二話 絶世の美少女と黒づくめの男
胃袋をこねくり回されるような不快感に目を覚ますと、視界に入るのは薄汚れた天井だった。ドンガの街に来てから世話になっている安宿の一室。体を起こした拍子に頭が痛んだが、鼻腔に香ばしいパンの香りに少しだけ気分がよくなる。
今日が七日に一回ある安息日なのだとしても、一日中寝ているのはさすがにだらけすぎだ。そう思ったルクスは額に滲んだ汗をぬぐい、湿った服を取り換える。魔法で生み出した水で顔を無造作に洗うと、だんだんと視界もはっきりしてきた。
一階に降りていくと、そこでは女将がせわしなく働いていた。既に日は高く、酒場も兼ねてある食堂には誰もいない。女将はルクスの姿を見つけると大きくため息をついた。
「残りものならあるけど、いるかい?」
「ああ、お願いするよ」
無愛想に食事を用意する女将。一年近くここに住んでいる身としては、その態度が本音とは裏腹なことがわかってくる。
それを表すかのように、用意されたものはとても残り物とはいえないほどの質の高さだった。堅めに焼かれたパンはごくごく一般的なものだが、かみしめると小麦の香りと甘みが口の中に広がっていくし、具の少ないただの野菜スープも、長時間煮込まれているのか野菜の甘みがこれでもかとしみだしていた。その二つが交わり生まれるおいしさは、間違いなくルクスの癒しになっている。
「いつも通り旨いね」
「無駄口叩いている暇があったらさっさとおたべ! いい加減、片付けが終わらなくてしょうがないのさ」
立ち去っていく女将の後ろ姿を見ながら、ルクスはゆっくりと食事を味わった。
その足で、街の外に出たルクスは、いつも通り川の近くを陣取った。といっても、周囲には人はいない。安息日である今日は、多くの人が仕事をせずに過ごしているが、ルクスはまだ大道芸人として修業中の身。暇があれば、こうして練習に明け暮れていたのだ。水場が近いのは、もちろん練習がしやすいからだった。
ルクスが成人の儀を迎えたその日から、彼の人生はがらっと変わった。優しかった家族は豹変し、学校で出会った友人たちは彼を嘲笑った。二年間の学生生活を終え、家を追い出された彼を待っていたのは過酷な現実だった。
なけなしのお金は街の身分を得るために消えた。冒険者になろうとしたが、日銭も稼ぐことすらできなかった。そんな中、見世物だと言われたルクスの魔法を見たのが今の師匠だった。
師匠は、ルクスの特異的な魔法を見て「芸をやってみないか?」と誘ってきた。当然、見世物と揶揄されてきたルクスからすると受け入れられるものじゃない。けれど、師匠はルクスの苦しみを静かに受け止め、そして生きる道を見出してくれた。その優しさも黒い打算の上にあると知ったときは少なからずショックを受けていたが、ルクスは師匠に感謝をしていた。
今では、一人前の大道芸人になろうと思い、こうして練習をしているのだ。
ルクスは普段やっている水芸――単なる水魔法なのだが――を一通り練習すると、魔法を使った疲労感からおもわず地面に寝そべった。
「はー、疲れた」
そういいながら、ルクスは口の中に水を生み出していく。口を開けることもなく、ごくごくと水を飲んでいくルクスだったが、ぼんやりと空を眺めながらひとりごちた。
「冒険者、か」
そうつぶやきながらルクスは、空に掲げた手を見つめていた。
アルミンとも語った通り、ルクスは冒険者になろうとしていた。その理由は、自分の魔法適正を知って手のひらを返した面々を見返したかったからだ。いつか、自分の力で成り上がりたい。そんな夢をもっていたが、いとも簡単に崩れ去ったのだ。
ルクスの魔法適正はD。
これは、五段階でいう下から二番目である。そもそも魔法適正とは、一度に放出できる魔力量をもとにランク分けされており、上に行くほど大きな魔法が使える。一番下のEは生活魔法と呼ばれており、使える人間の数は多かった。コップに水を灌いだり、火種を生み出したりと便利なのだが、それ以上の使い道はない。冒険者の中でほとんどを占めるCランクは、殺傷能力のある魔法が使えるものとして認識されていた。人間相手に使えば、簡単にその命を奪える程度の魔法。それが、Cという適正だ。
