ」
「はい」
「貴様の知能は……とても、まぬけだ」
「……」
「悲しいほどに――頭が、悪いのだ」
闇の竜王は、笑わなかった。
ダンケルハイトは、静かに、その言葉を受けとめるように、胸に手を当てた。
「そうじゃないかと、思っていました」
「……」
「まったく気付いていなかったわけでは、ないのです。なにか、こう、世間の、普通に育った連中と、話が通じないな? という瞬間があり、会話の中にたびたび生じる、ちょっとした相手の沈黙などに、なにか、おかしさを感じることが、たびたびありました」
「……」
「ルージュなどと会話をしていると、あいつが急にちょっと黙ったあと、『なるほど』とか言ってから、急に、あたしにわかりやすいように話をします。あれは……発言のレベルをあたしに合わせて調整していたんですね」
闇の竜王はなにも言わずに、ただ、話を聞いた。
今、ダンケルハイトは己がバカであることに気付き、成長しようとしている。
そこに余計な言葉を投げかけたくなかったのだ。
ダンケルハイトは、またちょっと沈黙し……
「ああ、あたしは――バカでした」
「……」
「きっと、ヴァイスやムートよりも、バカなのでしょう」
「……」
「闇の竜王様」
「……なんだ」
「あたしは、思うんです。あたしは、バカです。自分で思ってたより、けっこう、とんでもないバカです」
「……」
「ここまできたら、これはもう、個性なのでは?」
「……………………なんだと?」
「おおよそ、他の者が及びもつかないほど、バカなのです。これって、すごいことですよね?」
そうだった――
ダンケルハイトは、バカで、酒飲みで、薄着で……
そしてなにより、自分に、甘い。
とても、とても、自分に甘い。
「闇の竜王様……あたしは、決めましたよ」
「考え直せ」
「バカを、極めます」
「考え直せ」
「あたしバカだから、『考える』とか、よくわかりません」
「開き直るな馬鹿者!」
「いや、でも、逆にですよ? バカだと自覚したバカ、よくないですか?」
「なにがだ」
「ぶっちゃけあたし、ヴァイスのこと、弱いくせに偉そうに指示してくる生意気なガキだと思ってましたけど……自分がバカだと自覚した今、『なんだこいつ偉そうに』ではなくって、『お前にあたしを使いこなせるかな? こちとらバカだぞ』って気分になって、勝った気がしますよね」
「貴様はなにと勝負をしているのだ」
闇の竜王が笑いもせずにツッコミに回る事態はなかなかない。
ダンケルハイトはスッと立ち上がり、顔の前で拳を握りしめる。
その表情はすがすがしく、その目は希望を見出してきらめいていた。
「ありがとうございます、闇の竜王様。あたしはまた、あなたに生きる道を示された」
「俺はなにも示しておらん」
「……ええ、そうでしょう。あなた様は、いつも、そのように、己の手柄を誇りません」
「本気で言っている」
「わかってます!」
なぜかバカを自称する者ほど、他者の発言に耳をかたむけない傾向がある。
「あたしはこの集落一の……いえ、世界一のバカになります! よし、今日は新しいあたしの門出を祝って宴会だ!」
ダンケルハイトは走って去っていった。
闇の竜王は、夜の中に取り残される。
「クックック……ハッハッハ……ハァーハッハッハ!」
その夜、笑い声がいつまでも響き続けた。
もう、笑うしかなかった。




