48話 心の闇
「闇の竜王よ、私はそろそろ、一度、街に帰ろうと思っている」
唐突にそんなことを言われて、闇の竜王はとりあえず笑った。
昼下がりの集落に響き渡る大笑――
闇の竜王にとって、笑うという行為は実にさまざまな意味をもつが……
今回、その笑いに秘められた深淵なる意図は、『思考時間稼ぎ』であった。
ルージュという女性について、思いを馳せる。
そう、彼女だけは、ここ以外に『帰るべき場所』があるのであった――
というか、『魔』の領域においては六大将軍という軍部の偉い地位についている、普通に社会の重要人物だという。
しかも彼女は『混血』だ。
人と『魔』との長きにわたった戦争は終わり、世界には平和が訪れている。
……だが、未だ取り払われない壁が人々の心にはあるらしく、人の領域では『魔』の者が、『魔』の領域では人の者が、それぞれ厳しい世間の目にさらされているらしかった。
そして、人と『魔』の混血である者は、両方の社会において差別対象となっている。
このルージュというのもリザードマンハーフと呼ばれる人種であり、すなわち混血だ。
人の体をベースに、こめかみからねじくれた角が生え、腰の後ろにはウロコに包まれた太いしっぽがある。
真っ赤な瞳には爬虫類を思わせる縦長の瞳孔があった。
それ以外はほぼヒトだ。
真っ赤な長い髪も、背の高いスレンダーな体つきも、ヒトとして美しい部類に入る、らしい。
闇の竜王にはヒトや『魔』の美醜感覚はよくわからない。
なぜならば闇の竜王が司るものは闇。暗闇の中ではすべてのものがよく見えないので、綺麗とか醜いとか、そういう基準がどうでもよくなるのだ……
……ともあれ、混血であるところの彼女が、『魔』の中で高い地位を得ている。
あきらかにヒト側の血筋を受け継いでおきながら、魔の軍部のナンバー2あたりにいる『六大将軍』のナンバー六らしい。ややこしい。
そんな彼女だから、帰ると言うことも、まあ、あるだろう。
「――フハハハハ!」
闇の竜王は思考時間を終えて、笑いをいったん切ってから、
「よかろう。そも、六大将軍というのは、軍部においてなくてはならぬ司令官であるはず。二年も席を空けていれば、社会に大きな混乱を招いたのではないか?」
闇の竜王は詳しくは知らないが、どうにも、このルージュという女はだいぶ色々な仕事を押し付けられていたようだった。
この集落に来た動機も『自分がいなくなったあと、自分の存在の大きさを思い知ればいい』という、半ば復讐というのか、そういう感じの動機だったはずだ。
あとからそういった話を把握した闇の竜王は、ルージュをさっさと社会に帰すべきか悩んだ。
けれど、闇の竜王が司るものは闇だ。
先が見えぬもの。すべてを内包するもの。足元さえおぼつかず、前を見る余裕などないもの。
すなわち――考えてもしょうがない。
常に場当たり的に問題へ対応し、思いつきでいろいろやってみるのが闇の竜王である。
そういうあたりを他の竜王などに危険視されているぐらいの、いきあたりばったり主義なのだ。
ルージュの存在が起こしかねない問題もいくらかあったけれど、『その時はその時だ』ぐらいに思っていた。
さて、二年というスローライフの歳月が、彼女の内心にいかなる変化をもたらしたのか?
