十話 二つの絶縁宣言
天井から雫が落ちる。
その雫が石造りの床に広がり、大きな染みとなっていた。その染みの上に直接座っているのはルクスである。周囲は分厚いかべに囲まれ、目の前は金属製の格子で閉ざされている。
じめじめとした空気は肌に触れるだけでも不快であるが、そこから逃れる術はない。
ここは、ベッカー伯爵家の王都にある屋敷の地下だ。
地下にある狭い牢獄に、ルクスは一人閉じ込められていた。なぜ貴族の屋敷にこのような牢獄があるのか、不思議に思うかもしれないが、自分たちの家や国に攻撃を仕掛けてきた者、やむを得ず拘束をしなければならない事態に陥ること、そのような不測の事態に巻き込まれやすいのが貴族である。普通であれば使う機会はないが、国を守る立場として慣習として備え付けるのが一般的らしい。
例にもれずそれはベッカー家にも存在した。
最も、ルクスはこの地下牢でいくつの夜を越えたかわからないほどには慣れ親しんでいる場所だ。だからといって居心地がいいわけではない。
そんな地下牢だったが、唐突に足音が響いた。
もちろん、食事は運ばれてくるし汚物を片付ける使用人もやってくる。だが、この足音は違った。ゆっくりと、優雅ささえ感じるようなその足音にルクスが顔を上げると、そこに立っていたのはベッカー家当主であるルクスの父親が立っていた。
冷たい視線でルクスを見下ろしている。
「無様な姿だな」
「……父さん」
見下すものと、見下ろされるもの。
見るからに立場が明確な二人は、視線と言葉を交わす。
「貴様に父親呼ばわりさえる覚えはないがな。全く……本当にお前は厄介ごとしか持ってこないのだな。サジャがいる神聖皇国に無礼な行いをするなど。そんなにサジャが憎かったか? だが、お前如きにどうこうされる息子ではない。目論見が甘かったようだな」
「いえ、……そういうつもりでは」
「では、どういうつもりだったというのか。もちろん……お前の噂は王都にも伝わって言る。ふんっ。死神などと、そのような世迷言に浮かれているからこうなのだ。そう遠くないうちに陛下から処分が下るだろう。せめてもの情けだ。勘当したとはいえ、もとは我がベッカー家のもの。ベッカー家で処刑も執り行うことにしてやろう。せいぜい、それまでは、大人しくしているといい」
それだけ告げると、ベッカー伯爵は踵を返す。
その後ろ姿を見つめるのはルクスだ。その視線は、じっと父親の背中を見つめていた。疑問だけを心に残したまま、それを問いかけることすらできずに。
「は、ははっ」
父親が立ち去った後、ルクスは笑った。なぜ笑ったのかは彼には理解できていない。しかし、それが楽しさからくるものではないことはわかっていたのだろう。その目からは涙が流れていたのだから。
魔法適正がDだった自分。
そんな自分はこの家を出たが、すぐに壁にぶつかり路頭に迷った。それを助けてくれたのがアルミンと師匠である。
二人の支えがあったルクスは大道芸人としてやっていくことを決めたが、カレラとの出会いで再び冒険者となった。今では、死神と呼ばれ名誉騎士という爵位や勲章までもらっている。
ここまでくると、自分は冒険者としてそれなりになれたのだと思っていた。
そして、事実周囲は認めてくれている。しかし、父親はそうではなかった。その事実に落胆しているルクスがいたのだ。
それは思ったよりもショックだった。
やっとの思いで、死地を乗り越えて得た名声。それすらも、父親にとっては価値がなかったのだろう。
命をかけた結果がこれだとしたら、やはり自分には何の価値もない。そう思わせるには十分な出来事だった。
ルクスが水の刃を使えば、目の前の格子は切り裂けるだろう。
使用人が片付けをしに来た時に、肺を水で満たせば鍵など容易に奪えるだろう。
だが、それはできなかった。
価値のない自分が逃げ出したところで、できることなど何もないと思ったからだ。最初はルクスの頭の中はカレラ達を助けなければ、という思いでいっぱいだったが今は違う。自分では何もできない。だから、しょうがない、という心境でしかなかった。
そんな無料感を抱きながらルクスは地下牢で日々を過ごす。
そうして一週間が経った頃。一人の来訪者が訪れた。
それは、使用人でもなければ、ベッカー家の関係者でもない。
ドンガの街から来たその人は、暇だからよったのではないか、というくらい軽い足取りで現れた。
その立ち姿はやや怪しげである。
細身のローブに、派手や装飾を施してあるそれは、魔法使いにも見えなくはない。ローブの足元から見える素足は輝いており、長い髪の隙間から覗く顔はとても妖艶で美しかった。赤い唇が艶めかしい。
その来訪者は項垂れ、床を見つめるばかりのルクスを見ると、ちっと舌打ちをする。そのあとに大きくため息を吐くと、けだるそうに告げた。
「何やってんだい、ルクス。師匠のところから無断で逃げ出してただですむと思ってんのかね、この子は」
ルクスはその声にようやく顔を見あげる。
そこに立っていたのは、ルクスの師匠――ウラ・トラレスであった。
◆
「……師匠」
驚いたルクスだったが、それ以上の言葉を紡げない。