ルクスのもつDという適正は、生活魔法よりも強く、冒険者になるにはいささか心もとない、といったものだった。
加えて水属性というのがまずかった。
いくら魔力を加えても、生み出せるのは水だけ。おおよそ、飲み水の確保くらいで戦闘には使えない属性として認識されていたのだ。
戦闘に使えるほど込められる魔力は多くなく、鍛えたとしても殺傷能力が乏しい魔法。それがルクスの授かった才能だった。
「よし! もう一年も前のことだからな。気にしても無駄無駄! よし! さっさと練習を終えて街に戻るか」
勢いよく起き上がったルクスだったが、ふとした拍子に昨日の稼ぎを思い出す。というのも、混じっていた木の実を昨日食べることを忘れていたのだ。
「そういえば……ちょうど練習して腹が減ってたんだよな」
そうつぶやきながら、上着のポケットから木の実を取り出した。
見たこともない、異様な木の実。それでも、すぐさま食べないという選択肢を選ぶほど、ルクスは金に余裕もなかった。食べられるものならと、この機会を逃さないように口に放り込もうとするも、もしかしたら毒かも、という懸念も湧き上がってきてその手を止める。
口元にもってきては離すということを何度もやっていたその時――。
突然、目の前の茂みから人が飛び出てきた。
「んなあぁ!」
当然、避けられるわけもなく、ルクスはぶつかり、そしてそれに押されるようにして木の実は口の中に転がっていった。
甘味と苦みと酸味と塩味を同時に感じ、何とも言えない表情を浮かべたルクスだったが、もはや、飲み込む以外には選択肢がないほど喉の奥へと転がっていく木の実。どうせならと、勢いよくごくんと飲み込んだ。
「あー! つい飲み込んじまったじゃないか! どうしてくれんだよ! おい!」
ルクスと絡まるように倒れていた、茂みから出てきた人。
その人にルクスが文句を言っていると、ようやくその人はむくりと体を起こした。そして、その人をみてルクスは絶句する。
目の前の人。
それは、一言でいうのなら異質だ。獣や魔物があふれる森に相応しくない存在――美しい少女がそこにはいたのだ。
真っ白い肌と水色の髪。どちらも日の光にきらめき眩しくすらある。それよりもさらに輝くのは、二つある瞳だ。サファイアと見紛うほどの透き通る青。そこから漏れでる美しさはこの世のものとは思えず、ルクスは思わず見とれてしまっていた。それほどの素材からできている少女は当然のことながら美しく、立っているだけで高貴さがにじみ出てくるような、そんな存在だった。ルクスよりも幾分年下に見えるのだが、それが美しさを邪魔するようなことは決してなかった。
その瞬間、ルクスの中の時間は止まる。
視界にはその少女しか映らずに、全体がキラキラと輝いていた。
胸の鼓動が早鐘のように鳴り響き、その音しか聞こえない。
思考のすべては目の前の少女に集中し、それ以外のことを考えられなくなっていた。
全身を締め付けられるような感覚が襲い、思わず胸元を抑えてしまっていた。
そんな初めての感覚に動揺していたルクスだったが、これが何か、まだルクスの中で答えはでない。永遠とも思える瞬間を通り過ぎたルクスは、感じたことのない多幸感に襲われていた。
ルクスをそんなにさせた美しい少女だったが、その表情はすぐさま険しくなりルクスへと迫ってきた。急に近づいてくる少女に動揺が隠せない。その動揺を隠すかのようにルクスは顔を背けて口を開いた。
「お、おいおい! お前がぶつかってきたんだからな!? そんな顔したって別に俺は――」
「逃げて」
自分に非はないと弁明しようとしていたルクスは、自分の耳に飛び込んできた言葉の意味を咄嗟に理解できなかった。
「は?」
「早く逃げて」
必死の形相でルクスに告げる少女。だが、彼女が現れた茂みがガサリと鳴ると、すさまじい勢いで振り向いた。
「もう来たの……?」
未だに少女と重なっているルクスだったが、その様子をみて同じように茂みに視線を向ける。すると、そこには、いつの間にか五人の仮面の男たちが立っていた。皆、黒ずくめで見るからに怪しい恰好だ。
「なんだよ、これ」
その呟きに応えるものはなく、ルクスは目まぐるしく変わる状況に、ただただ混乱することしかできなかった。