だいぶ都会のストレスがたまっていた彼女は、冷静に己を見つめ返し、あてつけみたいな理由でこんな僻地に来たことを反省してもいいだけの時間は、とっくに経っている。
だから、己の職分を思い出し、さすがに将軍職を二年もほったらかしにしたことを反省し、社会に戻るのだろう――そういうふうに思われた。
ルージュはギリっと歯を噛み締めてから、
「……特に、混乱は、ないようだ」
あまりにも悔しげに、述べた。
闇の竜王は思わず黙った。
ルージュの寄せられた眉根や噛み締められた奥歯、握りしめすぎて震えている拳などから、彼女の中に醸成された深い闇を感じたのだ。
そう、闇の竜王が司るものは――闇。
闇は広く、あたたかく、様々なもので満たされたものではあるが……
一方では、暗く、冷たく、どろどろしたイメージがあるのもまた、事実だった。
ルージュは握りしめた拳を持ち上げて、目を閉じながら続ける。
「火炎刃の部下に、この二年、それとなく街の様子を調べさせていたのだ。……連中には家庭もある。家族のところに顔を出すついでに、とその程度の調査ではあった」
「ふむ」
「だって、なあ? 普通、六大将軍の一人が唐突に消えたなら、それは、世間を騒がす一大事だろう? ああ、いや、あなたの部下どもに社会性がないからわかりにくいかもしれないが、要職にある者が仕事をほっぽりだして失踪などしたら、連日そのことで大騒ぎになるのが、社会の普通なのだ」
「フハハハハ!」
部下――ダークエルフどもに社会性がないと言われて、なにも否定できなかった。
笑うしかねぇや。
「うん、たしかに、最初は、ものすごい大騒ぎだったらしい。その様子は、なんていうか、胸がすく快事だったよ。私にセクハラを働いていた大元帥も、私を混血だ女だと見下していた世間も、私の身を案じ、失踪について混乱していたようだ。それは、本当に、気持ちがよかった」
そう述べる彼女の歪んだ笑顔には、ダークエルフどもよりもよほどものすごい闇の素養を感じた。
「だが……それも、一週間ほどで、次のニュースにとって代わられた」
「……」
「そして、今もちょいちょい調べさせているけれど、六大将軍の席は一つ空いたまま、なんの問題もなく、社会は運営されている。…………こんなことがあっていいものか!」
ルージュの握りしめた拳が、やり場なく振られた。
闇の竜王は石の寝所から出した長い首をもたげて『?』のかたちを作り……
「貴様はどうなってほしかったのだ」
「上司全員が自殺するほど追い詰められ、仕事で国家は回らなくなり、『魔』の者どもが私の偉大さ、私に押し付けていた職務の重要性を思い知り、私の抱えていたタスクが流れてそれに押しつぶされた政府の何人かが過労死していてほしかった!」
闇の竜王はたいていのことを笑い飛ばすが、さすがに笑えなかった。
素直に引いている。
「どうして⁉︎ どうして社会は『最初からこうでしたよ』とでも言わんばかりに無事運営を続けている⁉︎ おかしいだろう⁉︎ 将軍が失踪したんだぞ⁉︎ もっと、あるだろう⁉︎ なにか、あるだろう⁉︎ そうは思いませんか、闇の竜王よ!」
「フハハハ! まさか『水の』以外に、これほどまで振られて困る話題を俺に振るものがあるとはなあ!」
「……もはや、社会は、一度焼け落ちないとなにも理解しないと見た。だからちょっと『魔』の王都に戻って目についた者を片っぱしから皆殺しにしてきます」
目がマジ。
どうしたことだろう、二年間のスローライフで彼女のストレスは癒えるどころか、反対に燃え上がってしまったようだった。
こういう性格だと、どこでなにをしていても、勝手にストレスを感じそうで、生きていくのが大変そう。
「……して、ルージュよ。その報告を俺にして、どうする? 止めてほしい、ということもあるまい?」
「いえ、もう、やるんで。ただ二年間お世話になった関係でいちおうご報告したまでで、やるんで。絶対にやるんで。本当に、聞いてもらってなにか、とかはないですね。やるんでね」
ぶっちゃけてしまうと、闇の竜王には彼女を止める理由がなかった。
なぜならば闇を司る存在だ。
一方でルージュというのは、指揮系統的には炎の竜王の直下組織にあたる。
今でこそ宮仕え(本当の『今』はスローライフ)だが、彼女が将軍の地位を手に入れたのも、炎の竜王直属部隊として挙げた数々の戦果あってこそだった。
この暴走をどうするか決める者が彼女以外にあるとすれば、それは、炎の竜王以外にないだろう。
だが、炎の竜王はこういう暴走が大好きなので、止めないだろうなあ、という予見もあった。
なにせあいつ、次の戦争までやることないからずっと寝てる、みたいなことを平気で言う戦闘狂だ。
もしも竜王同士で戦わないという暗黙の了解がなければ、普通にこちらが襲われそうなぐらいの危険生物である。
だからまあ、このまま行かせるべきなのかもしれないが……
「クックック……ハッハッハ……ハァーハッハッハッハ!」