それは、逃げ出した気まずさや、自分の無価値に気づいてしまったあきらめや、こうなってしまった羞恥だとか、さまざまな気持ちがないまぜになったせいかもしれない。
ルクスは思わず目を逸らしたが、ウラはぶすっとした表情を浮かべたままじっとルクスを見つめている。
ちなみに、ウラは女性である。
「で? 逃げ出した言い訳はあるかい? この馬鹿弟子が」
黙って俯くルクスにいらだったのか、ウラは手を振り上げて、げんこつを振り下ろした。当然、牢の外にいるウラからルクスに手は届かないが、その手から伸びた魔力の塊がルクスの頭がごちんと叩いた。
「っぶぇ――」
「なんだい、この子は、ほんとにイライラするね。さっさと謝れば許してやるって言ってんだ。ほら、なんとかいったらどうなんだい」
「でも、師匠、謝るって許してもらうって言っても、この状況じゃ――」
「いいから謝るんだ。私が謝れって言ってるのに逆らうのかい? ん? 助けてやった恩を忘れてるのかい?」
そういわれるとルクスは何も言い返せない。
拾ってもらった恩はそれこそまだ全然返せていないのだ。強制的ではあったが、ルクスはウラに頭を下げて謝罪をした。
「すみませんでした、師匠」
「それで? もう二度としません、は?」
「えっと……もう二度としません。申し訳ありませんでした」
「うむ、よろしい」
ルクスが頭を下げると、ウラは満足げに立ち上がった。
そんなウラをルクスは怪訝な様子で見上げていたが、ウラはさっきまでの苛立った様子は雲散し、笑みを浮かべている。
「っていうか……師匠はなんでここに? 俺がここにいるのをどうやって――」
「なんだい。それを私に聞くのかい? 大道芸人が不思議なことをしでかすのは当たり前だろう?」
「いや、それはそうなんですが……」
的を得ない師匠の言葉に、ルクスは不満げだ。だが、ウラは長い髪をくるくると指で弄びながらルクスへと語り掛ける。
「弟子の危機なんだ。駆け付けてやるのも悪くないと思ってね。で? あんたはどうしてこんなとこにいるんだい。さっさと助けに行かなくていいのかい?」
ウラの言葉から、事情は知られているんだとルクスは悟った。同時になぜ知ってるんだ? という疑問もなくはないが、ウラが前から不思議なのは変わらない。きっと問い詰めても流されるのがオチだろうと、ルクスはスルーすることを決める。
「だって……俺じゃ、カレラ達を助けられない。だったら、こっから出ても意味がないじゃないですか。っ――! っていうか、そうですよ、師匠! 助けてください! カレラ達がさらわれて、一月後にヒルデが殺されるって聞いて――俺じゃどうしようもないんです! 師匠! 助け――」
ルクスはそこまで言って口を噤んだ。
自分を見るウラの視線をみてのことだった。ウラに助けを懇願したルクスを見る視線が、まるで物をみるかのように冷たかったのだ。ルクスが慌てて口を噤もうとも、ウラはその視線を止めはしなかった。
「お前は本当に仕方がないね。言ってることも下らない。……一人で生きていんじゃなかったのかい? それができると思ったから私の元から去ったんじゃなかったのかい? 都合のいい時だけ人に頼るんじゃないよ。できることすらやらない人間を助ける理由なんて私んはあるはずもないんだからね」
ウラは格子にすこしずつ近づいていく。
「ちゃんと自分でやれることをやりな。だって、お前は悪魔さえも殺して大事な人を助けたんだろう? なら、次も助ければいいじゃないか。自信なんていらないよ。いるのは、ただやるという決意と、その手段だけ。お前はそれを持ってはいないのかい?」
ルクスは考える。
だが、確かに自分でもやれることはあるのかもしれない。しかし、必ず皆を助けられるかというと具体的な方法も思いつかなければ力もたりない。正面切って戦いを挑んでも、国相手に個人が勝てるわけもないのだ。
ルクスは思わず拳を握りしめた。
「……足りないんです」
「は?」
「足りないんですよ。俺の力じゃ国相手に勝てるわけがない……皆を助ける力なんて俺には、ないんです」
落ち込み続けるルクスをみてウラはため息を吐いた。
そして首を何度か横に振るうと、皮肉を込めた笑みを浮かべてルクスを見つめる。
「何言ってんだい。最初から、なにからなにまで勘違いしてるね、あんたは」
「……え?」
「やっぱりさっきの謝罪はなしだ。もうお前を許さん。これは、もう決定事項だからな」
「し、師匠」
突然の言葉に茫然とするルクス。
だが、ウラは笑みをさらに深めると、ルクスに告げた。
「まあ、突然絶縁宣言してもかわいそうだからねぇ。そうさね、餞別として一つ教えてやろうじゃないか。それを教えたらもう私とお前は師匠でも弟子でもない。いいかい? わかったね?」
「いや、師匠、待って――」
「私が教えるのは、お前の魔法の秘密さ……それを知りさえすれば、お前が何をできるのか。そしてこの世界でお前が何をすべきか、理解することになるよ」
意味深な言葉に二の句が継げないルクス。
その様子を見ながら楽し気なウラは、ゆっくりと、諭すようにルクスへと最後の教えを授けるのだった。