「なにがおかしいか!」
「クックック……ハッハッハ……ハァーハッハッハッハ!」
「二回も三段笑いをするほどおかしいか⁉︎」
闇の竜王は発言をまとめる時間をかせいでいる。
そして――
「いやなに、脆弱なる貴様ごときが、今ようやくすべての生物が手に入れた『平和』に対し槍を放つという無謀さがおかしく思えたまでよ」
「だって、あいつら酷いんだもん! 私にさんざん仕事を押し付けて! ストレスを与えておいて! そのくせ私がいなくなってもすぐに忘れる! お前らのために働いてやったのに、こんな無法が許されるものか!」
「フハハハ! 面倒くさい!」
「私はただ……! 私の努力や苦労を知らないすべてのクソに、私が心で流したのと等しい量の血液を流してほしいだけなんだ!」
「そのようなことをしたとて、貴様が満たされるわけではなかろうに! だいたい、貴様一人で正規軍をようする『魔』の連中にいったいどれだけの傷をつけられる? せいぜい最初の奇襲で数人の無抵抗な市民を――」
「うるさい! 泣くぞ!」
闇の竜王、こういうキレ方をされたことがなくて止まってしまう。
ルージュは実際に涙をだばだば流しながら、
「……わかっている。わかっているのです、闇の竜王……復讐は、なにも生まない……」
「いや、そもそも貴様のそれは『復讐』か?」
「少し黙って私の話を聞いてください」
「ダンケルハイトあたりに言え」
「あいつは知能が低すぎて私の悩みに理解を示せない」
闇の竜王は『まあそうだな』と思ったので、他の候補を探してみた。
するとどうだろう――ルージュが抱えているような、社会という場所で起こる軋轢にまつわる悩みについて話せそうな相手が、マジで自分しか思い当たらないのだ。
ヴァイス、ムート、ニヒツ、クラール。
社会経験が皆無なので悩みを打ち明けてもキョトンとされるだけだろう。
ダンケルハイトとダークエルフども。
……まあ、その、なんだろう。はい。
ルージュの部下である火炎刃のリザードマンたち。
なにげにあの連中、『魔』の社会で幸福を見つけてしまっている。
しかもその幸福は軍部に身を置くルージュのもとを去って手に入れたものなのだ。話しているうちに殺害対象が彼ら自身になりかねない。
そして、水の竜王は論外である。
あいつにこんな弱みを見せたら、うまく利用されてネタにされたあげく、わけのわからない責務を負わされそうな感じがあった。
本当に自分しかこの悩みを打ち明けるに足る人物(人物ではない)がいなかったのだ……!
「クククク……!」
笑うしかねぇ。
しかし、闇の竜王は寛大とはいえ、さすがにこんなマジの闇を打ち明けられても面倒なのだ……
なぜならば、闇の竜王が司るのは、闇。
すなわち人から打ち明けられるまでもなく、すでに、闇はこの身に大量に備えている……! まにあっております……!
と、どうにかルージュの心を癒せそうな人材を探していたところ、唐突にある人材(人材ではない)の姿が脳裏によぎった。
それは――
「牛がいるではないか」
「牛?」
「そう。青牛だ」
それは集落にミルクをいくらでももたらしてくれる、集落唯一の畜産存在であった。
その畜生には闇の竜王の骨粉が与えられ、知性と言語能力を持っていたが……
乳の搾られ方に対してみょうにネットリとした声でリアルタイム実況をする姿がなんだかアウトで、未成年らの教育のために知性の規制を受けていたのだ。
だが、よくよく考えてみれば、乳を絞るのは、特にアウトではない……!
そして青牛、人格(人格ではない)的にはみょうに話せるやつであり、かつて、闇の竜王さえも誰にも語らぬ心のうちを吐露してしまったほどなのだった。
相談役としてこれ以上の適任もおるまい。
さらに、ミルクを飲むと気持ちも穏やかになる。
闇の竜王はこのひらめきを採用することにした。
闇!
「ルージュよ。貴様をこれより畜産部門の長に任じる。青牛の世話をよくし、彼女とよく話し、よくミルクを飲め。一月もその業務に専念した上で、まだ『魔』を皆殺しにしてやりたいなどと宣うのであれば、その時は……」
闇の竜王の深淵なる眼窩より、闇が立ち上り、炎のようにゆらめいた。
その時は……その時になってから、考える。
闇の竜王はいつだってそうしてきた。
ルージュにその意図が伝わったかは定かではない……
だが、彼女は多少緊張した面持ちになり、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「……わかりました。たしかに、私も冷静ではなかった。闇の竜王より任じられし、畜産部門の長、拝命いたします」
こうして、ルージュのアニマルセラピーが始まった。
彼女の心は癒えるのか、それはわからない。
けれど、その夜、青牛と語らいながら星を見る彼女の顔は、穏やかだった。
だから、きっと、いい方向にころがりはしたのだろう。
やはり、困った時は――乳牛に相談だ。




